149話「止めても終わらない」
黒木が編集長に呼ばれたのは、出社して間もなくのことだった。
会議室には編集長だけでなく、編集部の管理を担当する社員と、法務部の人間も同席していた。
机の上には、黒木が提出した取材資料が置かれている。
「これで全部か」
編集長が尋ねる。
「はい」
「外部から入手した写真の、提供者に関する記載がない」
「取材源の秘匿は、編集者として必要なものです」
「金を払って買った相手でもか?」
黒木の顔が止まった。
編集長が、別の資料を机の上へ置く。
湯浅と黒木のLINE。
黒木から湯浅へ金が振り込まれた記録。
記事への協力、樹里と陽菜の入社時期、退勤後の行き先。
それぞれの情報が渡されるたびに、金の話が続いている。
「島川不動産から追加の資料が届いた」
「これは、取材協力への謝礼です」
「会社を通さず、社員個人へ渡した金が?」
「取材を円滑に進めるために必要だと判断しました」
「誰の判断だ」
黒木は答えられなかった。
「経費申請は出ていない。企画書にも記載がない。お前が個人的に払った金だな」
「はい」
「湯浅さんから得た情報を使って、日高さんと櫻井さんが向かう店へ行ったのか」
「以前から興味のある店でした。偶然です」
「偶然?」
編集長の声が低くなる。
「その店から、今朝連絡があった」
黒木が顔を上げた。
「中村美園さん。Roseの経営者だそうだ」
数十分前。
美園は、黒木の名刺に記載されていた編集部へ電話をかけていた。
黒木が何度も店へ来て、客や自分の過去を探っていたこと。
島川不動産から接触を禁じられたあとも来店したこと。
美園の不在中、店を任されていた凛や、偶然訪れたまどかから話を聞き出そうとしたこと。
そして、写真を売った人物との面会を仲介したこと。
美園は声を荒らげなかった。
黒木を解雇しろとも、金を払えとも言わなかった。
ただ、起きたことを順番に説明した。
『私には、店とお客様を守る責任があります』
最後に、美園はそう告げた。
『御社で適切に調べていただけないのであれば、こちらも弁護士を含め、必要なところへ相談します。黒木さんから受け取った名刺も、来店日時の記録も残っています』
店を守る者として、当然の対応をする。
それだけだった。
しかし、表の世界で信用を積み重ねている人間にとって、事実を正しい場所へ並べられることは、下手な脅しよりも重い。
「お前は昨夜もRoseへ行ったのか」
「日高さんと櫻井さんには接触していません」
「質問に答えろ」
「……行きました」
「中村さんへ、写真の提供者を会わせたのか」
「先方が望んだことです」
「日高さんと櫻井さんも来たんだな」
「私は同席していません」
「自分がいなければ、接触にはならないとでも思ったのか」
黒木の喉が動く。
「本人たちは、写真の出所を知りたがっていました。私は両者を繋いだだけです」
「その結果を、記事に使うつもりだったんじゃないのか」
黒木は答えなかった。
榊へ送ったLINEには、面会後の内容を報告するよう求めた記録が残っている。
取材を止めるつもりなど、最初からなかった。
「今日付けで、この企画から外れてもらう」
「待ってください」
「取材資料はすべて会社で保管する。私物の端末に入っている写真も提出しろ。複製を残していないという確認書も書いてもらう」
「まだ記事には使っていません」
「記事にしていないから問題がないんじゃない」
「私が取材して集めたものです」
「会社の名前を使って集めたものだ」
編集長は黒木を真っ直ぐに見た。
「記事を出すことより、取材先との約束を守る方が先だ。それがわからないなら、編集の仕事を続けさせることはできない」
黒木の顔から血の気が引いていく。
「処分については、調査が終わってから決める。それまでは外部への連絡を禁止する。担当しているほかの記事も引き継げ」
「編集長」
「スマートフォンを出せ」
「私物です」
「会社の業務に使い、取材先との連絡もしている。必要な部分は、お前の立ち会いのもとで確認する」
逃げ道が、一つずつ塞がれていく。
黒木は、机の下でスマートフォンを握りしめた。
画面には、榊から送られてきた未読のLINEが残っていた。
「別の買い手を探す」
黒木が記事を失っても、榊は止まらない。
自分が金を払ったことで、古い写真に値段がついた。
その写真は今、黒木の手を離れて、勝手に次の買い手を探し始めていた。
◇
午後。
樹里と陽菜は、黒澤に呼ばれた。
「先方の出版社から回答が来た」
黒澤は、届いた文書を机へ置く。
「企画は正式に中止。黒木は担当から外された。取材資料と外部から入手した写真は、社内で回収して使用を禁止するそうだ」
『わかりました』
樹里が頭を下げる。
陽菜は、安堵するより先に尋ねた。
『ネットに勝手に出したりもしないんですよね』
「出版社としては、させないと回答している。黒木個人についても、今後の接触は禁止したそうだ」
『よかった』
陽菜が息を吐く。
だが、樹里の表情は晴れなかった。
「昨日会った相手は、どうだった」
『写真を渡したことは認めました』
「削除には応じたか」
『いいえ』
「条件を出された?」
『金を要求されました。ただ、支払ってもすべて消す保証がありません』
「払わなかったのは正解だ」
黒澤は言い切った。
「一度払えば、次も来る。相手が写真を公開したり、改めて金を要求したりした場合は、すぐ相談しろ。会社の名前と結びつけた時点で、こちらも無関係ではいられない」
『ありがとうございます』
「ただし、先回りして取り上げることはできない。写真を持っているだけでは、会社から動ける範囲にも限界がある」
『承知しています』
「納得はしてない顔だな、櫻井さん」
黒澤に見られ、陽菜は唇を尖らせる。
『だって、黒木さんを止めても、写真を持ってる人はそのままじゃないですか』
「そうだな」
『また別の人に売ったら、同じことの繰り返しです』
「それでも、今できることを一つずつ止めるしかない」
『わかってます』
「わかっていても腹は立つか」
『はい』
「なら、腹を立てるところまでは許す。勝手に動くな」
『……はい』
返事に間があったが、陽菜はうなずいた。
「日高さんもだ」
『はい』
「昨日は報告してから行った。それはよかった。今日からも同じようにしろ」
『承知しました』
会議室を出る。
廊下を並んで歩きながら、陽菜が小さく息を吐いた。
『黒木さんは止まった』
『ああ』
『なのに、全然終わった気がしない』
『終わっていないからな』
樹里は前を向いたまま答えた。
『榊が写真を持っている限り、何も終わらない』
◇
夕方。
Roseの開店準備をしていた美園のスマートフォンに、黒木から電話がかかってきた。
美園は画面を見つめ、すぐには出なかった。
何度目かの呼び出し音が鳴ったあと、通話へ切り替える。
『もしもし』
「黒木です」
『会社から、連絡を禁止されたんじゃないの』
「中村さんに伝えておかなければならないことがあります」
『何』
「榊が、別の買い手を探しています」
美園の手が止まる。
『どうして、それを私に言うの』
「昨夜の面会後、私に連絡がありました。残りの金を支払わなければ、ほかへ写真を持っていくと」
『払うの?』
「払える状況ではありません」
『そう』
「他人事のように言わないでください。写真が公表されれば、困るのは皆さんでしょう」
美園の目から、感情が消える。
『黒木さん』
「はい」
『その写真に最初に値段をつけたのは、あなたでしょ』
電話の向こうが黙る。
『あなたが買ったから、榊くんはもっと高く売れると思った。あなたが私たちを記事にしようとしたから、過去が金になるって教えた』
「私は、このような事態になるとは——」
『思ってなかった?』
「……はい」
『湯浅さんへ金を渡したときも、榊くんから写真を買ったときも、その先にいる人間のことを考えなかっただけじゃないの』
「私にも責任があることは認めます。だから、今こうして連絡をしています」
『自分が止められなくなったものを、私たちの危険みたいに言わないで』
「では、このまま放置するんですか」
『放置はしない』
「榊を止められるんですか」
美園は答えられなかった。
黒木は、その沈黙へ縋るように続ける。
「私が支払わなければ、榊は確実にほかへ売ります。すでに何人か候補を見つけたと言っていました」
『相手は誰』
「わかりません」
『連絡先は』
「教えられていません」
『だったら、あなたも何も知らないんだね』
「中村さん」
『もう切るよ』
「待ってください。榊を止めなければ——」
『それを考えるのは、あなたじゃない』
美園は通話を切った。
スマートフォンをカウンターへ置く。
黒木への対応は、間違っていなかった。
会社へ事実を伝えた。
黒木の仕事と立場が、自分たちの過去を勝手に暴くために使われないよう止めた。
それでも、胸の奥には重いものが残っている。
黒木を追い詰めたから、榊が別の買い手を探し始めたわけではない。
榊なら、いずれそうしていた。
わかっていても、自分たちの動きが写真を別の場所へ押し出したように思えてしまう。
美園は樹里と陽菜へLINEを送った。
『黒木から電話。榊くんが、別の買い手を探してる』
すぐに既読がついた。
◇
閉店後のRose。
3人は前日と同じ席に座っていた。
ただ、榊が使った椅子だけが空いている。
『黒木さんの出版社は、記事を止めた』
樹里が言う。
『黒木さん個人にも、私たちへの接触を禁止したそうです』
『でも、美園さんには電話してきた』
『自分が作った問題を、私たちに渡したかったんだろう』
陽菜は空いた椅子を睨む。
『榊の連絡先、黒木さんから聞き出せないの』
『聞いてどうするの』
『もう一回話す』
『昨日、話したよ』
『次はもっと——』
陽菜が言葉を止めた。
強く。
はっきり。
逃げられないように。
続けようとした言葉が、どれも昨日決めた線を越えていることに、自分で気づいた。
『ごめん』
『謝らなくていい』
美園が水を置く。
『私も、何度も考えたから』
『榊くんに失いたくないものがあれば、そこから話せた』
『でも、何もない』
陽菜の言葉に、美園は首を横へ振る。
『本当に何もない人なんていないと思う』
『じゃあ、何があるの』
『わからない』
美園は正直に答えた。
『私たちは、榊くんのことを何も知らない。昔も、カメラを持って周りにいただけ。今どこで何をして、誰と暮らして、何を大事にしてるのかも知らない』
『調べる?』
陽菜が尋ねる。
『駄目です』
樹里が答えた。
『昔の人間を使って居場所や弱みを探せば、榊さんと同じことをすることになります』
『でも、このまま写真が出るのを待つの?』
『待たない』
『じゃあ、どうするの』
樹里は口を閉じた。
記録を残す。
会社へ報告する。
出版社へ抗議する。
法律へ相談する準備をする。
今できることはある。
だが、榊の指が投稿ボタンへ触れることを、今すぐ止める手段はない。
『……わからない』
樹里は、初めてそう答えた。
陽菜が目を見開く。
樹里はいつも、短くても答えを出してきた。
進むのか、退くのか。
待つのか、動くのか。
その樹里が、わからないと言った。
『総長』
『わからないものを、わかったふりはできない』
樹里は2人を見る。
『ただし、1人で動くことだけはしないでください』
『……うん』
『美園もだ』
『わかってる』
『榊さんに連絡が取れても、勝手に会わない。写真が出ても、1人で相手のところへ行かない』
『総長もね』
『ああ』
3人は約束した。
それは、問題を解決するための約束ではない。
答えが見つかるまで、誰も失わないための約束だった。
黒木は止まった。
湯浅からの情報漏洩も止まった。
記事も中止された。
それでも、榊の手元には写真が残っている。
3人が正しいと思う方法を選ぶほど、榊へ届く手段が減っていく。
今の3人には、もう打てる手がなかった。
◇
その夜。
榊は、自宅の薄暗い部屋でスマートフォンを眺めていた。
黒木から、何件も着信が入っている。
榊は電話をかけ直さず、短いLINEだけを送った。
「3人には会った」
すぐに既読がつく。
「何を話した」
「それを聞きたければ、残りを払え」
「先に内容を確認したい」
「またそれか。金を払わないなら、ほかに持っていく」
「待て。勝手なことをするな」
榊は画面を見て笑った。
写真を買っただけの黒木が、所有者のような顔をしている。
「もう、あんたに決める権利はない」
そう送ると、黒木からの通知を切った。
パソコンの画面には、いくつもの募集ページが表示されている。
過去の不良。
暴走族。
元総長の現在。
実話を扱う動画配信者や、匿名の情報提供を求めるサイト。
その中の一つへ、顔が判別できないよう加工した写真を見本として送っていた。
しばらくして、返信が届く。
「ほかにも写真がありますか」
「ある」
「現在の本人たちと同一人物だと確認できる資料は?」
「それもある」
「直接、確認させてください。内容次第では買い取ります」
続けて、翌日の時刻と待ち合わせ場所が送られてきた。
駅から離れた高架下。
人通りは少ないが、車を停める場所はある。
榊は条件を確認し、短く返信する。
「わかった。写真は全部持っていく」
待ち合わせの相手から、了承を示す文字が返ってきた。
榊は古い写真を保存した記録媒体を、テーブルの上へ置く。
黒木が払えないなら、別の人間へ売ればいい。
3人が止めてほしいと願うほど、写真の値段は上がる。
榊にとっては、それだけの話だった。




