148話「失うもの」
その日の夕方。
黒澤は、樹里からの報告を最後まで黙って聞いた。
写真を黒木へ売った人物が、閉店後のRoseへ来ること。
相手の名前は、当日まで明かされないこと。
警察や弁護士を同席させず、会話を録音しないという条件を出されていること。
「危険だな」
黒澤の答えは、短かった。
『はい』
「それでも、会うのか」
『会います』
「止めても?」
樹里は、わずかに目を伏せた。
『申し訳ありません』
「謝ってる顔じゃないな」
『すみません』
「それも違う」
黒澤は椅子の背へ身体を預け、腕を組んだ。
「私生活のことまで、会社が命令はできない。ただし、黒木が現れたらその場で帰れ。何かに署名するな。金を渡すな。スマートフォンも預けるな」
『承知しました』
「相手に脅されたら、話し合おうとするな。警察を呼べ」
『はい』
「それから、日高さん」
立ち上がりかけた樹里が、黒澤を見る。
「君たちの過去を俺に話せとは言わない。だが、話さないことと、助けを求めないことは別だ」
樹里は、しばらく黒澤の目を見つめていた。
すべてを打ち明けたわけではない。
それでも黒澤は、知らない部分を無理に暴こうとはせず、今の樹里たちを守ろうとしている。
『ありがとうございます』
「礼は、3人で無事に帰ってから聞く」
『必ず、ご報告します』
樹里は頭を下げ、会議室を出た。
◇
午後11時を過ぎた頃から、Roseの客は少しずつ減っていった。
最後の客を見送る。
美園は店の外へ出て、通りに誰も残っていないことを確かめた。
看板の灯りを落とす。
入口の鍵をかける。
それから凛を振り返った。
『凛ちゃん、今日はありがとう』
「本当に、残らなくて大丈夫ですか」
『大丈夫。総長も陽菜も来るから』
「何かあったら、必ず連絡してください」
『うん』
「終わったあともです」
『約束する』
凛はまだ心配そうだった。
それでも、自分が残れば美園たちの守るものを増やしてしまう。その言葉を受け止め、鞄を持つ。
「では、お先に失礼します」
『気をつけて帰ってね』
「美園さんたちも」
凛を裏口から見送り、美園はもう一度鍵をかけた。
しばらくして、樹里と陽菜が店へ入る。
時計は午後11時40分を示していた。
樹里は店内を一通り確認してから、黒木がいないことを確かめる。
『黒木さんから連絡は?』
『さっき、予定どおり向かってるって。それだけ』
『名前はまだ言わないんだ』
陽菜はカウンター席へ座らず、店内を歩いていた。
『落ち着け』
『落ち着いてるよ』
『なら座れ』
『座って待つ気分じゃない』
美園が水を3つ用意する。
『何があっても、昨日決めたとおりにするよ』
『わかってる』
『陽菜』
『わかってるって。触らない。脅さない。昔の名前も出さない』
口ではそう答えながらも、陽菜の指は何度も開いては閉じていた。
午前0時。
店の扉が、外から叩かれた。
3人の視線が重なる。
美園が鍵を開けた。
『どうぞ』
扉が開く。
黒いパーカーを着た男が、ポケットへ両手を入れたまま立っていた。
伸びた髪。
手入れされていない髭。
昔より痩せていたが、口元に浮かぶ薄い笑い方は変わっていない。
男は美園の顔を見て、次に陽菜、最後に樹里へ目を向けた。
「本当に3人揃ってるじゃん」
陽菜の目が見開かれる。
『……榊』
「覚えてたか、櫻井」
美園の表情から、わずかに温度が消えた。
『榊くんだったんだ』
「久しぶり、中村。今はママやってるんだって?」
榊は遠慮なく店内へ入り、最後に樹里を見る。
「日高も、ずいぶん普通になったな」
『座ってください』
樹里は、カウンターから離れたテーブル席を示した。
「何だよ、その話し方」
『何がですか』
「昔のお前からは、考えられない」
『今は、これが普通です』
「へえ」
榊は面白がるように笑い、椅子を引いた。
3人も同じテーブルを囲む。
樹里と榊が向かい合い、その両脇へ陽菜と美園が座った。
テーブルには水だけが置かれている。
『確認します』
樹里が先に口を開いた。
『黒木さんへ、私たちの写真を渡したのはあなたですか』
「そうだよ」
否定も、言い訳もしなかった。
『何枚渡したの』
陽菜が尋ねる。
「さあ。10枚くらいじゃねえの」
『さあって何』
「数えてないから覚えてない」
『あたしたちの写真で金を取ったんでしょ』
「向こうが買うって言ったから売った。それだけ」
陽菜の指が、テーブルの上で強く組まれる。
『どこで手に入れた』
「忘れたのか? 昔、俺が撮ってたじゃん」
榊は懐かしむような調子で笑った。
「集会、ツーリング、喧嘩の前。お前ら、カメラ向けても止めなかっただろ」
3人には覚えがあった。
榊は、Rose girlsの人間ではない。
敵対チームの人間でもなかった。
当時、チームの周囲へ出入りし、バイクや特攻服姿の少女たちを撮っていた男だ。
誰かの友人として現れ、いつの間にかその場にいる。
喧嘩へ加わるわけでもなく、止めるわけでもない。
ただ、面白そうに写真を撮っていた。
危険な人間だと思ったことはなかった。
仲間だと思ったこともない。
だからこそ、誰も強く警戒しなかった。
『撮らせた覚えはない』
陽菜の声が低くなる。
「止められた覚えもない」
『だから、今になって売っていいと思ったの?』
「俺が撮った写真だ。どうしようが俺の勝手だろ」
『写真に写っているのは、私たちです』
樹里が言う。
『現在の勤務先や生活と結びつけて公表されれば、私たちだけでなく周囲にも影響が出ます』
「それで?」
『黒木さんへ渡した写真を削除してください。ほかの誰にも渡さないと約束してください』
「嫌だと言ったら?」
『法的な対応も検討します』
榊は、鼻で笑った。
「勝手にすればいい」
『強がりでは済まないよ、榊くん』
美園が静かに口を開く。
『昔の写真でも、写っている人間の私生活を暴くために売ったなら、何の問題もないとは限らない。黒木さんとのLINEも振込記録も残ってる』
「だから?」
『写真を買った黒木さんは、今、出版社の中で問題になってる。このまま記事を出すことも難しい』
「黒木が使えないなら、ほかに売るだけだよ」
美園の目が細くなる。
『ほかの出版社にも、今回の経緯は伝えられる』
「全部の出版社を回るのか?」
『必要なら』
「出版社だけとは限らないだろ。今は、ネットに載せれば誰でも見られる」
榊はポケットからスマートフォンを取り出し、テーブルへ置いた。
「俺には会社もない。守らなきゃいけない肩書も、店もない。俺の評判が悪くなって、何が困るんだ?」
美園は答えなかった。
黒木には、編集者としての立場がある。
湯浅には、島川不動産の社員という立場がある。
守りたいものがあるから、それを失う可能性を示せば止められる。
榊には、それがない。
「黒木みたいに、会社へ抗議すれば止まると思った?」
榊が3人を見渡す。
「残念だったな。俺には、文句を言いに行く先なんてない」
『いくら欲しいの』
美園が尋ねた。
『写真を全部消して、二度と誰にも渡さない。その条件はいくら?』
「美園」
樹里が制する。
『払うとは言ってない。ただ、聞いてるだけ』
榊は少し考える素振りを見せ、黒木から受け取った額よりはるかに大きな金額を口にした。
陽菜が椅子から立ち上がりかける。
『ふざけないで』
「嫌ならいい。別の買い手を探すから」
『それを払ったら、本当に全部消すの?』
「消すよ」
『複製は』
「ない」
『証明できる?』
「無理だな」
『だったら払えない』
「じゃあ、交渉は終わりだ」
榊がスマートフォンをポケットへ戻す。
最初から、まともな取引ではない。
金を払っても、写真が消える保証はない。
一度払えば、別の写真が見つかったと言って再び金を要求されるかもしれない。
『榊』
陽菜が立ち上がった。
樹里がその腕を掴もうとする。
だが、陽菜は動かなかった。
ただ、テーブル越しに榊を見下ろしている。
『今すぐ、全部消して』
声は大きくない。
怒鳴ってもいない。
それでも、店の空気が変わった。
陽菜の瞳から、感情の揺れが消えている。
怒りを露わにしていた先ほどまでとは違う。
何をするかわからないのではない。
何をしても構わないと決めた人間の目だった。
榊の笑みが、一瞬だけ消える。
過去の陽菜を知っているからこそ、その目が何を意味するのかわかっていた。
しかし、榊はすぐに笑い直した。
「何だよ。結局、昔と変わらないじゃん」
『陽菜』
樹里の声が落ちる。
陽菜の肩が、わずかに動いた。
『座れ』
『でも——』
『座れ』
樹里は怒鳴らなかった。
腕を引くこともしなかった。
ただ、陽菜の目を真っ直ぐに見つめる。
その視線だけで、陽菜の中に蘇りかけたものを押し留める。
陽菜は榊から目を離さないまま、ゆっくりと椅子へ座った。
「やっぱり日高は総長だな」
榊が笑う。
「今でも、櫻井を一言で止める」
『その呼び方はやめてください』
「何で? 事実だろ」
『今の私たちに、総長も副総長もありません』
「特攻服を脱いで、会社員になったら別人か?」
『別人ではありません』
樹里は榊を見据える。
『過去をなかったことにするつもりもない』
「だったら、写真が出ても困らないだろ」
『困ります』
樹里は即答した。
『過去を受け入れることと、他人に売られることは同じではありません』
榊の目から、わずかに笑みが消えた。
『私たちは、自分たちの過去から逃げません。ですが、あなたが金のために切り取った過去を、私たちのすべてにさせるつもりもありません』
「綺麗なこと言うようになったな」
『そうかもしれません』
樹里の声は、最後まで静かだった。
だが、榊の身体が無意識に椅子の背へ寄る。
声を荒らげずとも、樹里の威圧は消えていない。
目の前の男が何を企んでいようと、怯えも退きもしない。
ただ、その力を殴るためには使わなくなっただけだ。
『榊くん』
美園が呼ぶ。
『黒木さんから、いくらもらったの』
「言う必要ある?」
『残りの金は、まだ受け取ってないんじゃない?』
榊の眉が、わずかに動いた。
『全部受け取ってるなら、今日ここへ来る条件に追加の金を要求する必要はない。黒木さんが追い詰められてるとわかって、取れるだけ取ろうとした』
「だったら何だよ」
『黒木さんは、もう記事を出せない。出版社から資料の提出も求められてる。あなたへ残りの金を払う余裕があると思う?』
「黒木が駄目なら、ほかを探す」
『簡単じゃないよ』
美園は、榊から目を逸らさない。
『出所の怪しい写真を買って、会社員の過去を暴く。問題になれば、記事を出した側も責任を問われる。まともな相手ほど手を出さない』
「まともじゃない相手に売ればいい」
『その相手は、ちゃんとお金を払ってくれる?』
榊が黙る。
『黒木さんは会社員だから、約束した金を払った。あなたが次に売ろうとしてる相手は、写真だけ受け取って逃げるかもしれない』
「心配してくれてんの?」
『まさか』
美園の声には、冷たいものが混じった。
『あなたと黒木さんの間には、金しかない。黒木さんが払えなくなったら終わり。次の相手とも、同じだよ』
「それでも、写真の価値は消えない」
『私たちが反応しなければ、価値は下がる』
「今、こんな時間に3人揃って俺を待ってたのに?」
榊の言葉に、美園の口が閉じる。
榊は、その沈黙を見て笑った。
「価値がないなら、放っておけばよかっただろ」
正しかった。
写真を止めたいと願うほど、写真が自分たちにとって重要なものだと榊へ教えてしまう。
怒れば、榊が売る物語を増やす。
脅せば、現在も危険な人間だという材料にされる。
何もせずにいれば、どこへ流されるかわからない。
動いても、動かなくても、榊に利用される。
「話は終わりでいいか?」
榊が席を立つ。
『待ってください』
樹里が呼び止める。
「まだ何かある?」
『写真を売るのは、やめてください』
「お願い?」
『そうです』
樹里は頭を下げなかった。
威圧することも、強がることもしない。
ただ、真正面から言葉を渡す。
『今の私たちには、守りたい人たちがいます。私たちの過去と関係のない人まで、傷つけたくありません』
「それ、俺に関係ある?」
『ありません』
樹里は認めた。
『だから、お願いしています』
榊はしばらく樹里を見ていた。
かつて大勢の少女を従え、誰にも頭を下げずに立っていた女。
その樹里が、今は脅しではなく言葉だけで止めようとしている。
榊の顔に浮かんだのは、感心でも同情でもなかった。
「日高、お前、本当に弱くなったな」
陽菜の椅子が大きな音を立てた。
『今の言葉、取り消して』
『陽菜』
『総長がどれだけ——』
『いい』
樹里が止める。
『言わせておけばいい』
「昔のお前なら、俺をここから帰さなかった」
『そうですね』
「今は、お願いするしかない」
『そうです』
「だったら、俺の勝ちだろ」
榊は笑い、出口へ向かった。
美園が鍵を開ける。
その横を通り過ぎる直前、榊は足を止めた。
「写真を買い戻したくなったら、黒木に聞け。俺の連絡先は知ってる」
『払わないよ』
「今は、だろ」
『これからも』
「じゃあ、別の相手を探す」
榊は店を出た。
美園が扉を閉め、鍵をかける。
誰も、すぐには口を開かなかった。
陽菜は俯いたまま、両手を強く握っている。
『……ごめん』
『何がだ』
『立った』
『殴ってない』
『殴りたかった』
『私もです』
陽菜が顔を上げる。
樹里は、榊が座っていた椅子を見つめていた。
『あの場で殴れば、写真を消させることはできたかもしれない』
『総長』
『でも、それをしたら、榊の言うとおりになる』
特攻服を脱いでも何も変わっていない。
結局、暴力でしか人を従わせられない。
そんな物語を、自分たちの手で黒木へ渡すことになる。
『戻らないって決めたからね』
美園が言った。
『ああ』
『うん』
3人とも、昔より弱くなったわけではない。
守りたいものが増えた。
選ばないと決めた手段が増えた。
だから、何を失っても構わない相手に届く言葉が、今の3人にはなかった。
『黒木は止められる』
美園がカウンターへ戻る。
『湯浅さんの記録もある。出版社も動いてる。黒木には、失いたくない仕事と信用があるから』
『でも、榊にはない』
陽菜が呟く。
『あいつが自分でやめない限り、写真は残る』
樹里は答えられなかった。
黒木を止めても終わらない。
記事を潰しても、写真そのものは消えない。
榊が次の買い手を探せば、同じことが何度でも始まる。
美園が水の入ったグラスを3人分並べる。
『今日は、帰ろう』
『何も解決してない』
『それでも、3人で帰るの』
陽菜はしばらく俯いていたが、やがて小さくうなずいた。
樹里も、立ち上がる。
昔なら、榊をこのまま帰しはしなかった。
今の3人は、榊を傷つけずに店から帰した。
それが正しかったのかは、まだわからない。
ただ、守りたかった写真は、榊の手に残ったままだった。
◇
Roseから離れた榊は、人気のない路地でスマートフォンを取り出した。
黒木から、何件も着信が入っている。
榊は電話をかけ直さず、短いLINEだけを送った。
「3人には会った」
すぐに既読がつく。
「何を話した」
「それを聞きたければ、残りを払え」
「先に内容を確認したい」
「またそれか。金を払わないなら、ほかに持っていく」
「待て。勝手なことをするな」
榊は画面を見て笑った。
写真を買っただけの黒木が、所有者のような顔をしている。
「もう、あんたに決める権利はない」
そう送ると、榊は黒木のアカウントを閉じた。
検索画面を開く。
過去の不良。
暴走族。
告白。
実話。
配信者や記事の募集をいくつか見つけ、順番に眺めていく。
黒木が払えないなら、別の人間へ売ればいい。
3人が困るほど、写真の値段は上がる。
榊は、最初に見つけた連絡先へ指を伸ばした。




