147話「対面の値段」
黒木がRoseを出た頃には、出版社から新しいメールが届いていた。
件名は、取材資料の提出について。
本文には、翌日の午前中までに提出すべきものが並んでいる。
島川不動産から提供された資料。
樹里と陽菜への取材記録。
撮影した写真と音声。
外部から入手した画像。
その入手先と経緯。
黒木は歩道の端で立ち止まり、最後の一文を読み返した。
期限までに提出されない場合は、社内規定に基づいて調査を進める。
明日の午前中。
残されている時間は少ない。
黒木はメールを閉じ、榊とのLINEを開いた。
「本人たちが、写真を渡した人間に会いたいと言っている」
返事は、すぐには来なかった。
黒木は駅へ向かって歩きながら、何度も画面を確認した。
改札へ着く直前、ようやく既読がつく。
「誰が来る」
「日高樹里、櫻井陽菜、中村美園。3人ともだ」
次の返事は早かった。
「面白そうだな」
「会えるか」
「いくら出す」
黒木の足が止まる。
「写真の代金は、すでに全額払った」
「写真は渡した。本人たちの前に顔を出す話までは売ってない」
「直接話せば、記事に使える証言が取れるかもしれない」
「それはあんたの都合だろ」
黒木は奥歯を噛みしめた。
湯浅にも金を渡した。
榊にも払った。
それでも、手元に残っているのは使用を禁じられた取材記録と、出所を説明できない写真だけだ。
「いくらだ」
榊から金額が送られてくる。
黒木は画面を見つめた。
写真の残金を支払ったばかりだというのに、決して安い額ではない。
「高すぎる」
「なら行かない」
「会って話すだけだ」
「昔の仲間を売った人間として、3人の前に出るんだぞ。安いと思うか?」
「仲間だったのか」
「それを知りたければ、また別料金だ」
黒木の指に力が入る。
榊は、自分が必要とされていることを理解していた。
写真を渡しただけでは終わらない。
写真の状況を説明するにも、写っている人間同士の関係を語るにも、榊の言葉が必要になる。
黒木が記事を諦めない限り、値段はいくらでも上がっていく。
「面会が終わってから払う」
「半分は先だ」
「逃げるつもりか」
「困ってるのは、こっちじゃないだろ」
返す言葉がなかった。
黒木は指定された金額の半分を振り込んだ。
間もなく、榊から確認のメッセージが届く。
「場所と時間を送れ」
黒木は、Roseでもらった美園の連絡先を表示した。
◇
閉店準備を始めたRoseに、電話がかかってきた。
カウンターを拭いていた美園は、画面に表示された名前を確認してから通話へ出る。
『もしもし』
「黒木です。先ほどのお話について、ご連絡しました」
『写真を売った人と話せたの?』
「はい。面会には応じるそうです」
美園の手が止まる。
『誰』
「それは、当日まで伏せさせてください」
『どうして』
「先方の希望です」
『名前もわからない相手と会えってこと?』
「写真に写っている皆さんとは、面識があるそうです」
『私たちのことを知ってるんだ』
「そう聞いています」
美園はカウンターの奥にいる凛を見る。
凛も、電話の内容が気になっているのか、手を止めていた。
『場所は』
「そちらの店ではいかがでしょうか。営業終了後であれば、ほかのお客様に話を聞かれる心配もありません」
『あなたも来るの?』
「私が仲介した面会です。当然、同席させていただきます」
『駄目』
美園は即座に拒んだ。
「なぜですか」
『私たちは、写真を売った人と話をしたい。あなたに取材されるつもりはないから』
「記録を取るつもりはありません」
『その言葉を信用できると思う?』
「私は、話を取り次いだだけです。立ち会う権利はあるはずです」
『ないよ』
美園の声は穏やかだった。
だからこそ、交渉の余地がないことが伝わる。
『会社から、総長と陽菜への接触を止められてるんでしょ。あの2人が来る場所にあなたがいたら、正式な抗議を無視したことになるんじゃない?』
「日高さんたちが、自分の意思で面会へ来るのであれば——」
『その言い訳を、あなたの編集長にも言える?』
黒木が黙る。
『相手だけ来させて。あなたが店に入ったら、その場で面会を中止する』
「それでは、私が仲介する意味がありません」
『記事のために呼ぶんじゃない。写真を止めるために呼ぶの』
「先方が、私の同席を条件にする可能性もあります」
『だったら会わない』
美園は言い切った。
『私たちは、会わせてくれって頼んだわけじゃない。あなたが本物だと言い張るなら、本人を連れてきてって言っただけ』
「少し、お待ちください」
保留音が流れる。
黒木は、榊へLINEを送っているのだろう。
美園はその間に、凛へ小さくうなずいた。
数分後、黒木の声が戻る。
「先方は、私がいなくても構わないそうです」
『日時は』
「明日の営業終了後。午前0時でいかがでしょうか」
『わかった』
「ただし、警察や弁護士を同席させないこと。会話を無断で録音しないこと。この2点を求めています」
『警察も弁護士も呼ばない。録音もしない』
「日高さんと櫻井さんにも、必ず守るようお伝えください」
『伝える』
「面会後、どのような話になったか教えていただくことは——」
『ない』
美園は答えを待たず、通話を切った。
凛が心配そうに近づいてくる。
「会うんですか」
『うん。明日の閉店後』
「美園さんたちだけで?」
『3人で会う』
「危険な人ではないんですか」
『わからない』
美園はスマートフォンを握ったまま答えた。
『でも、向こうは私たちを知ってる。昔の誰かだと思う』
「私も残りましょうか」
『ありがとう。でも、凛ちゃんは帰って』
「ですが」
『相手の目的がわからないうちは、関わる人を増やしたくない』
「それなら、美園さんたちも会うべきではないのでは」
真っ直ぐな指摘だった。
美園は、すぐには返せなかった。
「すみません。事情を知らないのに」
『ううん。凛ちゃんの言う通りだよ』
「それでも、会うんですね」
『会わないままだと、もっと大勢が関わるかもしれないから』
写真が別の出版社へ渡るかもしれない。
誰かがSNSへ流すかもしれない。
過去を知る人間へ、次々に黒木のような人間が近づくかもしれない。
そうなる前に、写真を持っている本人と話す必要がある。
『店には鍵をかける。何かあったら、すぐ連絡する』
「佐藤さんには?」
美園の目が、わずかに揺れた。
『今は、言わない』
「心配させるからですか」
『それもある。でも、明日の相手が誰なのかもわからない。何もわからないまま佐藤くんまで呼んだら、守るものを増やすだけだから』
凛は納得していない顔をしていた。
それでも、美園の決定を無理に変えようとはしなかった。
「必ず、終わったら連絡してください」
『うん。約束する』
◇
閉店後。
樹里と陽菜がRoseへ来た。
美園は入口の鍵をかけ、黒木から連絡があったことを説明する。
『明日の午前0時。ここへ来るって』
『名前は』
樹里が尋ねる。
『当日まで伏せたいって』
『ふざけてる』
陽菜の声に、すでに怒りが混じっていた。
『こっちの写真を勝手に売っておいて、自分の名前は隠すんだ』
『陽菜』
『わかってる。まだ何もしない』
『“まだ”をつけるな』
『じゃあ、何もしないよ』
陽菜は不満そうに唇を尖らせた。
美園が2人の前へ水を置く。
『条件が2つある。警察や弁護士を同席させないこと。無断で録音しないこと』
『こちらに不利な条件ばかりだな』
『断る?』
樹里はすぐには答えなかった。
名前もわからない。
目的もわからない。
相手が素直に写真を消す保証もない。
罠である可能性すら残っている。
『黒澤部長には、私から報告する』
『会社に言うの?』
陽菜が樹里を見る。
『黒木さんが仲介している以上、黙って会えば会社の対応を無駄にします。過去の内容まで話す必要はありません。写真を渡した人間から面会を求められたとだけ伝えます』
『黒澤部長、止めるんじゃない?』
『止められると思います。ただ、黙って行く方が悪い』
樹里の答えに、美園が小さくうなずいた。
『わかった。黒澤部長への説明は、総長に任せる』
『ああ』
『私は?』
『櫻井さんは、明日まで何もしないでください』
『なんであたしだけ会社の呼び方なの』
『腹を立てているからです』
『総長だって怒ってるじゃん』
『怒っている。だから、今のうちに決めておく』
樹里は陽菜だけでなく、美園にも目を向けた。
『明日は、相手に触らない。脅さない。昔の名前も人脈も使わない』
『向こうが先に手を出したら?』
『店の外へ出す。それ以上はしない』
『写真を消さなかったら?』
『話し合う』
『話が通じなかったら?』
陽菜の問いに、樹里は答えられなかった。
黒木には仕事がある。
出版社での立場がある。
守りたい信用がある。
だから、証拠を揃えて会社へ訴えることができた。
だが、明日来る人間が同じとは限らない。
失うものを持たない相手に、何を差し出せば写真を止められるのか。
今の3人には、まだ答えがなかった。
『それを、明日確かめる』
樹里は、ようやくそう答えた。
陽菜は椅子の背へ身体を預ける。
『昔なら、簡単だったのにね』
店内が静まった。
何を意味しているのか、聞き返す必要はなかった。
昔なら、相手を怖がらせればよかった。
二度と逆らえないと思わせれば、それで終わった。
樹里の威圧。
陽菜の狂気。
美園の制圧。
3人には、それができた。
今でも、できないわけではない。
ただ、しないと決めている。
『簡単じゃない』
樹里が言った。
『あれは、解決したように見せていただけだ』
『わかってるよ』
陽菜は目を伏せる。
『だから、戻らない』
美園が2人を見つめる。
『明日も、3人で帰ろう』
何が起きても、誰か1人を置いていかない。
誰か1人だけに、昔の役目を背負わせない。
樹里と陽菜が、静かにうなずいた。
◇
同じ頃。
榊は、黒木から送られてきたRoseの住所を見ていた。
画面には、明日の時刻と条件が並んでいる。
「黒木は同席しない」
「録音はするな」
「面会後、話した内容を報告してほしい」
最後の一文を読み、榊は鼻で笑った。
黒木は、自分だけ安全な場所にいたまま、3人の言葉を手に入れようとしている。
もっとも、榊にも黒木を守るつもりはなかった。
「報告まで欲しいなら、追加で払え」
返信を送る。
すぐに黒木から電話がかかってきたが、榊は出なかった。
明日、3人の前へ顔を出す。
その代金は半分受け取った。
そこで何を話すかは、榊の自由だ。
黒木が記事を書けなくなろうと、樹里たちが傷つこうと、知ったことではない。
写真には値段がついた。
昔話にも値段がつく。
そして明日は、3人の反応にも新しい値段がつくかもしれない。
榊は古い写真を表示した。
特攻服をまとい、横一列に並ぶ女たち。
その中心にいる樹里。
傍らに立つ陽菜と美園。
画面の中の3人は、まだ何も失わないと思っている顔をしていた。
「今さら、まともに生きてるつもりかよ」
榊は写真を閉じた。
明日の午前0時。
金で用意された席へ、過去を売った人間と、過去を守ろうとする3人が向かう。
同じ席に着く4人の中で、話し合いができると思っている者は、誰もいなかった。




