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146話「昔の因縁」

Roseの開店から、まだ30分ほどしか経っていなかった。


 店内に客は1人だけ。


 カウンターの端に座った黒木は、水割りのグラスへほとんど口をつけないまま、何度も腕時計を確認していた。


 出版社からは、島川不動産の社員へ接触しないよう命じられている。


 だが、その対象は日高樹里と櫻井陽菜だ。


 中村美園ではない。


 少なくとも黒木は、そう解釈していた。


「ママさんは、まだ戻りませんか」


 カウンターの中に立つ凛へ、黒木が尋ねる。


「もうすぐ戻ると思います。足りないものが見つかったと言って、買い出しに出ていますので」


「そうですか」


 凛はグラスを拭きながら、黒木の様子を窺った。


 先ほどから店内を眺めているが、酒を楽しんでいるようには見えない。


 美園と約束があるのかと尋ねても、はっきりとは答えなかった。


 客である以上、追い返す理由はない。


 それでも、何かが引っかかっていた。


 黒木が再び腕時計へ目を落としたとき、店の扉が開いた。


 凛が顔を上げる。


「いらっしゃいませ」


 入ってきたのは、背の高い金髪の女だった。


 真っ直ぐに伸びた髪。


 整った顔立ちには、近寄りがたいほどの鋭さがある。


 黒い服に身を包み、店へ入っても周囲へ愛想を振りまく様子はない。


 女は店内を一度見渡してから、凛へ尋ねた。


「ママさん、いるか」


「今、買い出しに出てしまっていて。ママさんのお知り合いですか」


 女は、露骨に残念そうな息を吐いた。


「なんだ。美園のやつ、いねえのかよ。間の悪い」


 その声に、黒木が顔を上げた。


 美園を名字でもママでもなく、名前で呼んだ。


 それも、店の客として知っているだけの言い方ではない。


「美園さんの、お知り合いですか」


 女が黒木へ顔を向ける。


 視線がぶつかったのは一瞬だった。


 ただ一度見ただけで値踏みを終えたように、女は小さく肩をすくめる。


「まあ、昔の因縁みたいな仲だよ」


 黒木の目が、わずかに細くなった。


「昔、ですか。チームの……」


「知らねえな」


 最後まで言わせず、女が首を横へ振った。


 黒木は一瞬、言葉を失った。


「まだ、何も尋ねていませんが」


「だから何だよ。知らねえもんは知らねえ」


「Rose girlsという名前にも、心当たりはありませんか」


「ねえな」


 答えに迷う間すらなかった。


 だが、黒木はその反応を見逃さなかった。


 Rose girlsという名前を初めて耳にした人間なら、意味を尋ねるか、少なくとも聞き返す。


 目の前の女は、驚きもしなかった。


 知っているからこそ、知らないと言っている。


「昔の美園さんについて、少しお話を伺いたいんです」


「昔の美園?」


「はい。どのような人だったのか、何をしていたのか。ご存じの範囲で構いません」


「人にものを聞く前に、自分が何者か名乗るのが先じゃねえのか」


「失礼しました」


 黒木は懐から名刺入れを取り出した。


 だが、差し出された名刺を、女は受け取らなかった。


 書かれている出版社名と黒木の名前だけを、その場で読む。


「編集者ねえ」


「現在、島川不動産に勤める女性を取材しています。美園さんは、その方たちと以前から親しかったようなので」


「ふうん」


 女は興味があるとも、ないとも言わなかった。


 酒を注文することもなく、ゆっくりと店内を見渡す。


 カウンター。


 並べられた酒。


 壁に掲げられた店の名前。


 そして、黒木。


 凛には、初めて入った店を眺めているように見えた。


 だが女の目は、配置や内装を見ているのではない。


 何かを確かめている。


 黒木がここで何をしているのか。


 誰について、何を聞こうとしているのか。


 それを探っていた。


(……嗅ぎ回ってるな、こいつ)


 女――鈴原まどかは、黒木を横目で見る。


 仕事の取材という顔をしている。


 だが、真っ当な取材だけをしている人間が、夜の店で本人のいない隙を狙い、昔の知り合いから話を聞き出そうとはしない。


 面白そうな匂いがした。


 樹里、美園、陽菜。


 あの3人にまとわりついている、厄介な客の匂い。


 それと同時に、自分の知らないところで玩具へ勝手に触れられたような、不快な匂いもした。


「美園さんとは、いつ頃からのお知り合いですか」


 黒木が重ねて尋ねる。


「さあな」


「日高樹里さんや、櫻井陽菜さんについては」


「誰だ、それ」


「写真を見ていただければ、思い出すかもしれません」


 黒木がスマートフォンへ手を伸ばす。


 まどかの目が、わずかに細くなった。


 ただし、その変化は一瞬で消えた。


「知らねえって言ってんだろ」


「確認だけでも」


「しつこい男は嫌われるぞ」


 まどかは黒木へ背を向けた。


 これ以上聞いても、何も答えない。


 その態度を、言葉より明確に示している。


 黒木も、それ以上はスマートフォンを出せなかった。


 まどかはカウンターの中にいる凛へ顎をしゃくる。


「美園がいねえなら帰るわ。じゃあな、姉ちゃん」


「え……あ、はい」


「美園によろしく伝えといてくれや。鈴原まどかが顔見に来てやったぞってな」


「は、はい。必ず伝えます」


 まどかは片手を軽く上げ、店を出ていった。


 扉が閉まる。


 店内へ残された黒木は、その名前を忘れないよう、スマートフォンへ入力した。


 鈴原まどか。


「今の方は、よくこちらへ?」


 凛は、拭き終えたグラスを棚へ戻す。


「私は初めて会いました」


「美園さんとは、親しいようでしたが」


「そうかもしれません」


「何か聞いていませんか。昔のお友達や、バイクの仲間について」


 凛の手が止まった。


 美園の背中に刻まれていた薔薇。


 その下に残された、Rose girlsの文字。


 大切だった。


 なかったことにはしたくない。


 美園がそう語った日の声を、凛は覚えている。


 それだけではない。


 今の凛は、美園たちが背負っている過去を知っている。


 だからこそ、それを軽々しく他人へ差し出してはいけないことも知っていた。


「申し訳ありません。お客様について、私からお話しできることはありません」


「取材に使うと決まったわけではありません。確認したいだけです」


「それでも同じです」


 凛は静かに答えた。


「美園さんが話していないことを、私が代わりに話すことはできません」


 柔らかな口調だった。


 しかし、そこから先へ踏み込ませる余地はなかった。


 黒木が何かを言い返そうとしたところで、再び扉が開く。


『ただいま。ごめん、遅くなった』


 両手に買い物袋を提げた美園が戻ってきた。


 凛は安堵したように顔を向ける。


「お帰りなさい、美園さん」


『凛ちゃん、ありがとう。変わったことは——』


 美園の目が、カウンターの端に座る黒木を捉えた。


 表情から、笑みが消える。


『どうして、また来たの』


「お話ししたいことがありまして」


『私はないよ』


「日高さんと櫻井さんには接触しないよう、会社から言われています。しかし、美園さんは島川不動産の社員ではありません」


『だから、私ならいいと思った?』


「確認したいだけです」


『その言い方、好きだね』


 美園は買い物袋を床へ置いた。


 凛へ何があったのか尋ねるより先に、黒木の前へ立つ。


『黒木さん。ここは私の店なの』


「承知しています」


『取材相手がいない隙に、その知り合いから昔の話を聞き出す場所じゃない』


「誤解です。私は店の客として——」


『凛ちゃんに、昔の私のことを聞いた?』


 黒木は答えなかった。


 美園は、それを肯定と受け取った。


『帰って』


「その前に、一つだけ」


『聞かない』


「写真を持っています」


 美園の目が止まる。


「先日お見せしたものだけではありません。Rose girlsに関する写真は、ほかにもあります」


『それで?』


「事実を確認したい。それだけです」


『誰から買ったの』


「取材源は明かせません」


『金を払って写真を買った相手を、取材源って呼ぶんだ』


 黒木の眉がわずかに動いた。


 自分と情報提供者の間で金が動いていることまで、美園が把握しているとは思っていなかった。


「どこで、それを」


『答える必要はないよね。あなたも答えないんだから』


 美園は黒木を見つめたまま、静かに続ける。


『その写真が本物だと言うなら、あなたに売った本人を連れてきて』


「会えば、取材に応じていただけますか」


『記事の話はしない』


 美園の声には、迷いがなかった。


『私たちの写真を、これ以上売らせないための話をする』


「日高さんと櫻井さんも同席しますか」


『3人の写真なんでしょ』


 美園はカウンターへ片手をついた。


『だったら、3人で会う』


 黒木は黙って美園を見返した。


 本人たちと情報提供者を同じ場所へ座らせれば、予想していなかった言葉が出るかもしれない。


 感情的な衝突も、記事の材料になる。


「先方に確認します」


『確認が取れるまで、ここには来ないで』


「わかりました」


 黒木は水割りの代金をカウンターへ置き、席を立った。


 出口へ向かいかけたところで、ふと思い出したように振り返る。


「そういえば先ほど、鈴原まどかさんという方が、美園さんを訪ねてきました」


 美園の表情が、初めて動いた。


『……まどかが?』


 黒木は、そのわずかな反応を見逃さなかった。


「やはり、よくご存じなんですね。昔の因縁だとおっしゃっていました」


『あの人に、何を聞いたの』


「昔の美園さんや、Rose girlsについてです。何も知らないと言われましたが」


『そう』


「日高さんと櫻井さんについても尋ねました。写真を見せれば、何か思い出していただけるかもしれません」


『黒木さん』


 美園の声が低くなる。


『帰って』


「ですが——」


『電話を待ってる。それ以外の話は、もうしない』


 表情こそ変わらない。


 だが、黒木を見つめる目からは、店の客へ向ける温度が完全に消えていた。


「承知しました」


 黒木は一礼し、店を出ていった。


 扉が閉まる。


 美園はすぐに凛へ顔を向けた。


『凛ちゃん。まどかが来たの?』


「はい。美園さんの顔を見に来たと」


『黒木とは、どんな話をしてた?』


「黒木さんが、美園さんの昔のことを尋ねていました。Rose girlsという名前も出していました」


『まどかは?』


「何も知らないと答えていました」


『あのまどかが……』


 美園の目が、扉へ向けられる。


「日高先輩と陽菜さんのことも聞かれていました。でも鈴原さんは、誰だ、と」


『ほかには何か言ってた?』


「いいえ。黒木さんには何も話さないまま、帰っていきました。ただ……」


『ただ?』


「黒木さんのことを、警戒しているようには見えました」


 美園は、しばらく何も言わなかった。


 やがて買い物袋をカウンターの中へ運び、凛の正面に立つ。


『凛ちゃんには、私たちの過去をもう話してるから。まどかのことも、隠さずに話すね』


「はい」


『鈴原まどかは、アネモネっていうチームの総長だった人』


「アネモネ……」


『私たちRose girlsとは敵対してた。何度もぶつかったし、仲間だったことは一度もない』


「昔の因縁というのは、そのことだったんですね」


『たぶんね』


 美園は小さく息を吐く。


『敵だった。少なくとも、私たちはそういう関係だった』


「では、どうして美園さんの顔を見に?」


『それがわからないの』


 美園は曖昧に濁さなかった。


 わからないことを、わかったふりもしなかった。


『まどかは昔から、自分が面白いと思ったことにしか動かない。誰かのために何かをするような人でもないし、考えてることもほとんど話さない』


「それでも、黒木さんには何も教えなかった」


『うん』


「美園さんたちを、守ってくれたのでしょうか」


『そう決めるのは早いよ』


 美園は静かに首を横へ振った。


『あの人が、自分の知ってることを黒木に渡したくなかっただけかもしれない。私たちの味方になったとは限らない』


「そうですか」


『でも、敵だからって理由だけで、今のまどかまで決めつけるつもりもない』


 過去に何度ぶつかったとしても、それだけで現在のすべてを決めない。


 美園は、自分たちがそうしてもらえたからこそ、まどかにも同じ線を引こうとしていた。


「話してくださって、ありがとうございます」


『ううん。凛ちゃんにだけ伏せておく方が不自然だから』


 美園は少しだけ表情を緩めた。


『それに、知らないまま黒木に探らせたくない。今日みたいなことが、またあるかもしれないから』


「次に来ても、何も話しません」


『ありがとう』


 美園はスマートフォンを取り出した。


 樹里と陽菜、2人だけが入っているLINEを開く。


『黒木がまた店に来た。写真を売った人間を連れてくるように言った』


 そこまで入力し、指が止まる。


 続けて、もう一文を送った。


『それと、まどかが店に来た。黒木と会ってる』


 すぐに陽菜から返信が届いた。


『なんでまどかが?』


『わからない』


 樹里からの返信は、少し遅れて届いた。


『何を話した』


『黒木に昔のことを聞かれて、全部知らないと言ったみたい』


 既読が2つ並ぶ。


 次の言葉は、しばらく返ってこなかった。


 美園にも、まどかの意図はわからない。


 ただ、昔から変わらないことが一つだけある。


 鈴原まどかは、興味のないものへ自分から近づくような女ではなかった。


     ◇


 Roseを出たまどかは、通りの角を曲がったところで足を止めた。


 ポケットからスマートフォンを取り出し、先ほど目にした名前を検索する。


 出版社。


 黒木の署名が入った記事。


 企業で働く人間や、人生を立て直した者を扱った過去の特集。


 表向きは、どこにでもいる編集者だった。


「過去を探して、わざわざ夜の店まで来る編集者ねえ」


 まどかは画面を閉じた。


 昔の因縁。


 黒木には、そう答えた。


 間違いではない。


 樹里たちと仲間になった覚えはない。味方を名乗った覚えも、応援しているつもりもなかった。


 ただ、あれほど剥き出しで生きていた3人が、特攻服を脱いだあと、どんな人間になるのか。


 それを見るのは、少し面白いと思っていた。


 そこへ、金の匂いをまとった男が入り込んでいる。


「……つまらねえことしてくれるじゃねえか」


 まどかは歩き出した。


 まだ、何もしない。


 樹里たちがどこまで自分たちで片づけるのか、それを見届ける。


 けれど、黒木の顔も名前も覚えた。


 Rose girlsの過去を売った人間がいることも知った。


 そして何より、自分が面白いと思って眺めているものへ、勝手に手を伸ばす人間の匂いを覚えた。

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