145話「残金」
翌朝、黒澤は広報部の責任者と総務部長を会議室へ呼んだ。
机の上には、湯浅が提出した経緯書と、黒木とのLINEを印刷したものが置かれている。
記事への協力を取りつける見返りとして、金銭を受け取った記録。
日高樹里と櫻井陽菜の入社時期を伝えた履歴。
2人が退勤後に向かう店を、黒木へ知らせた履歴。
そして、黒木から送られてきた過去の写真。
写真そのものは、黒澤たちの前には出されていない。
樹里が提出した報告書にも、入社以前に撮影された私的な画像としか書かれていなかった。
「まず、記事の中止を正式に通達する」
黒澤は、並べられた資料へ目を落としたまま言った。
「それと、黒木による取材範囲を逸脱した接触、私的情報の入手経路について、先方の会社へ調査を求める。湯浅さんの件は社内で処分を決めるが、それと黒木の行為は別だ」
「写真については、確認しなくてもよろしいんですか」
総務部長に問われ、黒澤は顔を上げる。
「本人たちが、業務にも現在の生活にも関係がないと言っている。違法行為に関わるものでもない。なら、会社が興味本位で見る必要はない」
「ですが、先方から内容の確認を求められた場合は」
「私的な写真を無断で材料にしようとしている。それだけで十分だ」
黒澤の声は、いつもと変わらず落ち着いていた。
だが、言葉を挟ませない硬さがあった。
「日高さんと櫻井さんは、社員として取材を受けただけだ。過去を差し出すことまで承諾したわけじゃない」
広報部の責任者が、静かにうなずいた。
「本日中に、先方へ正式な文書を送ります」
「頼む。それから、保存されている取材データの使用停止と、複製を含む保管状況の報告も求めてくれ」
「わかりました」
会議が終わると、黒澤は樹里と陽菜を呼んだ。
2人が会議室へ入ると、黒澤は椅子を勧めるより先に告げた。
「今朝、会社としての対応を決めた。記事の中止だけじゃなく、黒木が持っている取材データも使用させない。先方には正式に抗議する」
『ありがとうございます』
樹里が頭を下げる。
隣に座った陽菜は、膝の上で指を組んでいた。
『黒木さんが、会社を通さず別の記事を書く可能性はありますか』
「ある」
黒澤は即答した。
「だから、そこも文書に入れている。ただ、会社が止めろと言ったから必ず止まるとは限らない」
『そうですよね』
「何か届いても、返事はするな。外で待たれていても、2人だけで話そうとするな。全部、俺に持ってこい」
『はい』
『わかりました』
樹里と陽菜が立ち上がる。
扉へ向かいかけたところで、黒澤が再び口を開いた。
「日高さん」
樹里が振り返る。
「全部話せとは言わない。だが、仕事に持ち込まれたものは、もう君たちだけの問題じゃない」
樹里は、わずかに目を伏せた。
『承知しています』
「ならいい」
その返事を聞き、黒澤は手元の資料へ視線を戻した。
樹里たちが守ろうとしているものが何なのか、黒澤は知らない。
それでも、知らないまま守れる範囲はある。
無理に扉を開けず、その前へ立つ。
今の黒澤にできるのは、それだった。
◇
島川不動産から送られた文書は、その日の午後には黒木の勤める出版社へ届いた。
「黒木。説明してくれるか」
編集長の机に置かれていたのは、抗議文の写しだった。
黒木は一読したあと、表情を変えずに顔を上げる。
「取材先と行き違いがあったようです」
「行き違い?」
「退勤後に偶然会ったので、少し話をしただけです。記事に使うと決めたわけではありません」
「偶然、ね」
編集長の指が、文書の一箇所を叩く。
「相手は、事前に居場所を把握されていたと言っている」
「私は店の名前を聞いていただけです」
「誰から」
黒木は答えなかった。
湯浅の名前を出せば、金を渡したことまで調べられる。
榊の名前を出せば、写真を買ったことを説明しなければならない。
どちらも、自分を守る材料にはならなかった。
「この記事は中止だ。島川不動産の2人には、今後一切接触するな」
「ですが、企画そのものは——」
「企画の話をしてるんじゃない。取材先との信頼を壊したことを言ってるんだ」
編集長の声が低くなる。
「取材で得たデータと、外部から入手したという私的な資料。全部提出しろ。入手経路も書面にして出せ」
「外部から入手した資料は、まだ記事に使用していません」
「使ったかどうかじゃない。なぜ持っているのかを聞いている」
黒木は、唇の内側を噛んだ。
「今日中だ。それまでは、新しい取材に出るな」
編集長はそれだけ言うと、机の上の書類を閉じた。
黒木は頭を下げ、編集部へ戻った。
周囲では、いつもと変わらずキーボードを叩く音が続いている。
誰も自分を見ていない。
それでも、全員に見られているような気がした。
自席に座り、パソコンの画面を開く。
途中まで作っていた記事の構成が表示された。
地方企業で働く2人の女性。
過去を捨て、社会人として生き直した元暴走族。
昼と夜。
会社員と、特攻服。
並べるだけで人目を引く言葉が、いくつもあった。
黒木にとって、すでにこれは会社案内の記事ではなかった。
注目を集める一本だった。
完成させれば、評価される。
完成させられなければ、金を使い、取材先を怒らせただけで終わる。
黒木はスマートフォンを手に取り、榊とのLINEを開いた。
「残りを払う。持っているものを全部送れ」
既読は、すぐについた。
「先に振り込め」
「画像を確認してからだ」
「話が違う。残金と引き換えだ」
黒木は舌打ちした。
自分が追い詰められていることを、榊には知られたくなかった。
だが、ここで切れば手元に残るのは、粗い写真と、裏づけのない話だけになる。
それでは記事にならない。
黒木はネットバンキングを開いた。
指定された口座へ、残っていた金額を振り込む。
数分後、榊から複数の画像ファイルが送られてきた。
特攻服に身を包んだ少女たち。
黒と赤の薔薇。
並べられたバイク。
その中心に立つ樹里と、すぐ近くにいる陽菜。
別の写真には、美園の姿もあった。
黒木は画像を拡大する。
今の3人とは、表情が違う。
若さだけではない。
今よりも尖り、今よりも剥き出しで、何かに噛みつくような目をしていた。
「これで全部か」
「約束した分はな」
「この3人に何があった。なぜチームは消えた」
しばらく返事はなかった。
やがて届いたのは、短い一文だった。
「そこから先は、別料金だ」
黒木の眉が動く。
「残金は払った」
「写真の代金はな。話まで同じ値段だと思うな」
黒木はスマートフォンを握りしめた。
湯浅は連絡を絶った。
榊は、金を受け取っても協力者にはならない。
出版社は、資料の提出を求めている。
誰も黒木を助けようとはしていなかった。
最初から、誰も仲間ではなかった。
金が動いている間だけ、同じ場所に立っていただけだ。
◇
その夜。
Roseのカウンターには、湯浅から転送された写真が置かれていた。
画像を印刷したものではない。
陽菜のスマートフォンに表示された、小さな写真だった。
樹里、美園、陽菜の3人が並び、画面を見つめている。
『これ、覚えてる?』
陽菜が尋ねた。
『覚えてるよ』
美園の返事は早かった。
樹里も、黙ってうなずく。
忘れるはずがなかった。
Rose girlsにいた頃、仲間たちと一緒に撮った写真だった。
陽菜が、画面を指先で拡大する。
『じゃあ、誰が持ってた写真なの』
『これだけじゃわからない』
美園は静かに答えた。
『この写真は、撮ったあと何人かに渡ってる。そこから誰かに送られた可能性もある』
『元メンバーが売ったってこと?』
『決めつけない方がいい』
樹里が陽菜を見る。
『疑い始めれば、全員が疑わしくなる』
『でも、実際に黒木さんは持ってるじゃん』
『だからこそです。根拠もなく名前を挙げれば、写真を売った人間と同じことをすることになる』
陽菜は納得しきれない顔で口を閉じた。
美園はスマートフォンから目を離し、黒木の名刺を手に取る。
出版社名。
編集部の電話番号。
黒木の名前と、会社のメールアドレス。
『陽菜。この写真が送られてきたのは、湯浅さんが黒澤部長へ話す前?』
『うん。返事をしろって催促されてたとき』
『なら、黒木はまだ、湯浅さんが会社に話したことを知らずに送ったんだね』
『たぶん』
『今は、もう知ってると思う』
美園は名刺を裏返した。
『会社から正式に抗議が入ったなら、黒木は追い詰められてる』
『諦めると思うか』
樹里の問いに、美園は首を横へ振る。
『諦められる人なら、最初から店まで来ないよ』
『私もそう思う』
『自分を守るために記事を捨てるか。使った金を取り戻すために、無理にでも形にするか』
美園は、もう一度写真へ目を落とした。
『たぶん、後者』
陽菜の目つきが変わる。
『じゃあ、どうする?』
『待つ』
『待つの?』
『黒木に写真を渡した人は、黒木の味方じゃない。金で売ったなら、金が切れた瞬間に関係も切れる』
美園はカウンターの上へ名刺を置いた。
『黒木も同じ。湯浅さんを守らなかった。写真を売った人間だって守らない』
『それなら、向こうが勝手に崩れるのを待つってことですか』
『ただ待つだけじゃないよ、総長』
美園の指が、名刺に記された出版社名をなぞる。
『黒木が記事にしようとしたとき、誰から何を買ったのかを説明しないといけない場所へ持っていく』
『出版社か』
『そこだけじゃない』
美園は顔を上げた。
その表情に、かつて人の集団を束ねていた頃の冷たさが、わずかに戻っていた。
『取材相手を騙して、社員から金で情報を買って、私的な写真まで購入した。そんな仕事をする人間だと知って、それでも黒木に記事を書かせたい相手がどれだけいると思う?』
『美園さん、それって——』
『脅すつもりはないよ』
美園は陽菜の言葉を遮った。
『本当のことを、本当の順番で確認してもらうだけ』
暴力は使わない。
昔の名前も、人数も使わない。
今の美園には、店があり、積み重ねてきた信用がある。
黒木が表の世界で生きる人間なら、その世界の中で責任を取らせればいい。
樹里は、美園をじっと見つめた。
『1人では動くな』
『わかってる』
『連絡する前に、必ず私たちに話せ』
『うん』
美園は素直にうなずいた。
『3人でやるんでしょ』
陽菜が、2人の顔を交互に見る。
そして、スマートフォンの画面を閉じた。
『だったら、写真を売ったやつを探すのも3人。黒木を止めるのも3人』
『そうだな』
『そうだね』
黒木は、金を払えば過去を手に入れられると思っていた。
榊は、過去を売れば金になると思っていた。
湯浅は、少しくらいなら見返りを受け取っても露見しないと思っていた。
けれど、金で結ばれた3人は、互いのために傷を負う関係ではない。
誰かが手を離せば、残った誰かがその重さを背負わされる。
そして今、その鎖は最も多くを掴んだ黒木の手に、深く食い込み始めていた。




