↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
144/329

144話「今なら止まれる」

翌朝。


 湯浅のパソコンには、黒木から届いた正式なメールが表示されていた。


 島川不動産からの申し入れを受け、企業紹介記事の公開は中止する。


 撮影した写真と録音データについても、契約に従って使用しない。


 文面だけを読めば、黒木は会社の判断を受け入れていた。


 湯浅はそのメールを広報部長へ転送し、取材中止の手続きを進めた。


 表向きは、それで終わった。


 だが、机の下に置いたスマートフォンは、朝から何度も震えていた。


 黒木からのLINE。


『日高さんと櫻井さんの社内での交友関係を確認してください』


『過去を知っていそうな人はいませんか』


『本人たちが入社以前について話した記録はありませんか』


 湯浅は、どの質問にも答えていない。


 昨夜、これ以上は関わらないと伝えた。


 それでも黒木からの連絡は止まらなかった。


『返事をください』


『こちらには、あなたとのやり取りが残っています』


『協力していただけない場合、私も自分を守る必要があります』


 脅迫とは書かれていない。


 だが、意味は明確だった。


 自分が受け取った金。


 黒木へ送った社員の入社時期。


 退社後の行き先。


 そのすべてが、LINEに残っている。


 湯浅は画面を伏せた。


 何も答えなければ、黒木も諦める。


 そう思おうとした。


 数分後、再びスマートフォンが震える。


 今度は、画像が一枚送られてきた。


 湯浅は開くか迷った。


 それでも、通知に表示された小さな画像を見てしまい、指が動いた。


 夜の道路。


 並んだバイク。


 揃いの特攻服を着た少女たち。


 画像は古く、暗い。


 しかし、前方に立つ2人の顔には見覚えがあった。


 日高樹里。


 櫻井陽菜。


 昨日まで自分が取材の補助をしていた、営業部の2人だった。


 続けて、黒木からメッセージが届く。


『写っているのは、本人たちで間違いありませんか』


 湯浅の指が震えた。


 黒木が欲しがっていたのは、入社時期ではなかった。


 通常の記事を作るための情報でもない。


 現在の2人と、写真に写る少女が同一人物だと、社内の人間に確認させようとしている。


『私には分かりません』


 湯浅は、それだけを返した。


『取材で間近に見ています。分からないはずがないでしょう』


『これ以上は協力しません』


『すでに協力しているのに?』


 湯浅は返事を打てなかった。


『今日中に確認してください』


 最後のメッセージを残し、黒木からの連絡が止まる。


 湯浅はスマートフォンを握ったまま、俯いた。


 取材を社内へ通す。


 入社時期を調べる。


 行き先を伝える。


 写真の人物が本人か確認する。


 一つひとつは、小さなことのように見えた。


 だが振り返れば、自分は黒木に引かれた線の上を、ここまで歩いてきていた。


 最初の場所へ戻る道は、もう見えない。


 昼休み前。


 陽菜が資料を抱えて廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。


「櫻井さん」


 振り返ると、湯浅が立っていた。


『湯浅さん。どうしました?』


「少し、お時間いいですか」


『広報の件ですか?』


「……はい」


 湯浅の顔色が悪い。


 陽菜はすぐに気づいた。


『ここで話せないこと?』


「できれば、人のいないところで」


『分かりました』


 陽菜は湯浅と一緒に、空いている小会議室へ入った。


 扉が閉まる。


 湯浅は椅子へ座らず、スマートフォンを両手で握っていた。


『取材は中止になったんですよね』


「はい。会社としての記事は中止です」


『じゃあ、何ですか?』


「黒木さんから、そのあとも連絡が来ています」


 陽菜の目が細くなる。


『どんな連絡ですか』


「その前に……謝らなければならないことがあります」


 湯浅は唇を結んだ。


 何度か言葉を出そうとして、飲み込む。


 陽菜は急かさなかった。


「私が、黒木さんに伝えました」


『何を?』


「お2人の入社時期と、勤務後にRoseへ行くことを」


 陽菜の表情から、すべての感情が消えた。


『どうしてですか』


「お金を、受け取っていました」


 湯浅の声が震える。


『最初から?』


「取材を社内へ通して、日高さんと櫻井さんを候補に挙げれば、紹介料を払うと言われました」


『紹介料』


「取材自体は、本当にある企画でした。媒体も、出版社も本物です。だから、少しくらいなら問題にならないと思って……」


『いくらもらったんですか』


 湯浅が金額を答える。


 陽菜は黙って聞いた。


「そのあと、入社時期を調べれば追加で払うと言われました。昨日は、退社後にどこへ行くか聞かれて……」


『それも、金をもらって教えたんですね』


「はい」


『あたしたちが話していたのを、偶然聞いたんですか?』


「はい」


『黒木さんが、あの時間に来たのは偶然じゃなかった』


「私が伝えたからです」


 陽菜は、ゆっくりと息を吐いた。


 握り締めた拳を、一度開く。


 湯浅へ怒鳴っても、起きたことは戻らない。


 ここで感情をぶつければ、湯浅は自分を守るために口を閉ざすかもしれない。


 何より、一人で話を終わらせてはいけない。


『日高先輩を呼びます』


「待ってください」


『待ちません』


「会社には言わないでください。お金は返します。全部返しますから」


『返せば、なかったことになるんですか?』


「そういうつもりでは……」


『あたしたちがRoseに行くことを教えたせいで、黒木さんは店まで来ました。そこで、仕事とは関係のない過去を聞かれました』


「すみません」


『美園さんの店まで巻き込んだんです』


「本当に、すみません」


『謝るなら、あたしだけに謝って終わらせようとしないでください』


 湯浅が顔を上げる。


『日高先輩にも、黒澤部長にも、自分で話してください』


「そんなことをしたら、私は……」


『何もなかったことにはできません』


 陽菜の声は厳しかった。


 だが、怒りだけではなかった。


『でも、今なら自分から止まれます』


「今なら……」


『黒木さんにばれて、会社に問い詰められてから話すのと、自分で間違いを認めて話すのは違います』


「許してもらえるでしょうか」


『分かりません』


 陽菜は、安易な慰めを口にしなかった。


『あたしには決められません。処分があるかもしれないし、信用も失うと思います』


 湯浅の目から涙が落ちる。


『それでも、まだ黒木さんの言うとおりに動くよりはいいです』


「……怖いです」


『だったら、一人で話さなくてもいいです』


 陽菜はスマートフォンを取り出す。


『日高先輩を呼びます。あたしも一緒にいます』


 湯浅は泣いたまま、僅かにうなずいた。


 数分後、樹里が会議室へ入ってきた。


 陽菜から事情を聞いても、声を荒らげなかった。


 湯浅の前へ座り、事実を一つずつ確認する。


『黒木さんとのやり取りは、全てLINEに残っていますか』


「はい」


『削除したものは?』


「ありません」


『受け取った金額と、振り込まれた記録も残っていますか』


「残っています」


『黒木さんから、ほかに何を求められましたか』


「社内での交友関係と、入社前について話した記録です。それから……」


 湯浅は震える手で、スマートフォンを樹里へ差し出した。


「この写真を送られました」


 画面を見た樹里の目が止まる。


 陽菜も隣から覗き込んだ。


 6年前の自分たちが、そこにいた。


 特攻服。


 バイク。


 黒と赤の薔薇。


 消したつもりのない過去。


 しかし、知らない人間へ勝手に売っていいものでもない時間。


『この写真を、黒木部長には見せる必要がありますか』


 陽菜が小声で尋ねる。


『黒澤部長だ』


『……間違えた』


 緊張の中で出た間違いに、樹里は一瞬だけ陽菜を見る。


 すぐに視線を画面へ戻した。


『写真の内容まで、今すぐ説明する必要はない。だが、黒木さんから個人的な画像を送られ、本人確認を求められたことは報告する』


 樹里は湯浅へスマートフォンを返した。


『画像もLINEも、削除しないでください』


「はい」


『黒木さんから連絡が来ても、返事をしないでください。新しい連絡が来た場合も保存してください』


「分かりました」


『それから、受け取ったお金も動かさないでください』


「返さなくていいんですか?」


『今、個人で返金すれば、黒木さんと直接交渉したことになります。会社へ報告して、指示を受けてください』


「……はい」


 樹里は立ち上がった。


『行きましょう』


「どこへ?」


『黒澤部長のところです』


 3人で営業部へ戻る。


 黒澤部長は、湯浅の顔を見るなり、ただ事ではないと察した。


 空いている会議室へ場所を移し、扉を閉める。


 湯浅は、自分の口で全てを話した。


 黒木から金を受け取ったこと。


 取材を社内へ持ち込んだこと。


 入社時期と退社後の行き先を伝えたこと。


 個人的な写真を送られ、本人確認を求められていること。


 黒澤部長は、最後まで遮らなかった。


 話を聞き終えると、深く息を吐く。


「湯浅さん。自分が何をしたか、分かってるな」


「はい」


「社員の情報を、金を受け取って外部へ渡した。広報として絶対にやってはいけないことだ」


「申し訳ありません」


「俺に謝って終わる話じゃない。広報部長と総務にも報告する」


「はい」


「処分について、俺から軽くするとは言えない」


「分かっています」


「ただ、自分から話したことは、そのまま伝える」


 湯浅が顔を上げる。


「櫻井さんに話さず、黒木に協力し続けることもできた。それを途中で止めたことまで、なかったことにはしない」


「……ありがとうございます」


「まだ礼を言う段階じゃない。今は、残っている記録を全部守れ。勝手に消すな。黒木へ返事もするな」


「はい」


「日高さんと櫻井さんも、今日から一人で帰るな。少なくとも、この件が片づくまではだ」


『承知しました』


『分かりました』


「勤務後に接触があったら、すぐ会社へ連絡しろ」


『はい』


 会議を終え、湯浅は広報部長のもとへ向かった。


 背中は小さく見えた。


 だが、もう黒木の指示に従うために歩いているわけではない。


 自分がしたことを、自分の言葉で話すために向かっていた。


 その夜。


 Roseの閉店後、樹里と陽菜は美園へ全てを伝えた。


 美園はカウンターに置かれたスマートフォンで、湯浅から送ってもらった写真を見る。


『懐かしい写真だね』


 声に懐かしさはなかった。


 画像の中には、樹里と陽菜だけではなく、その後ろに美園も写っている。


 顔は小さい。


 黒木が記事にしたいのは、あくまで前方の2人なのだろう。


 美園は写真を閉じた。


『湯浅さんは、全部話したんだね』


『はい』


『お金をもらったことも?』


『認めた』


『LINEも振り込みの記録も残ってる』


 陽菜が答える。


 美園は黒木の名刺をカウンターへ置いた。


『なら、黒木はもう湯浅さんを守らない』


『どういうこと?』


『金を払った相手が、自分から全部話した。黒木にとっては、役に立たないどころか、自分を巻き込む証拠を持った人になった』


『湯浅さんも、黒木を守る理由はない』


 樹里が続ける。


『ああ。金で繋がった相手だから、金が切れたら終わり』


 美園は写真が表示されていた画面へ目を落とす。


『もう一人、黒木にこれを売った人がいる』


『情報提供者』


『その人も、黒木を守る理由なんてない。黒木が金を払わなくなれば、別のところへ売るか、黒木のことまで話す』


『誰だろ』


『今は分からない。でも、黒木が一番嫌がるのは、その2人が自分より先に喋ること』


 陽菜が名刺を見る。


『出版社に全部持っていく?』


『まだ』


 美園が答えた。


『会社が動くなら、先にそっちへ任せる。私たちが勝手に出版社へ乗り込んだら、話がややこしくなる』


 樹里が美園を見る。


『ずいぶん冷静だな』


『総長に言われたくないよ』


 美園は僅かに笑った。


『本当は、今すぐ黒木を店に呼んで座らせたいけどね』


『呼ばないでください』


『分かってる。3人で決めるんでしょ』


『ああ』


 陽菜も小さくうなずく。


『うん』


 その頃。


 黒木は、湯浅へ新しいLINEを送っていた。


『確認は取れましたか』


 既読はつかない。


『今日中に返事をください』


 それでも反応はない。


 電話をかける。


 呼び出し音は鳴らず、すぐに切れた。


 黒木は画面を見つめた。


 湯浅が、自分を遮断した。


 何も言わずに逃げたのか。


 それとも、会社へ話したのか。


 確認する方法はなかった。


 別のLINEが届く。


 榊からだった。


『残り、まだ?』


 黒木は返信しない。


『今日までって言ったよね』


 続けて、もう一通。


『払わないなら、写真も話もほかへ売る』


 湯浅は、自分から繋がりを切った。


 榊は、金が止まれば別の買い手へ移ると言っている。


 黒木が金で集めた2人は、どちらも黒木自身には何の関心もなかった。


 金を受け取れない黒木に、従う理由などない。


 黒木は初めて、自分が3人の中心にいたのではないと気づいた。


 中心にあったのは、最初から金だけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。