144話「今なら止まれる」
翌朝。
湯浅のパソコンには、黒木から届いた正式なメールが表示されていた。
島川不動産からの申し入れを受け、企業紹介記事の公開は中止する。
撮影した写真と録音データについても、契約に従って使用しない。
文面だけを読めば、黒木は会社の判断を受け入れていた。
湯浅はそのメールを広報部長へ転送し、取材中止の手続きを進めた。
表向きは、それで終わった。
だが、机の下に置いたスマートフォンは、朝から何度も震えていた。
黒木からのLINE。
『日高さんと櫻井さんの社内での交友関係を確認してください』
『過去を知っていそうな人はいませんか』
『本人たちが入社以前について話した記録はありませんか』
湯浅は、どの質問にも答えていない。
昨夜、これ以上は関わらないと伝えた。
それでも黒木からの連絡は止まらなかった。
『返事をください』
『こちらには、あなたとのやり取りが残っています』
『協力していただけない場合、私も自分を守る必要があります』
脅迫とは書かれていない。
だが、意味は明確だった。
自分が受け取った金。
黒木へ送った社員の入社時期。
退社後の行き先。
そのすべてが、LINEに残っている。
湯浅は画面を伏せた。
何も答えなければ、黒木も諦める。
そう思おうとした。
数分後、再びスマートフォンが震える。
今度は、画像が一枚送られてきた。
湯浅は開くか迷った。
それでも、通知に表示された小さな画像を見てしまい、指が動いた。
夜の道路。
並んだバイク。
揃いの特攻服を着た少女たち。
画像は古く、暗い。
しかし、前方に立つ2人の顔には見覚えがあった。
日高樹里。
櫻井陽菜。
昨日まで自分が取材の補助をしていた、営業部の2人だった。
続けて、黒木からメッセージが届く。
『写っているのは、本人たちで間違いありませんか』
湯浅の指が震えた。
黒木が欲しがっていたのは、入社時期ではなかった。
通常の記事を作るための情報でもない。
現在の2人と、写真に写る少女が同一人物だと、社内の人間に確認させようとしている。
『私には分かりません』
湯浅は、それだけを返した。
『取材で間近に見ています。分からないはずがないでしょう』
『これ以上は協力しません』
『すでに協力しているのに?』
湯浅は返事を打てなかった。
『今日中に確認してください』
最後のメッセージを残し、黒木からの連絡が止まる。
湯浅はスマートフォンを握ったまま、俯いた。
取材を社内へ通す。
入社時期を調べる。
行き先を伝える。
写真の人物が本人か確認する。
一つひとつは、小さなことのように見えた。
だが振り返れば、自分は黒木に引かれた線の上を、ここまで歩いてきていた。
最初の場所へ戻る道は、もう見えない。
昼休み前。
陽菜が資料を抱えて廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「櫻井さん」
振り返ると、湯浅が立っていた。
『湯浅さん。どうしました?』
「少し、お時間いいですか」
『広報の件ですか?』
「……はい」
湯浅の顔色が悪い。
陽菜はすぐに気づいた。
『ここで話せないこと?』
「できれば、人のいないところで」
『分かりました』
陽菜は湯浅と一緒に、空いている小会議室へ入った。
扉が閉まる。
湯浅は椅子へ座らず、スマートフォンを両手で握っていた。
『取材は中止になったんですよね』
「はい。会社としての記事は中止です」
『じゃあ、何ですか?』
「黒木さんから、そのあとも連絡が来ています」
陽菜の目が細くなる。
『どんな連絡ですか』
「その前に……謝らなければならないことがあります」
湯浅は唇を結んだ。
何度か言葉を出そうとして、飲み込む。
陽菜は急かさなかった。
「私が、黒木さんに伝えました」
『何を?』
「お2人の入社時期と、勤務後にRoseへ行くことを」
陽菜の表情から、すべての感情が消えた。
『どうしてですか』
「お金を、受け取っていました」
湯浅の声が震える。
『最初から?』
「取材を社内へ通して、日高さんと櫻井さんを候補に挙げれば、紹介料を払うと言われました」
『紹介料』
「取材自体は、本当にある企画でした。媒体も、出版社も本物です。だから、少しくらいなら問題にならないと思って……」
『いくらもらったんですか』
湯浅が金額を答える。
陽菜は黙って聞いた。
「そのあと、入社時期を調べれば追加で払うと言われました。昨日は、退社後にどこへ行くか聞かれて……」
『それも、金をもらって教えたんですね』
「はい」
『あたしたちが話していたのを、偶然聞いたんですか?』
「はい」
『黒木さんが、あの時間に来たのは偶然じゃなかった』
「私が伝えたからです」
陽菜は、ゆっくりと息を吐いた。
握り締めた拳を、一度開く。
湯浅へ怒鳴っても、起きたことは戻らない。
ここで感情をぶつければ、湯浅は自分を守るために口を閉ざすかもしれない。
何より、一人で話を終わらせてはいけない。
『日高先輩を呼びます』
「待ってください」
『待ちません』
「会社には言わないでください。お金は返します。全部返しますから」
『返せば、なかったことになるんですか?』
「そういうつもりでは……」
『あたしたちがRoseに行くことを教えたせいで、黒木さんは店まで来ました。そこで、仕事とは関係のない過去を聞かれました』
「すみません」
『美園さんの店まで巻き込んだんです』
「本当に、すみません」
『謝るなら、あたしだけに謝って終わらせようとしないでください』
湯浅が顔を上げる。
『日高先輩にも、黒澤部長にも、自分で話してください』
「そんなことをしたら、私は……」
『何もなかったことにはできません』
陽菜の声は厳しかった。
だが、怒りだけではなかった。
『でも、今なら自分から止まれます』
「今なら……」
『黒木さんにばれて、会社に問い詰められてから話すのと、自分で間違いを認めて話すのは違います』
「許してもらえるでしょうか」
『分かりません』
陽菜は、安易な慰めを口にしなかった。
『あたしには決められません。処分があるかもしれないし、信用も失うと思います』
湯浅の目から涙が落ちる。
『それでも、まだ黒木さんの言うとおりに動くよりはいいです』
「……怖いです」
『だったら、一人で話さなくてもいいです』
陽菜はスマートフォンを取り出す。
『日高先輩を呼びます。あたしも一緒にいます』
湯浅は泣いたまま、僅かにうなずいた。
数分後、樹里が会議室へ入ってきた。
陽菜から事情を聞いても、声を荒らげなかった。
湯浅の前へ座り、事実を一つずつ確認する。
『黒木さんとのやり取りは、全てLINEに残っていますか』
「はい」
『削除したものは?』
「ありません」
『受け取った金額と、振り込まれた記録も残っていますか』
「残っています」
『黒木さんから、ほかに何を求められましたか』
「社内での交友関係と、入社前について話した記録です。それから……」
湯浅は震える手で、スマートフォンを樹里へ差し出した。
「この写真を送られました」
画面を見た樹里の目が止まる。
陽菜も隣から覗き込んだ。
6年前の自分たちが、そこにいた。
特攻服。
バイク。
黒と赤の薔薇。
消したつもりのない過去。
しかし、知らない人間へ勝手に売っていいものでもない時間。
『この写真を、黒木部長には見せる必要がありますか』
陽菜が小声で尋ねる。
『黒澤部長だ』
『……間違えた』
緊張の中で出た間違いに、樹里は一瞬だけ陽菜を見る。
すぐに視線を画面へ戻した。
『写真の内容まで、今すぐ説明する必要はない。だが、黒木さんから個人的な画像を送られ、本人確認を求められたことは報告する』
樹里は湯浅へスマートフォンを返した。
『画像もLINEも、削除しないでください』
「はい」
『黒木さんから連絡が来ても、返事をしないでください。新しい連絡が来た場合も保存してください』
「分かりました」
『それから、受け取ったお金も動かさないでください』
「返さなくていいんですか?」
『今、個人で返金すれば、黒木さんと直接交渉したことになります。会社へ報告して、指示を受けてください』
「……はい」
樹里は立ち上がった。
『行きましょう』
「どこへ?」
『黒澤部長のところです』
3人で営業部へ戻る。
黒澤部長は、湯浅の顔を見るなり、ただ事ではないと察した。
空いている会議室へ場所を移し、扉を閉める。
湯浅は、自分の口で全てを話した。
黒木から金を受け取ったこと。
取材を社内へ持ち込んだこと。
入社時期と退社後の行き先を伝えたこと。
個人的な写真を送られ、本人確認を求められていること。
黒澤部長は、最後まで遮らなかった。
話を聞き終えると、深く息を吐く。
「湯浅さん。自分が何をしたか、分かってるな」
「はい」
「社員の情報を、金を受け取って外部へ渡した。広報として絶対にやってはいけないことだ」
「申し訳ありません」
「俺に謝って終わる話じゃない。広報部長と総務にも報告する」
「はい」
「処分について、俺から軽くするとは言えない」
「分かっています」
「ただ、自分から話したことは、そのまま伝える」
湯浅が顔を上げる。
「櫻井さんに話さず、黒木に協力し続けることもできた。それを途中で止めたことまで、なかったことにはしない」
「……ありがとうございます」
「まだ礼を言う段階じゃない。今は、残っている記録を全部守れ。勝手に消すな。黒木へ返事もするな」
「はい」
「日高さんと櫻井さんも、今日から一人で帰るな。少なくとも、この件が片づくまではだ」
『承知しました』
『分かりました』
「勤務後に接触があったら、すぐ会社へ連絡しろ」
『はい』
会議を終え、湯浅は広報部長のもとへ向かった。
背中は小さく見えた。
だが、もう黒木の指示に従うために歩いているわけではない。
自分がしたことを、自分の言葉で話すために向かっていた。
その夜。
Roseの閉店後、樹里と陽菜は美園へ全てを伝えた。
美園はカウンターに置かれたスマートフォンで、湯浅から送ってもらった写真を見る。
『懐かしい写真だね』
声に懐かしさはなかった。
画像の中には、樹里と陽菜だけではなく、その後ろに美園も写っている。
顔は小さい。
黒木が記事にしたいのは、あくまで前方の2人なのだろう。
美園は写真を閉じた。
『湯浅さんは、全部話したんだね』
『はい』
『お金をもらったことも?』
『認めた』
『LINEも振り込みの記録も残ってる』
陽菜が答える。
美園は黒木の名刺をカウンターへ置いた。
『なら、黒木はもう湯浅さんを守らない』
『どういうこと?』
『金を払った相手が、自分から全部話した。黒木にとっては、役に立たないどころか、自分を巻き込む証拠を持った人になった』
『湯浅さんも、黒木を守る理由はない』
樹里が続ける。
『ああ。金で繋がった相手だから、金が切れたら終わり』
美園は写真が表示されていた画面へ目を落とす。
『もう一人、黒木にこれを売った人がいる』
『情報提供者』
『その人も、黒木を守る理由なんてない。黒木が金を払わなくなれば、別のところへ売るか、黒木のことまで話す』
『誰だろ』
『今は分からない。でも、黒木が一番嫌がるのは、その2人が自分より先に喋ること』
陽菜が名刺を見る。
『出版社に全部持っていく?』
『まだ』
美園が答えた。
『会社が動くなら、先にそっちへ任せる。私たちが勝手に出版社へ乗り込んだら、話がややこしくなる』
樹里が美園を見る。
『ずいぶん冷静だな』
『総長に言われたくないよ』
美園は僅かに笑った。
『本当は、今すぐ黒木を店に呼んで座らせたいけどね』
『呼ばないでください』
『分かってる。3人で決めるんでしょ』
『ああ』
陽菜も小さくうなずく。
『うん』
その頃。
黒木は、湯浅へ新しいLINEを送っていた。
『確認は取れましたか』
既読はつかない。
『今日中に返事をください』
それでも反応はない。
電話をかける。
呼び出し音は鳴らず、すぐに切れた。
黒木は画面を見つめた。
湯浅が、自分を遮断した。
何も言わずに逃げたのか。
それとも、会社へ話したのか。
確認する方法はなかった。
別のLINEが届く。
榊からだった。
『残り、まだ?』
黒木は返信しない。
『今日までって言ったよね』
続けて、もう一通。
『払わないなら、写真も話もほかへ売る』
湯浅は、自分から繋がりを切った。
榊は、金が止まれば別の買い手へ移ると言っている。
黒木が金で集めた2人は、どちらも黒木自身には何の関心もなかった。
金を受け取れない黒木に、従う理由などない。
黒木は初めて、自分が3人の中心にいたのではないと気づいた。
中心にあったのは、最初から金だけだった。




