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143話「中止」

翌朝。


 樹里と陽菜は、始業前に黒澤部長の席を訪れた。


「どうした?」


『昨日の取材について、お話があります』


 樹里の表情を見て、黒澤部長は手元の書類を閉じた。


「座れ」


 2人は応接用の椅子へ腰を下ろした。


 周囲には、まだ出社している社員が少ない。


 それでも樹里は声を落とした。


『記事の公開を、中止していただきたいです』


「昨日、問題の一文は削除させただろ。それ以外にも何かあったのか?」


『黒木さんが、昨夜、私たちの行きつけの店へ来ました』


「取材の編集者が?」


『はい』


『偶然だと言っていましたけど、あたしたちが店にいる時間に来たんです』


 黒澤部長の表情が変わる。


「そこで何を聞かれた?」


 樹里は僅かに間を置いた。


 Rose girlsという名前まで伝えれば、その意味を説明しなければならなくなる。


 過去を隠すために嘘をつくつもりはない。


 だが、今この場で全てを打ち明ける必要があるのか、判断できなかった。


『今回の企画とは関係のない、入社以前のことです』


「前にも聞かれた話か」


『はい。事前の打ち合わせ、取材当日、記事の文章。そして昨夜。全て、私たちの過去に関するものでした』


「店まで来て、個人的に聞いたと」


『そうです』


「記事にするつもりだと言われたのか?」


『可能性がある、という話し方でした』


 黒澤部長は腕を組んだ。


「日高さん。答えにくければ、はいかいいえだけでいい」


『はい』


「その過去は、今の仕事に関係があるか?」


『ありません』


「会社に損害を与えたことか?」


『違います』


「今も続いている、法に触れるようなことか?」


『ありません』


「なら、それ以上は聞かない」


 樹里が顔を上げる。


「会社の宣伝のために、社員が話したくない過去を売る必要はない。本人が公開を望まないなら、それで十分だ」


『ですが、会社としてはすでに撮影費用や――』


「そんなものは会社が考えることだ。日高さんが気にする必要はない」


 黒澤部長は陽菜を見る。


「櫻井さんも、中止を望んでるんだな?」


『はい』


 陽菜は迷わず答えた。


『写真を撮ってもらったことは楽しかったです。でも、あたしたちが話していないことまで記事にされるのは嫌です』


「分かった」


 黒澤部長は受話器を取り、広報部へ内線をかけた。


「黒澤だ。湯浅さんを営業部へ寄越してくれ。昨日の記事の件だ」


 通話を終える。


「本人たちが同意しない以上、あの記事は止める」


『ありがとうございます』


「礼はいらん。それより、また黒木が勤務後に接触してきたら、一人で対応するな。会社へ連絡しろ」


『承知しました』


『分かりました』


「特に櫻井さん」


『どうしてあたしだけ名指しなんですか?』


「追いかけて問い詰めそうだからだ」


『しませんよ』


「本当か?」


『……今回は』


「毎回しないと言え」


 黒澤部長の声に、陽菜は口を尖らせた。


『分かりました。しません』


 樹里が隣から陽菜を見る。


『本当にしてください』


『日高先輩まで疑わないでください』


「普段の行いだな」


『黒澤部長まで』


 僅かに空気が緩んだところで、湯浅が営業部へ入ってきた。


「お呼びでしょうか」


「昨日の記事は公開中止だ」


 黒澤部長は前置きなく告げた。


 湯浅の目が、僅かに見開かれる。


「中止、ですか」


「ああ。日高さんと櫻井さんが同意を撤回した」


「問題の文章は、すでに削除をお願いしています。修正版も、今日中には――」


「文章だけの問題じゃない。黒木が昨日、勤務後の2人へ接触した」


 湯浅の指が、抱えていたフォルダの端を強く掴む。


「勤務後に?」


「2人の行きつけの店まで来て、企画とは関係のない質問をしたらしい」


「……そうなんですか」


「広報部は把握してたか?」


「いいえ。聞いていません」


「なら、先方の勝手な行動だな。会社として、これ以上あの編集者とは仕事をさせられない」


「掲載を保留にして、先方へ事実確認をしてから判断することはできませんか」


「できない」


 黒澤部長は即答した。


「取材を受けた本人が中止を求めてる。記事を出す理由はもうない」


「ですが、すでに撮影も終わっています。媒体との今後の関係もありますし、広報部としては――」


「社員より、媒体との関係の方が大事か?」


「そういう意味ではありません」


「なら、止めろ」


 湯浅は何も言えなくなった。


 樹里と陽菜へ目を向ける。


「昨夜、黒木さんから、どのような質問をされたんですか」


『入社以前の交友関係についてです』


「具体的には?」


『これ以上は、個人的な内容になります』


 樹里は静かに線を引いた。


『取材の中止に必要な説明は、すでに黒澤部長へしています』


「……分かりました」


「先方への連絡は、今日中に頼む」


「承知しました」


 湯浅は頭を下げ、営業部を出ていった。


 廊下へ出ても、すぐには広報部へ戻らなかった。


 人のいない給湯室へ入り、扉を閉める。


 スマートフォンを取り出し、黒木とのLINEを開いた。


『記事は中止です』


 送信すると、すぐに着信があった。


 湯浅は一度見送った。


 しかし、再び着信が表示される。


「……はい」


「どういうことですか」


 黒木の声から、これまでの穏やかさが消えていた。


「昨夜、2人に接触しましたか?」


「偶然会っただけです」


「行き先を聞いた直後に、同じ店へ行ったんですよね」


「追加取材が必要でした」


「会社を通さずに?」


「過去の確認は、会社を通したら止められます」


「実際、止められました」


「あなたが余計な報告をしたんですか?」


「していません。日高さんたちから黒澤部長へ話しています」


 電話の向こうで、黒木が小さく息を吐く。


「あなたには、社内で企画を通してもらうところまで頼みました」


「通しました。取材も撮影も終わっています」


「記事が出なければ意味がない」


「中止にしたのは、私ではありません」


「追加で払った分は、返してください」


 湯浅の表情が固まる。


「どうしてですか」


「情報が役に立たなかったからです」


「頼まれたとおり、入社時期も行き先も伝えました」


「その行き先で警戒され、記事が止まったんです。むしろ損をしています」


「それは、黒木さんの動き方が悪かったからでしょう」


 口にしてから、湯浅は自分の声が強くなっていることに気づいた。


 黒木も黙る。


「お金は返しません」


「湯浅さん」


「私は頼まれたことをしました。これ以上は関わりません」


「今さら抜けられると思っているんですか?」


「どういう意味ですか」


「会社の社員情報と、勤務後の行き先を外部へ渡した。広報部員として問題になるのでは?」


 湯浅の顔から血の気が引く。


「脅しているんですか」


「事実を確認しただけです」


「黒木さんだって、私に頼んだ側でしょう」


「だから、お互いに困ることはしない方がいい」


 黒木の声は、再び落ち着きを取り戻していた。


「記事の公開が止まっただけです。まだ終わってはいません」


「何をするつもりですか」


「企業紹介として出せないなら、別の記事にします」


「会社の許可なしで?」


「会社を紹介する記事ではありません。情報提供を受けて、個人の過去を調べる記事です」


「そんなことをしたら――」


「湯浅さんには、引き続き協力していただきます」


「嫌です」


「では、今までのやり取りについて編集部と島川不動産へ説明しますか?」


 湯浅は答えられなかった。


 黒木は返事を待たず、通話を切った。


 給湯室には、冷蔵庫の機械音だけが残る。


 金を受け取ったとき、湯浅は自分が黒木より優位にいると思っていた。


 社内への入口を持っているのは自分。


 黒木は、自分の協力なしでは取材できない。


 だが、今は違う。


 受け取った金と、自分が送ったLINEが、湯浅を黒木へ繋ぎ止めていた。


 営業部では、陽菜が昨夜のことを思い返していた。


 誰が、自分たちの行き先を聞いていたのか。


 Roseへ行くと話したのは、終業間際。


 周囲には、何人かの社員がいた。


 その中に、書類を持って営業部へ来ていた湯浅もいた。


『日高先輩』


 陽菜が小声で呼ぶ。


『どうしました』


『昨日、あたしたちがRoseに行くって話したとき、湯浅さんが近くにいました』


 樹里の手が止まる。


『聞かれていたと?』


『分からない。聞こえる距離にはいたと思う』


『それだけでは、湯浅さんが黒木へ伝えた証拠にはなりません』


『うん。だから、まだ何も言わない』


『そうしてください』


『でも、美園さんには伝える』


『ああ』


 陽菜は、3人のLINEへ短いメッセージを送った。


『昨日、会社でRoseの話をしたとき、近くに湯浅さんがいた。証拠はないから、まだ聞かない』


 美園から、すぐに返信が届く。


『分かった。今は名前だけ覚えておく』


 続けて、美園が調べた内容が送られてくる。


『黒木の名刺は本物。出版社のサイトにも名前がある。過去の記事も何本か出てる』


『評判は?』


 陽菜が尋ねる。


『表向きは普通。受賞歴も炎上もない。ただ、会社も名前も全部表に出てる人』


 樹里が返信する。


『だからこそ、会社へ知られることを避けたいはずだ』


『うん。逃げる場所はない』


 美園は、公開されている情報しか調べていない。


 黒木の勤務先へ電話をかけたわけでも、本人を追ったわけでもない。


 3人で決めた範囲を守っている。


『総長たちは、今夜も来る?』


『行く』


『あたしも行く』


 陽菜が続けた。


 勤務を終えたら、3人でもう一度情報を整理する。


 誰か一人で動かない。


 その方針は変わらなかった。


 一方、黒木は編集部の会議室で、榊へ電話をかけていた。


「会社から記事を止められた」


「だから?」


「このままでは、もらった情報を使えない。裏付けも足りない」


「私には関係ないでしょ。写真も店も教えた」


「残りの金は払えない」


「もう払ったでしょ」


「半分だけだ」


「残りも払う約束だった」


「記事にならなければ、金は出ない」


 電話の向こうで、榊が笑った。


「それ、私に関係ある?」


「使えない情報を売った責任はある」


「使えないんじゃなくて、あんたが使えなかっただけでしょ」


「なら、本人だと証明できるものを出せ」


「追加料金」


「ふざけるな」


「金を払わないなら、別のところに売るだけ」


「同じ写真をほかへ売れば、契約違反だ」


「契約書なんて作ってないじゃん」


 黒木は言葉を失った。


 金を払えば、情報は自分だけのものになると思っていた。


 だが榊には、黒木との約束を守る理由がない。


 信頼も、義理もない。


 あるのは、どちらが多く払うかだけだった。


「勝手に動くな。こちらから連絡する」


「残りの金、明日までだから」


 榊は一方的に通話を切った。


 黒木はスマートフォンを机へ置く。


 湯浅は抜けようとしている。


 榊は、情報をほかへ売ろうとしている。


 自分が金で集めた2人が、同時に手元から離れ始めていた。


 記事を形にしなければならない。


 払った金を無駄にしないために。


 編集部での評価を失わないために。


 そして、自分が間違っていなかったと証明するために。


 黒木は企業紹介の記事データを閉じ、新しい文書を開いた。


 白い画面の一番上へ、仮の題名を入力する。


 ――過去を隠して働く、2人の女性社員。


 会社が止めた記事とは別のものが、そこで書き始められようとしていた。

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