142話「名前を出した時点で」
美園は、昨夜と同じ酒をグラスへ注いだ。
丸い氷の上を、琥珀色の液体が静かに流れる。
『お待たせしました』
「ありがとうございます」
黒木はグラスを受け取り、一口だけ飲んだ。
樹里と陽菜は、隣り合った席に座ったまま動かない。
黒木がこの店を訪れたのは、昨夜が初めてだったという。
そして今夜、樹里と陽菜が来ている時間に、再び現れた。
「先ほどは、記事の件でご迷惑をおかけしました」
黒木が先に口を開く。
「ご指摘いただいた一文は、削除しました。修正版は明日、改めて広報部へお送りします」
『承知しました』
樹里は、会社で見せるものと変わらない態度で答えた。
『どうして、あの文章を入れたんですか?』
陽菜が尋ねる。
「取材の中で、お2人が仕事を通して変わったという印象を受けました。記事として読みやすくするため、少し表現を補ったつもりでした」
『でも、あたしたちは“それまでの環境を離れた”なんて言ってません』
「おっしゃるとおりです。こちらの表現が行き過ぎていました」
『本当に、それだけですか?』
「それだけ、とは?」
『打ち合わせでも、取材でも、入社前のことを聞きましたよね』
「記事に人物としての奥行きを持たせたかったんです」
『今回の記事は、仕事を紹介するためのものだと聞いています』
樹里が間へ入る。
『私たちの入社以前については、取材の範囲に含まれていません』
「承知しています。今後は、事前に確認した内容以外の質問はいたしません」
黒木は素直に答えた。
謝罪の言葉も、態度も整っている。
それでも陽菜の目から、警戒は消えなかった。
美園はカウンターの中で、3人の会話を聞いていた。
黒木は偶然を装っている。
しかし、樹里たちの記事を担当している編集者が、取材の翌日にRoseを訪れた。
さらに、その次の日には樹里と陽菜がいる時間に現れた。
偶然として飲み込むには、出来すぎている。
『昨日、この店へ来たのも取材の一部ですか?』
美園が尋ねる。
「いえ。昨日はこちらのお2人が、この店へ来ることも知りませんでした」
『じゃあ、どうしてRoseに?』
「以前から名前だけは聞いていました。近くへ来たので、立ち寄ったんです」
『誰から聞いたんですか?』
「取材先について調べる中で、偶然見つけました」
『うちの店は、島川不動産の取材先じゃないよ』
「もちろんです。店内を撮影したわけでも、取材を申し込んだわけでもありません」
『店に来ること自体を責めてるんじゃない』
美園は黒木のグラスを見た。
昨夜と同じように、酒はほとんど減っていない。
『何を確かめに来たのか聞いてるの』
黒木は、すぐには答えなかった。
店内に流れる音楽だけが、沈黙を埋める。
「Roseという店名について、少し気になることがありました」
美園の表情は変わらない。
『何が気になったんですか?』
「昔、この辺りに同じ名前を持つ集団があったと聞いています」
陽菜の指が、グラスの上で止まる。
樹里は黒木から目を逸らさなかった。
黒木は3人の反応を見ながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「Rose girls」
店の空気が、一瞬で冷えた。
陽菜が椅子から立ち上がりかける。
『櫻井さん』
樹里の声に、陽菜の動きが止まった。
呼び方は会社のまま。
黒木の前で、自分たちの関係を余計に見せるわけにはいかない。
陽菜は唇を噛み、もう一度椅子へ座った。
『その名前を、どこで知ったんですか?』
「編集部へ、情報提供がありました」
『誰から?』
「情報提供者については、お話しできません」
『こっちのことは聞くのに、自分の方は言えないんですね』
「情報源を守ることも、編集者の仕事です」
『それで、あたしたちに何を聞きたいんですか』
陽菜の声から、いつもの明るさが消えている。
「日高さんと櫻井さんが、過去にRose girlsと呼ばれるチームへ所属していたという情報があります」
美園の手が、カウンターの下で強く握られた。
だが、表情には出さなかった。
黒木が見ているのは、樹里と陽菜だけだった。
「事実でしょうか」
『お答えする必要はありません』
樹里が即座に拒む。
「否定はされないんですね」
『肯定もしていません』
「もし事実であれば、現在のお仕事とは大きく異なる経歴です。過去から現在まで、どのように変わってこられたのか。読者にとって、非常に興味深い内容になると思います」
『興味深ければ、本人が話していないことを記事にしていいんですか?』
「一方的な記事にするつもりはありません。だからこそ、こうして確認しています」
『会社を通さず、勤務後に、店まで来て?』
陽菜の問いに、黒木の返事が僅かに遅れる。
「今夜お会いしたのは偶然です」
『昨日、この店へ来たのも?』
「それは先ほどお話ししたとおりです」
『Rose girlsを調べて、Roseという名前の店を見つけた。そこへ昔の仲間がいると知って来たんじゃないんですか?』
黒木の目が、初めて美園へ向いた。
美園は接客用の笑みを浮かべたまま、その視線を受け止める。
「昔の仲間、というのは?」
『私から答えることはないよ』
美園は静かに返した。
『それより、黒木さん。今しているのは、仕事としての質問ですか?』
「記事に関わる確認ではあります」
『だったら、名刺をください』
「名刺?」
『うちの店で、お客様に取材をするつもりなんですよね』
「取材というほど正式なものではありません」
『仕事なら名乗る。仕事じゃないなら、他のお客様の過去を詮索しない。どっちかにしてください』
美園の声は穏やかだった。
しかし、曖昧な逃げ道は残していない。
『どこの誰かも分からない人に、お客様のことは話せないから』
黒木は僅かに考えたあと、鞄から名刺入れを取り出した。
一枚抜き、美園へ差し出す。
「黒木です」
『ありがとうございます』
美園は両手で名刺を受け取った。
出版社名。
編集部。
黒木の氏名。
会社の住所と電話番号。
美園は一通り目を通し、名刺をカウンターの内側へ置いた。
『これで、誰が聞いているのかは分かりました』
「では、改めて伺っても?」
『駄目です』
黒木の眉が僅かに動く。
『黒木さんがどこの誰か分かったことと、私がお客様のことを話すかは別です』
「そうですか」
『それに、今夜はもう、これ以上店でその話をしないでください』
「営業を妨げたつもりはありません」
『3人しかいなくても、ここは私の店です。お酒を飲むならお客様として歓迎します。でも、許可なく誰かの過去を聞き出す場所にはさせません』
美園は黒木の前へ伝票を置いた。
『今夜は、お帰りください』
黒木は、美園をしばらく見つめた。
声を荒らげられたわけではない。
脅されたわけでもない。
それでも、このまま居座れば自分の方が不利になることは理解した。
「分かりました」
黒木は財布を取り出し、代金を置いた。
「日高さん、櫻井さん。今日の質問については、改めて会社を通して確認させていただきます」
『取材範囲を超える質問にはお答えしません』
『あたしも同じです』
「承知しました」
黒木は立ち上がった。
扉へ向かいかけ、途中で振り返る。
「過去を隠したいお気持ちは分かります。ただ、隠すことと、なかったことにすることは違います」
樹里の目が鋭くなる。
『私たちは、なかったことになどしていません』
「では、話せることもあるのでは?」
『あなたに話すことはないと言っています』
樹里の声は静かだった。
しかし、その一言で黒木は口を閉じた。
「失礼しました」
黒木は扉を開け、夜の外へ消えた。
美園はすぐに鍵を掛けた。
店内へ戻ると、黒木の名刺をカウンターの中央へ置く。
陽菜が抑えていた息を吐き出した。
『何、あいつ』
『陽菜』
『分かってる。追いかけたりしない』
美園に言われる前に、陽菜は答えた。
『でも、ふざけてる。仕事の記事だって言って、写真まで撮って。それで昔の写真と並べるつもり?』
『可能性はある』
樹里は黒木の名刺を見る。
『編集部へ情報提供があったと言っていた』
『誰だろ』
『分からない』
『黒木は、昨日もここへ来た』
美園が言う。
『そのときは、総長と陽菜が来ることを知らなかったはず。今日の行き先を誰かから聞いたとしても、それより前から、この店を知ってたことになる』
『Rose girlsを調べて、ここまで来たんだね』
『そうだと思う』
美園は、昨日の黒木を思い出す。
酒を飲まず、店内を見ていた。
店名の由来を尋ねた。
出版関係の仕事をしているとは話したが、名刺も会社名も出さなかった。
『最初から、私がここにいると知って来た可能性が高い』
樹里が顔を上げる。
『美園まで調べられていたのか』
『調べられたというより、あの男にとって私は裏付けなんだと思う』
『裏付け?』
『総長と陽菜がRose girlsだったと証明するための、昔の仲間』
陽菜が黒木の名刺を睨む。
『ターゲットは、あたしたち2人ってこと?』
『黒木が質問していたのは、総長と陽菜だけ。記事にしたいのも、会社員の2人なんでしょ』
『そうだ』
樹里が答える。
『なら、美園は関係ない』
『関係あるよ』
美園は迷わず言った。
樹里と陽菜が同時に美園を見る。
『狙われてるのは、総長と陽菜かもしれない。でも、売ろうとしてる過去は、あんたたち2人だけのものじゃない』
美園はカウンターに置かれた名刺へ指を添えた。
『Rose girlsの名前を出した時点で、これは私の話でもあるよ』
『美園』
『私だけ外に置くつもり?』
『そういうつもりではない』
『だったら、3人で考えよう』
美園は2人を順番に見る。
『一人で確かめに行かない。一人で相手を追わない。勝手に何かを決めない』
陽菜が小さくうなずく。
『うん』
美園の視線が、樹里へ向く。
『総長も』
『分かっている』
『今度こそ、本当にね』
『ああ』
樹里は短く答えた。
その返事を聞き、美園は名刺から手を離す。
『まず、分かってることを整理する』
美園は指を一本立てる。
『黒木は、取材を使って2人へ近づいた』
2本目。
『会社の誰かが、今日2人がここへ来ることを教えた可能性がある』
3本目。
『黒木へ昔の情報を渡した人間が、別にいる』
『最低でも3人いるかもしれないってこと?』
『黒木一人で全部調べた可能性もある。でも、情報提供者がいることは自分で認めた』
『会社の人間については、まだ決めつけない方がいい』
樹里が言う。
『私たちが店名を口にしたのを、偶然聞かれただけかもしれない』
『でも、誰かが黒木へ伝えなければ、今日ここには来られないよ』
『ああ』
『明日、会社で黒澤部長へ報告する?』
陽菜に問われ、樹里は少し考える。
『取材範囲を超えた質問を、勤務後に受けたことは報告する。記事の公開も止めてもらう』
『Rose girlsのことは?』
『今の時点で、すべて話す必要はない。個人の過去を探る取材だったと伝えればいい』
『私は、この出版社と黒木について調べる』
美園が名刺を持ち上げる。
『公開されてる情報だけ。店から出ない。勝手に会いに行かない』
『そこまで先に言われると、疑っているように聞こえる』
『疑ってるよ。総長は人のこと言えないでしょ』
『……分かった』
『陽菜は、今日Roseへ行くって会社で誰に聞かれたか思い出して』
『やってみる』
3人は、それぞれの役割を決めた。
樹里は会社から正式に取材を止める。
陽菜は、情報がどこから漏れたのかを探る。
美園は、黒木の表側を調べる。
殴り込む者はいない。
相手を脅しに行く者もいない。
誰か一人が、残りの2人を置いて動くこともない。
かつての3人なら、真っ先に黒木のあとを追っていただろう。
今は違う。
黒木が置いていった一枚の名刺を囲み、3人は同じ場所で次の手を考えていた。
過去をなかったことにはしない。
だが、金に換えることも許さない。
その意思だけは、3人とも同じだった。




