141話「言っていない」
取材から3日後。
広報部の湯浅から、掲載前の記事と写真が社内メールで届いた。
公開前の確認用として、樹里と陽菜のほか、黒澤部長にも同じデータが送られている。
陽菜はメールを開くなり、真っ先に写真を確認した。
『日高先輩、見ました?』
『今、記事を確認しています』
『写真、すごくよくないですか?』
『先に文章を読んでください』
『文章は逃げませんよ。写真は今見てもあとで見ても同じですけど』
『それなら、文章を先に読んでも同じでしょう』
『あたし、ちゃんと笑えてる』
陽菜は樹里の言葉を聞かず、掲載候補の写真を次々に開いていく。
仕事をしている樹里。
電話で話している陽菜。
営業部で2人が並んでいる写真。
中でも陽菜が気に入ったのは、撮影中の会話で思わず笑った瞬間を収めた一枚だった。
『日高先輩も笑ってますよ』
『僅かにです』
『笑ってることには変わりないじゃないですか』
『写真ではなく、記事を確認してください』
『この写真、美園さんにも送っていいですか?』
『まだ公開前です。勝手に送らないでください』
『じゃあ、今日見せに行きます』
『人の話を聞いていますか』
樹里は小さく息を吐き、記事の続きを読んだ。
題名は、街を支える2人の女性営業職。
仕事内容や、顧客と接するときに心掛けていることが、読みやすい文章にまとめられている。
樹里の回答も、意味を大きく変えない範囲で整えられていた。
陽菜が話した内容も、本人らしい柔らかさを残している。
記事としては、よくできていた。
撮影の際に何度か余計な質問をされたことを除けば、黒木の仕事に問題は見当たらない。
そう思いかけたところで、樹里の視線が一つの文章に止まった。
――2人は入社をきっかけに、それまでの環境を離れ、新しい人間関係の中で自分自身を作り直してきた。
樹里は、その一文をもう一度読む。
『櫻井さん』
『どの写真がいいです?』
『記事を読んでください』
『今から読みますって』
『この部分です』
樹里は画面上の一文を選択した。
陽菜が椅子ごと近づき、樹里のパソコンを覗き込む。
『……これ、あたしたち言った?』
『私は言っていません』
『あたしも』
陽菜の表情から、撮影写真を見ていたときの明るさが消える。
『それまでの環境を離れたって、何のこと?』
『一般的な表現として加えた可能性はあります』
『でも、自分自身を作り直したって』
『私たちが話した内容ではありません』
陽菜は自分の席へ戻り、記事の最初から読み直した。
ほかに大きく内容を変えられた部分はない。
問題があるのは、その一文だけだった。
「どうした?」
黒澤部長が2人の様子に気づき、席を立つ。
『記事の中に、私たちが話していない内容が入っています』
「どこだ?」
樹里が該当箇所を見せる。
黒澤部長は文章を読み、眉を寄せた。
「確かに、仕事の紹介には必要なさそうだな」
『削除をお願いしてもよろしいでしょうか』
「当然だ。本人が話してないことを、勝手に事実みたいに書かせるわけにはいかない」
黒澤部長は、自分のパソコンへ戻る。
「俺から広報にも言っておく。日高さんたちも、ほかに違うところがないか全部確認してくれ」
『承知しました』
『分かりました』
黒澤部長から連絡を受けた湯浅は、すぐに営業部へやってきた。
「申し訳ありません。私も確認したのですが、取材内容を要約した表現だと思い、そのままお送りしてしまいました」
『私たちは、過去の環境を離れたとは話していません』
「はい。おっしゃるとおりです」
『どうして、この文章が加わったんですか?』
陽菜が尋ねる。
「記事に変化を持たせるためだと思います。ただ、本人の発言と受け取られる書き方は適切ではありません。黒木さんには、削除するよう伝えます」
『お願いします』
「ほかにも、修正したい部分があれば遠慮なくおっしゃってください」
湯浅は、すぐにその場で黒木へ会社のメールを送った。
数分後には返信が届く。
「該当箇所は削除するそうです。黒木さんからも、表現が行き過ぎたと謝罪がありました」
『分かりました』
『ずいぶん早いですね』
「公開前の確認は、そのために行っていますから」
湯浅の受け答えに不自然なところはない。
問題のある文章も、指摘すればすぐに削除された。
樹里は記事全体を確認し直し、それ以上の修正は求めなかった。
湯浅が広報部へ戻ったあと、陽菜が声を落とす。
『日高先輩』
『何ですか』
『あの文章、私たちが黙ってたら、そのまま載せたのかな』
『その可能性はあります』
『反応を見てるみたいだった』
樹里は、すぐには答えなかった。
打ち合わせでも、取材当日にも、黒木は入社以前について尋ねた。
そして今回は、2人が話していない過去の変化を文章へ入れた。
すべてを偶然と呼ぶこともできる。
記事を読みやすくするための表現だと言われれば、それ以上追及する根拠はない。
だが、同じ方向へ3度続いている。
『覚えておきましょう』
『うん』
『現時点では、それだけです』
『分かってる』
陽菜は記事の画面を閉じかけ、途中で手を止めた。
『写真は、美園さんに見せてもいいよね』
『公開前のデータです』
『送らないよ。店で見せるだけ』
『私たち以外へ見せないでください』
『分かってる。じゃあ、仕事終わったら行こう』
樹里は断らなかった。
陽菜はすぐに美園へLINEを送る。
『今日、取材の写真見せに行く』
美園からの返事は短かった。
『待ってる』
そのやり取りを、少し離れた場所から湯浅が見ていたわけではない。
湯浅は、2人のLINEの内容を知らない。
ただ、終業間際に営業部へ書類を届けた際、陽菜の声が耳に入った。
『日高先輩、今日はRoseに直接行きます?』
『一度、荷物を置いてから向かいます』
『じゃあ、あたしもそうします』
店名だけなら、何の意味もない会話だった。
湯浅は営業部を出て、廊下の角を曲がる。
誰もいないことを確認してから、スマートフォンを取り出した。
黒木からは、すでにLINEが届いていた。
『今日、2人が仕事のあとにどこへ行くか確認できますか』
湯浅は足を止めた。
『それは取材とは関係ありません』
『記事の追加取材先を検討しています』
『本人たちへ正式に聞いてください』
『それでは意味がありません』
続けて、金額が送られてくる。
前回よりも多かった。
湯浅は、すぐには返事をしなかった。
社員の入社時期を伝えることと、退社後の行き先を教えることは違う。
偶然耳にした会話を、そのまま外部へ渡す。
もう、取材を円滑に進めるための協力とは言えない。
スマートフォンの画面を消す。
数歩進んだところで、再び足を止める。
昨日、口座へ振り込まれた金は、まだ使っていない。
返そうと思えば返せる。
今なら、まだ引き返せる。
そう考えながら、湯浅はもう一度画面を開いた。
『Roseという店へ行くようです』
送信したあと、胸の奥に重いものが残った。
だが、黒木から届いた返事は、その重さを数字へ変えた。
『ありがとうございます。今夜中に振り込みます』
湯浅はLINEを閉じ、何事もなかったように広報部へ戻った。
その夜。
樹里と陽菜は、Roseのカウンターに並んで座っていた。
陽菜がスマートフォンへ保存した確認用の写真を、美園へ見せている。
『見て、美園さん。これ、いいでしょ』
『陽菜は楽しそうだね』
『実際、楽しかったから』
『総長もちゃんと笑ってる』
『笑っていない』
『笑ってるよ。ほんの少しだけど』
『カメラマンが、今の顔がいいって』
『余計なことを言うな』
美園は画面を指で拡大する。
樹里の表情を確認したあと、陽菜の方を見る。
『これ、保存していい?』
『駄目です』
『公開されたら送るよ』
『公開されても、私は送りません』
『じゃあ陽菜にもらう』
『うん』
『勝手に決めるな』
3人の間に、いつもの空気が流れる。
美園は写真を一通り見たあと、スマートフォンを陽菜へ返した。
『記事は、どんな感じだったの?』
『ほとんどは普通だったよ。でも、あたしたちが言ってないことを一つ書かれてた』
『言ってないこと?』
陽菜が問題の一文を説明する。
美園の笑みが、僅かに薄くなった。
『それまでの環境を離れた。自分を作り直した、か』
『うん』
『ずいぶん、意味を持たせた書き方だね』
『総長は、記事っぽく整えただけかもしれないって』
『かもしれない、とは言った。問題がないとは言っていない』
『同じようなものじゃない?』
『違う』
美園は新しいグラスを取り出しながら、樹里を見る。
『その黒木って人、入社前のことを聞いてきた人だよね』
『ああ』
『今回で3度目』
『そうなる』
『偶然にしては、同じ場所へ触りすぎじゃない?』
樹里は答えなかった。
陽菜も、スマートフォンを持ったまま黙っている。
そのとき、Roseの扉が開いた。
『いらっしゃいませ』
美園が入口へ顔を向ける。
入ってきた男性を見て、その目が僅かに細くなった。
昨夜、一人で店へ来た客だった。
酒よりも店内を見ていた、出版関係の男。
「こんばんは」
『昨日のお客様ですね』
「覚えていただいていましたか」
『一度来た人の顔は、なるべく覚えるようにしてるので』
黒木は微笑み、カウンターへ近づいた。
そこで初めて樹里と陽菜に気づいたような顔をする。
「日高さんと、櫻井さん」
陽菜が目を見開く。
『黒木さん?』
美園の視線が、黒木から陽菜へ移る。
『知り合い?』
『この人。あたしたちを取材した編集者』
店内の空気が変わった。
美園は、もう一度黒木を見る。
『編集者』
「はい。昨日お話しした、出版関係の仕事です」
『昨日は、下見みたいなものだって言ってましたよね』
「ええ。この辺りに、記事にできそうな場所がないか見ていました」
『それで、今日も?』
「偶然ですね。まさか、お2人の行きつけだったとは思いませんでした」
黒木は穏やかに答えた。
声も、表情も、会社で会ったときと変わらない。
陽菜は黒木を見たまま、何も言わなかった。
樹里も、カウンターの上へ置いていた手を動かさない。
美園だけが、いつもの接客用の笑みを浮かべていた。
『そうですか。偶然なんですね』
「はい」
『では、ご注文は昨日と同じで?』
「お願いします」
『かしこまりました』
美園は背を向け、棚から酒を取る。
その動作は普段と変わらない。
しかし、グラスへ氷を入れながら、美園はカウンター越しに樹里を見た。
樹里も美園を見る。
続けて、陽菜と視線が重なる。
言葉はなかった。
それでも、3人には同じことが伝わっていた。
これは、偶然ではない。
標的になっているのは、樹里と陽菜。
だが黒木がRoseの扉を開けた瞬間から、その話はもう、2人だけのものではなくなっていた。




