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140話「値段」

翌朝。


 湯浅は、始業前の広報部で一人、パソコンの画面を見つめていた。


 表示されているのは、社内の社員情報一覧。


 所属部署。


 役職。


 入社年月。


 内線番号。


 業務上必要な範囲に限られているが、広報部員である湯浅にも閲覧できる情報だった。


 検索欄へ、日高樹里と入力する。


 続けて、櫻井陽菜。


 昨日、黒木から求められた入社時期は、すぐに確認できた。


 これを外部へ伝えることが、許されているわけではない。


 掲載する社員情報は、本人と会社の承認を受けてから公開する。


 それが広報部の決まりだった。


 湯浅は一度、画面を閉じた。


 取材は正式なものだ。


 入社時期も、記事が完成すれば掲載される可能性がある。


 先に編集者へ伝えたところで、大きな問題にはならない。


 頭の中で理由を並べる。


 どれも、自分を完全に納得させるほどではなかった。


 スマートフォンが震える。


 黒木からのLINEだった。


『確認できましたか』


 湯浅は周囲を見た。


 まだ出社している社員は少ない。


『入社時期だけなら確認できます』


『お願いします』


『それ以外の経歴は無理です。私には閲覧権限がありません』


『学歴や前職も確認できませんか』


『できません』


 返信すると、すぐに新しいメッセージが届いた。


『入社時期だけでも構いません。昨日お話しした金額を追加します』


 湯浅は画面を見つめる。


 最初に受け取る約束をした金は、取材を社内へ通すためのものだった。


 今回の金は、社内情報を渡すためのものになる。


 意味が違う。


 その境界が見えていながら、湯浅はもう一度社員情報一覧を開いた。


 2人の入社年月を確認し、数字だけを黒木へ送る。


『これ以上はできません』


『助かりました。入金は今日中にします』


 湯浅はLINEを閉じた。


 数字を2つ伝えただけ。


 住所も、家族構成も、個人の連絡先も渡していない。


 自分へそう言い聞かせ、通常の仕事へ戻った。


 だが、一度越えた境界は、越える前よりも見えにくくなっていた。


 同じ頃。


 黒木のもとには、榊から追加のデータが届いていた。


 古い写真だけではない。


 当時、地域の掲示板へ書き込まれていた内容を保存した画面。


 Rose girlsの名前。


 総長と副総長について語る、匿名の文章。


 個人名までは書かれていない。


 犯罪の記録でもなければ、公的な資料でもない。


 しかし、写真に写った特攻服の文字と、掲示板に残されたチーム名は一致していた。


 黒木は一つずつデータを確認し、榊へLINEを送る。


『これでは噂の裏付けにしかならない。本人の名前が出ているものはないのか』


『昔のことなんだから、そんな都合のいい書類が残ってるわけないでしょ』


『記事にするなら必要だ』


『写真がある。顔も同じ。それで十分じゃないの』


『似ているだけだと言われたら終わる』


『本人に聞けばいい』


『認めると思うか?』


『認めさせるのは、そっちの仕事でしょ』


 黒木は舌打ちを堪えた。


 榊は情報を持っている。


 だが、記事にするための裏付けが何かを理解していない。


 写真を渡せば、そのまま金になると思っている。


『ほかに当時を知っている人間は?』


 尋ねると、しばらく返事がなかった。


 やがて、一つの店名と、おおよその場所が送られてきた。


『スナックRose。昔の仲間の一人がやってる』


 黒木は画面へ表示された文字を見る。


 Rose。


 Rose girls。


 偶然と切り捨てるには、あまりに分かりやすい名前だった。


『その人間の名前は』


『中村美園』


 黒木は古い集合写真を開いた。


 樹里と陽菜の後ろに立っていた、長い髪の少女。


 昨日までは拡大しなかった顔を、今度は画面いっぱいに広げる。


『この写真の女か』


『そう』


『今も2人と関係がある?』


『知らない。自分で確かめて』


『そこまで含めた金額ではなかったのか』


『私が売ったのは、持ってる情報。調べる手間までは売ってない』


 黒木は返信せず、LINEを閉じた。


 情報を渡した榊。


 会社への入口を作った湯浅。


 どちらも、必要なことを自分から進んで行おうとはしない。


 金を受け取るところまでは積極的だが、それ以上は別料金だと言う。


 黒木は出版社のデータベースから、店名を検索した。


 住所と電話番号。


 営業時間。


 簡単な紹介文。


 一般に公開されている情報は、すぐに見つかった。


 その日の夜。


 黒木は、Roseの扉を開けた。


 落ち着いた照明。


 磨かれたカウンター。


 棚には酒の瓶が並び、店内には静かな音楽が流れている。


『いらっしゃいませ』


 カウンターの向こうから、一人の女性が黒木を見る。


 長い髪をまとめ、黒い服を身に着けている。


 古い写真よりも大人びている。


 化粧も、纏う空気も違う。


 それでも、顔立ちには確かな面影があった。


「一人ですが、大丈夫ですか」


『もちろん。こちらへどうぞ』


 美園は、黒木をカウンター席へ案内した。


『初めてですよね』


「はい。近くで仕事がありまして」


『そうなんですね。何にします?』


「ウイスキーを。銘柄はお任せします」


『飲み方は?』


「ロックでお願いします」


 美園は氷を選び、慣れた手つきでグラスを作る。


 黒木は、その動きを眺めていた。


 古い写真の少女と、目の前の女性。


 すぐに同一人物だと断定できるほどではない。


 しかし、榊から名前まで聞いたあとでは、疑う理由も少なかった。


『お待たせしました』


「ありがとうございます」


 黒木は一口だけ酒を飲む。


 美園は、必要以上に話しかけてこなかった。


 客が会話を求めているか。


 一人で飲みたいのか。


 最初の数分で見極めようとしている。


「落ち着いた店ですね」


『ありがとうございます』


「長いんですか。この店」


『何年もやってますよ』


「Roseという名前には、何か由来が?」


 美園の手が、一瞬だけ止まった。


 だが、すぐに新しいグラスを棚へ戻す。


『薔薇が好きだから。それじゃ駄目ですか?』


「いえ。素敵な名前だと思います」


 黒木は、それ以上追及しなかった。


 質問を重ねれば、警戒される。


 今日は、本人と店の存在を確かめるだけでいい。


 黒木は酒をゆっくりと飲み、店内を見渡した。


 樹里と陽菜の写真はない。


 Rose girlsを思わせる品も、客から見える場所には置かれていなかった。


 美園は別の客へ酒を出しながら、時折黒木のグラスを確認している。


 接客としては自然だった。


 だが、美園もまた、黒木を見ていた。


 酒を楽しんでいるようで、店内へ向ける視線が細かい。


 時計。


 出入口。


 棚。


 壁に飾られた写真。


 初めて来た店を珍しがっているだけにも見える。


 それでも、何かを探しているような目だった。


『お客様、お仕事は何をされてるんですか?』


 美園が尋ねる。


「出版関係です」


『本を作ってるんですか?』


「ウェブの記事が中心です。企業や、そこで働く人を取材しています」


『へえ。大変そう』


「人の話を聞くのは好きなので」


『人の話を聞く仕事か』


 美園は微笑んでいた。


 だが、その目は黒木の名刺入れへ一度だけ向けられていた。


 黒木は名刺を出さない。


 会社名も、媒体名も口にしない。


『今日は、この近くで取材だったんですか?』


「いえ。下見のようなものです」


『次の記事の?』


「まだ、記事になるかは分かりません」


『そうですか』


 美園も、それ以上は聞かなかった。


 黒木は一杯だけで会計を頼んだ。


「ごちそうさまでした」


『ありがとうございます』


「また、来てもいいですか」


『店ですから。営業時間なら、いつでも』


 美園は変わらない笑顔で答えた。


 黒木が店を出る。


 扉が閉じたあと、美園は彼が使っていたグラスを手に取った。


 氷はほとんど溶けていない。


 酒を飲みに来たというより、店を見るために座っていた。


 そう感じた。


 しかし、失礼なことをされたわけではない。


 名乗るよう求める理由も、追いかける理由もなかった。


 美園はグラスを洗い、いつもの場所へ戻した。


 まだ、樹里と陽菜へ話すほどのことではない。


 黒木は店から少し離れた場所で足を止め、スマートフォンを取り出した。


『店と中村美園を確認した。写真の女で間違いないと思う』


 榊からの返信は早かった。


『言ったでしょ』


『日高と櫻井は、今もこの店へ来るのか』


『そこまでは知らない』


『使える情報が少なすぎる』


『だったら残りの金はいらない。ほかに売る』


 黒木の眉が動く。


 この段階で、別の媒体へ情報を持ち込まれては困る。


 自分が使った金も、湯浅へ渡した金も無駄になる。


『待て。残りも払う』


『明日まで』


『分かった』


 LINEを閉じたあと、黒木はRoseの看板を振り返った。


 記事の中心に据えるのは、日高樹里と櫻井陽菜。


 中村美園まで取り上げるつもりはない。


 美園は、2人の過去を裏付けるための人間にすぎなかった。


 その考えがどれほど浅いものだったのか。


 黒木は、まだ知らなかった。


 同じ夜。


 湯浅の口座には、黒木から約束どおりの金が振り込まれていた。


 榊は、残金の入金を待っている。


 黒木は、金になる記事を作ろうとしている。


 3人を結んでいるものは、信頼でも、同じ目的でもなかった。


 ただ、金だけだった。


 だからこそ、繋がるのは容易かった。


 そして、崩れるときも同じだった。

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