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137話「広報」

9月1日の午後。


 営業部の入口に、一人の女性が姿を見せた。


「黒澤部長、今よろしいでしょうか」


「湯浅さんか。どうした?」


「広報部に届いた取材依頼について、ご相談があります」


 黒澤部長は手元の書類から顔を上げた。


「取材?」


「はい。営業部の方にご協力いただきたい企画です」


 女性の名前は、湯浅麻奈美。


 島川不動産の広報部に所属している。


 年齢は30歳手前。


 肩に触れる程度の髪を綺麗に整え、派手すぎない化粧と柔らかな笑顔を絶やさない。


 社外からの問い合わせに対する返答は早く、言葉遣いにも隙がない。


 社内では、話しやすく仕事の早い人間として知られていた。


 広報部と営業部では、直接一緒に仕事をする機会は多くない。


 それでも、社外へ出す資料の確認や、会社案内に掲載する情報の収集で、湯浅が営業部を訪れることは何度かあった。


「どんな企画なんだ?」


「企業や働く人を紹介するウェブマガジンからです。今回は、地域に関わる仕事をしている女性社員を取り上げたいそうで」


「うちの会社を?」


「はい。営業部で働く女性社員を、先輩と後輩の2人組で紹介したいという希望が来ています」


 湯浅は持っていたフォルダから、企画書を取り出した。


 媒体名。


 記事の概要。


 予定されている質問。


 撮影の有無。


 掲載までの日程。


 必要な情報は一通り揃っている。


 黒澤部長は企画書へ目を通しながら、眉を上げた。


「候補まで指定されてるのか」


「いえ。候補者の選定はこちらへ任されています」


「それで、営業部に来たと」


「はい」


 湯浅は営業部の中へ視線を向けた。


「広報部としては、日高さんと櫻井さんにお願いできないかと考えています」


 名前を呼ばれ、陽菜が顔を上げる。


『あたしですか?』


 樹里も仕事の手を止めた。


『私と、櫻井さんですか』


「はい。日高さんは営業成績も安定していますし、取引先からの評価も高いです。櫻井さんは入社からまだ長くありませんが、社内行事にも積極的で、人柄が伝わりやすいと思いまして」


『日高先輩と2人で、雑誌に載るんですか?』


「ウェブマガジンなので、紙の雑誌ではありません。ただ、写真は掲載される予定です」


『写真』


 陽菜の表情が少しだけ明るくなる。


 その反応を見た彩花が、横から口を挟んだ。


「櫻井さん、浮かれてるでしょ」


『浮かれてませんよ。仕事ですから』


「今、写真って聞いて嬉しそうにしてたけど」


『それは、綺麗に写りたいとは思うじゃないですか』


「十分浮かれてるじゃない」


『彩花さんも一緒に出ます?』


「私は結構」


 彩花は即答し、パソコンへ向き直った。


『日高先輩は、どう思います?』


 陽菜に尋ねられ、樹里は湯浅の持ってきた企画書へ目を向ける。


『まだ内容を確認していません。私たちだけで決めることでもないと思います』


「もちろんです」


 湯浅が穏やかに答える。


「会社として受けるかどうかも、これから判断します。今日は候補として、お2人のご都合と意向を先に確認できればと思っただけです」


「取材先は信用できるところなのか?」


 黒澤部長が尋ねる。


「媒体自体は、これまでにも複数の企業を扱っています。過度に娯楽へ寄せた記事ではありません。企業紹介としても一定の効果は見込めると思います」


「取材で聞かれる範囲は?」


「企画書にあるとおり、現在の仕事内容、入社した理由、仕事で大切にしていることなどです。個人的な内容については、答えたくないものを断っていただいて構いません」


『写真は、社内で撮るんですか?』


 陽菜が尋ねる。


「その予定です。仕事をしている様子と、お2人で並んだ写真を何枚か。撮影場所も、事前にこちらで指定できます」


『なら、変な場所で撮られることはないんですね』


「ありません」


『あたしは受けてもいいです』


 陽菜はあっさり答えた。


『日高先輩と一緒なら』


『まだ正式に決まっていません』


『だから、決まったらの話です』


 樹里は小さく息を吐き、改めて企画書を見る。


 表面上、不自然なところはなかった。


 営業部の女性社員を紹介する企画。


 会社としても、大きな負担ではない。


 質問内容も、業務の範囲に収まっている。


『会社として受けるのであれば、私も協力します』


「ありがとうございます」


 湯浅は微笑んだ。


「では、まずは社内で企画を通します。正式に決まりましたら、改めてご説明に伺います」


「待ってくれ」


 黒澤部長が企画書から顔を上げる。


「本人たちが協力すると言っても、業務に支障が出る日程は避けろ。それから、企画書にない質問へ答える必要はない。その条件は、先方にも最初から伝えておいてくれ」


「承知しました」


「日高さんも櫻井さんも、嫌だと思ったら今からでも断っていい。広報だからといって、無理に受ける必要はないからな」


『分かりました』


『あたしも大丈夫です』


 2人の返事を聞き、黒澤部長は企画書を閉じた。


「じゃあ、正式に決まってからだな」


「はい。お時間をいただき、ありがとうございました」


 湯浅は丁寧に頭を下げ、営業部を出ていった。


 その姿が見えなくなると、陽菜が樹里の席へ椅子を寄せる。


『日高先輩、何を着ます?』


『まだ受けると決まっていません』


『決まってから考えたら遅いですよ』


『会社で仕事をしている写真なら、普段の制服でしょう』


『別の服を用意されるかもしれないじゃないですか』


『先ほど、社内で撮ると言っていました』


『でも、ウェブマガジンですよ。ちょっとくらい綺麗にしてくれるかも』


『仕事の取材です』


「櫻井さん、もう完全に浮かれてるね」


 彩花が呆れたように言う。


『彩花さんも撮影の日、見に来ます?』


「行かない」


『絶対来る顔してますけど』


「どんな顔よ」


 いつものやり取りが始まり、営業部の空気が僅かに和らいだ。


 凛もその会話を聞きながら、小さく笑う。


 青柳が抜けた席は、今も空いている。


 けれど、営業部の時間まで止まったわけではない。


 新しい仕事が入り、社員たちはそれぞれの業務へ戻っていく。


 一方、湯浅は広報部へ戻ると、企画書のデータを開いた。


 営業部へ見せたものと、内容は同じだった。


 実在する媒体。


 過去にも企業取材の実績がある。


 取材そのものが、偽物というわけではない。


 湯浅は必要事項を入力し、上司へ社内申請を送った。


 ここまでは、広報部員として正規の業務だった。


 申請を終えたあと、湯浅はスマートフォンを手に取る。


 会社のメールではない。


 個人のLINEを開く。


 連絡先に表示されていた名前は、黒木。


 湯浅は周囲へ目を向けた。


 隣の社員は電話中で、こちらを見ていない。


 短い文章を打ち込む。


『候補の2人には話を通しました。社内申請も出しています』


 数分後、返信が届いた。


『助かります。正式に取材が決まれば、約束の分はお支払いします』


 湯浅は画面を見つめた。


 取材を社内へ持ち込むこと自体は、広報部の仕事だ。


 実在する媒体から届いた、正式な依頼でもある。


 候補として挙げた2人も、会社にとって見栄えの悪い人選ではない。


 誰かを傷つけたわけではない。


 少し便宜を図っただけ。


 湯浅は、そう自分へ言い聞かせた。


『よろしくお願いします』


 返信を送り、LINEの画面を閉じる。


 スマートフォンを伏せたところで、上司から社内申請の受領通知が届いた。


 湯浅はいつもの笑顔で席を立ち、次の仕事へ向かう。


 その時点で、彼女が渡したものは、まだ2人の名前だけだった。


 日高樹里。


 櫻井陽菜。


 その2つの名前に、いくらの値段がつけられているのか。


 湯浅は知ろうとしなかった。

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