136話「空いた席」
青柳を見送ったあと、凛はそのまま会社へ向かった。
始業時刻には十分間に合う。
いつもと同じ道を歩き、いつもと同じ建物へ入り、いつもと同じ営業部へ向かう。
何も変わらない月曜日が始まるはずだった。
しかし、フロアへ入った瞬間、凛の足が止まった。
青柳の席には、何もなかった。
机の上に積まれていた資料も、几帳面に並べられていた筆記具もない。
椅子だけが机の下へ正しく収められている。
青柳なら、席を離れるときはいつもそうしていた。
まるで、少し席を外しているだけのように見える。
けれど、もうこの席へ青柳が戻ってくることはない。
『凛ちゃん、おはよ』
陽菜の声に、凛は我に返った。
「おはようございます、陽菜さん」
『見送り、行ってきたんだよね』
「はい」
『泣いた?』
「泣いていません」
『本当に?』
「本当です」
陽菜は凛の目元を覗き込む。
『今日は腫れてないね』
「毎回、泣くとは限りません」
『抱きしめてもらった?』
「どうして、そういうことを聞くんですか」
『その顔は、抱きしめてもらった顔だね』
「どんな顔ですか」
『昨日までより、ちょっと恋人っぽい顔』
「意味が分かりません」
凛は顔を赤くしながら、自分の席へ向かった。
陽菜は追及しようとしたが、凛がもう一度青柳の席を見たことに気づき、言葉を止める。
『寂しい?』
「……はい」
今度は、凛も誤魔化さなかった。
『そっか』
陽菜は青柳の空席を見る。
『しばらくしたら、誰かが書類とか置き始めるかもしれないけど』
「嫌なことを言わないでください」
『でも、席ってそういうものでしょ。ずっと空いたままにはできないよ』
「分かっています」
『机がどうなっても、青柳さんがここにいたことまで消えないから』
予想していなかった言葉に、凛は陽菜を見る。
陽菜は何でもないことのように自分の席へ戻り、パソコンの電源を入れた。
『それに、名古屋なんて会おうと思えば会える距離じゃん』
「はい」
『あたしたちも、そのうち遊びに行こうよ』
「皆さんでですか?」
『もちろん。青柳さんがちゃんと部長やってるか、見に行かないと』
「遊びに行くのに、職場まで見に行くつもりですか」
『冗談だよ』
陽菜は笑いながら答えた。
その横顔は、半分ほど本気に見えた。
始業時刻になると、黒澤部長が営業部の全員を集めた。
「今日から、青柳が担当していた仕事を分担する」
黒澤部長の手元には、青柳が作成した引き継ぎ資料がある。
案件ごとに進捗、取引先の担当者、注意点、次回の連絡日まで細かく記されていた。
「進行中の案件は、佐藤と中井を中心に振り分ける。急ぎのものは日高さんにも確認を頼む」
『承知しました』
「櫻井さんは、中井の案件を見てやってくれ。引き継いだばかりで見落としが出るかもしれない」
『分かりました』
「ほかの連中も、自分の仕事だけ見てればいいと思うな。青柳が抜けた分、しばらくは全員の負担が増える」
社員たちが返事をする。
黒澤部長は全員を見回した。
「ただし、無理に抱え込むな。詰まったら早めに言え。青柳の穴を、誰か一人で埋める必要はない」
その言葉を聞きながら、凛は机の上に置かれた引き継ぎ資料を見つめた。
青柳がいなくても、仕事は続いていく。
待ってはくれない。
誰かが抜ければ、残った者がその仕事を受け取る。
それが会社なのだと分かっている。
それでも、資料の文字に青柳らしい細かさを見つけるたび、胸の奥が僅かに痛んだ。
昼前、凛のスマートフォンが震えた。
青柳からのLINEだった。
『名古屋に着きました。今、新居へ向かっています』
続けて、車窓から撮った写真が送られてくる。
見慣れない街並み。
その奥に広がる空は、凛がいる場所と変わらない色をしていた。
『無事に着いてよかったです。片づけ、頑張ってください』
凛が返信すると、すぐに既読がつく。
『頑張りすぎないようにします』
朝の会話を覚えていたらしい。
凛は思わず笑った。
『それなら安心しました』
『明日から、いよいよ名古屋支部です』
『緊張していますか?』
少し間を置いて、返事が届く。
『かなり緊張しています』
青柳が素直に緊張を認めることが、凛には意外だった。
けれど、平気なふりをされるよりも嬉しかった。
『青柳さんなら大丈夫です』
送信してから、凛は一度文章を見直した。
それだけでは足りない気がして、もう一通送る。
『でも、困ったときは誰かに頼ってください』
青柳から返ってきたのは、短い言葉だった。
『はい。約束します』
その日の仕事が終わる頃、青柳の席を見た凛の胸には、朝とは違う感情があった。
寂しさは消えていない。
しかし、青柳も新しい場所で同じように不安を抱えながら、自分の仕事を始めようとしている。
止まっているのは、自分だけではない。
そう思えば、明日もここへ来られる気がした。
翌日。
9月1日。
名古屋支部で青柳の新しい仕事が始まった。
昼休みになると、凛のもとへ一枚の写真が届いた。
新しい机の上に、開かれた手帳と資料が置かれている。
その上には、送別会で贈った深い紺色のボールペンがあった。
『早速、使っています』
写真に添えられた言葉を見て、凛の表情が緩む。
『本当に、初日から使っているんですね』
『皆さんと約束しましたから』
『使い心地はどうですか?』
『とても書きやすいです。今日だけで、すでに何度も助けられました』
『それはよかったです』
凛は写真をもう一度開いた。
机の端には、新しく作られた名刺の箱が僅かに写っている。
名古屋支部営業部長。
その下に、青柳慧の名前。
肩書だけを見れば、遠い場所へ行ってしまったように感じる。
それでも、彼の手元には、自分たちが贈ったものがある。
凛は写真を閉じ、午後の仕事へ戻った。




