135話「離れる朝」
8月31日、月曜日。
朝の駅には、出勤する人々の足音が絶え間なく響いていた。
改札へ向かう者。
売店へ駆け込む者。
発車時刻を確認しながら、大きな荷物を引いて歩く者。
その流れの中で、凛は一人、駅の柱の前に立っていた。
腕時計を見る。
待ち合わせの時間までは、あと5分。
落ち着かずに改札の方へ目を向けたところで、黒いキャリーケースを引く青柳の姿を見つけた。
「凛さん」
「青柳さん。おはようございます」
「おはようございます。待たせてしまいましたか」
「いいえ。私も、少し前に着いたところです」
青柳が腕時計を見る。
「待ち合わせより、まだ早いですね」
「遅れるのが嫌だったので」
「僕も早く着くつもりだったのですが、凛さんの方が先でした」
「競争ではありませんよ」
「そうですね」
青柳が僅かに笑う。
凛もつられるように笑った。
大きな荷物は、すでに名古屋の新居へ送っている。
手元にあるのは、数日分の着替えを入れたキャリーケースと、仕事用の鞄だけだった。
それでも、その姿を見ると、本当に今日行ってしまうのだと実感する。
「新幹線は何時ですか」
「7時28分です」
「まだ少し時間がありますね」
「はい。ホームへ行く前に、何か飲みますか」
「そうですね」
駅構内の店でコーヒーを買い、2人は待合スペースの端へ座った。
目の前を人が行き交う。
誰もが自分の行き先へ向かっている。
今日の青柳も、その中の一人だった。
「昨日は、よく眠れましたか」
青柳が尋ねる。
「眠れました」
「本当ですか?」
「……あまり」
「やはり」
「青柳さんは?」
「僕も、あまり眠れませんでした」
「緊張しているんですか」
「名古屋での仕事にも緊張していますが、それだけではありません」
青柳は紙カップを両手で持ったまま、凛を見る。
「凛さんと離れることを、ずっと考えていました」
凛は視線を落とした。
「私もです」
恋人になってから、まだ数日しか経っていない。
それなのに、今日から離れて暮らす。
交際を始めた実感さえ、まだ十分には持てていなかった。
「昨日までと、何か変わるんでしょうか」
「距離は変わります」
「それは分かっています」
「会いたいときに、すぐ会うことはできなくなります」
「はい」
「ですが、凛さんとお付き合いしていることは変わりません」
青柳の答えには迷いがなかった。
凛は少しだけ顔を上げる。
「毎日、連絡してもいいですか」
「もちろんです」
「迷惑ではありませんか」
「僕も、同じことをお願いしようと思っていました」
「青柳さん、忙しくなるんですよね」
「忙しくても、LINEを一通送る時間くらいは作れます」
「無理はしないでください」
「無理ではありません」
「青柳さんは、決めたことを守ろうとしすぎます」
「いけませんか」
「いけなくはありません。でも、毎日必ずと決めてしまったら、できなかった日に青柳さんが自分を責めそうです」
青柳は反論せず、凛の言葉を聞いている。
「だから、義務にはしたくありません」
「分かりました」
「送りたいときに送ってください。私も、送りたいときに送ります」
「それでは、一日に何通も送るかもしれません」
「構いません」
「仕事中にも?」
「すぐには返せませんが、構いません」
「写真も送っていいですか」
「はい。名古屋のことを教えてください」
「凛さんも、こちらであったことを教えてください」
「分かりました」
約束が、一つずつ増えていく。
それでも、離れる寂しさが消えるわけではない。
ただ、その先に何もないわけではないと思えた。
駅のアナウンスが、新幹線の発車予定を告げる。
青柳が時計を見る。
「そろそろ、ホームへ行かなければなりません」
「……はい」
2人は立ち上がった。
改札へ向かって歩き出す。
凛は青柳の隣を歩きながら、これまでよりも一歩一歩が短くなっていることに気づいていた。
少しでも、改札へ着くまでの時間を延ばしたい。
そんな自分の考えを悟られたくはなかったが、青柳の歩調も普段より遅かった。
新幹線の改札前で、2人は立ち止まる。
ここから先へ、凛は入れない。
「見送りに来ていただいて、ありがとうございました」
「来たかったので」
「朝も早かったでしょう」
「青柳さんは、もっと早かったじゃないですか」
「僕は乗る側ですから」
「見送る側も、同じ時間に来なければ見送れません」
「それは、そうですね」
青柳が笑う。
凛も笑おうとしたが、うまくできなかった。
「凛さん」
「はい」
「泣かないんですね」
「泣いてほしいんですか?」
「いいえ。ただ、僕が告白したときは泣いていたので」
「あのときは、いろいろな気持ちが一度に来たんです」
「今日は違いますか」
「今日も同じです」
凛は鞄の持ち手を強く握った。
「でも、私が泣いたら、青柳さんが行きにくくなるでしょう」
「……そうですね」
「だから、泣きません」
「凛さんは強いですね」
「強くありません」
凛は首を横に振った。
「行ってほしくない気持ちは、今もあります」
「はい」
「今日が来なければいいとも思っていました」
「はい」
「それでも、青柳さんには行ってほしいです」
凛は青柳を真っ直ぐに見た。
「青柳さんが、ずっと目指してきた場所ですから」
「ありがとうございます」
「名古屋で、頑張ってください」
「はい」
「でも、頑張りすぎないでください」
「難しい注文ですね」
「両方守ってください」
「善処します」
「それは、守る気のない人が使う言葉です」
「では、頑張ります」
「頑張りすぎないでと言ったばかりです」
「……やはり難しいです」
青柳が困ったように笑った。
凛も、今度は自然に笑うことができた。
発車時刻が近づき、もう一度アナウンスが流れる。
改札へ入る人の流れが増えていく。
「行かなければなりません」
「はい」
返事をしたのに、どちらも動かなかった。
青柳の手が、僅かに持ち上がる。
しかし、凛へ触れる前に止まった。
「凛さん」
「何ですか」
「抱きしめても、いいですか」
凛は目を瞬かせた。
こんなときまで確認する青柳が、どこまでも青柳らしい。
「はい」
答えた直後、青柳の腕が凛の背中へ回った。
強くはない。
凛が嫌がれば、すぐに離れられるほどの力だった。
凛は自分から青柳の胸へ顔を寄せ、背中へ腕を回した。
その瞬間、青柳の腕に少しだけ力が加わる。
耳を澄ませば、互いの鼓動まで聞こえそうな距離だった。
「凛さん」
「はい」
「離したくありません」
「私もです」
「ですが、行かなければなりません」
「分かっています」
「必ず、会いに来ます」
「私も会いに行きます」
凛の返事を聞き、青柳はゆっくりと腕を解いた。
身体が離れる。
抱きしめられる前よりも、目の前にある距離が遠く感じられた。
「次に会ったときも、抱きしめていいですか」
「また聞くんですか」
「確認は必要だと思います」
「次に会ったときは、聞かないでください」
「勝手にしてもいいということでしょうか」
「……今のところは」
「今のところ」
「青柳さんが、私を怒らせなければです」
「気をつけます」
青柳は真剣にうなずいた。
凛はその顔を見て、また笑った。
「もう行ってください。乗り遅れます」
「はい」
青柳はキャリーケースの持ち手を握り、改札へ向かう。
切符を通す直前、振り返った。
「凛さん」
「はい」
「行ってきます」
送別会の帰りにも聞いた言葉。
今度は、その言葉が本当の出発を連れてくる。
「行ってらっしゃい、青柳さん」
青柳は深くうなずき、改札の向こうへ進んだ。
凛は、その背中が見えなくなるまで動かなかった。
姿が人波に紛れても、すぐには駅を離れられなかった。
スマートフォンが震える。
青柳からのLINEだった。
『ホームに着きました。見送りに来てくださって、本当にありがとうございました』
改札を通って、まだ数分しか経っていない。
凛は小さく笑い、返信を打つ。
『まだ駅にいます。気をつけて行ってきてください』
送信すると、すぐに既読がついた。
『はい。名古屋に着いたら、また連絡します』
離れたばかりなのに、もう次の言葉が届く。
それだけで、胸の奥にあった不安が少し和らいだ。
発車案内に、青柳が乗る新幹線の表示が出ている。
やがて時刻が変わり、その表示が消えた。
凛は改札の向こうへ、もう一度だけ目を向ける。
「行ってらっしゃい」
今度は、誰にも聞こえない声だった。
凛は踵を返し、会社へ向かって歩き始めた。
青柳は夢を叶えるため、名古屋へ向かった。
凛もまた、青柳が帰ってきたときに胸を張って会えるよう、自分の日常へ戻っていく。
2人の距離は、この朝から遠くなった。
けれど、離れた場所へ向かって歩き始めたその日こそが、2人で続いていくための最初の一日だった。




