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134話「貸し切り」

8月29日、土曜日。


 Roseの入口には、いつもの営業案内ではなく、手書きの札が下がっていた。


 ――本日、貸し切り。


 店内では、美園がグラスを並べ、凛と柚希がテーブルを整えている。


 樹里は届いた酒の箱をカウンターの奥へ運び、彩花は壁に飾る花の位置を細かく直していた。


『彩花さん、それもう3回目だよ』


「曲がって見えるの」


『誰もそこまで見ないって』


「見なくても、曲がっているものは曲がっているでしょ」


『日高先輩、どう思います?』


 陽菜に尋ねられ、樹里は少し離れた場所から壁を見る。


『僅かに右が下がっています』


「ほら」


『日高先輩まで細かい』


『聞いたのは櫻井さんでしょう』


 陽菜は不満そうに口を尖らせ、自分はテーブルの上へ料理を並べていく。


 今夜は、青柳の送別会だった。


 営業部の男性陣が開いた一次会が終わったあと、Roseへ招くことになっている。


 発案したのは陽菜だった。


 中井から一次会の日程を聞いたその日のうちに、美園へLINEを送った。


『8月29日の21時からRose貸して。青柳さんの送別会する』


 相談というより、ほとんど決定事項だった。


 美園から返ってきたのは、僅か数秒後。


『いいよ。店を貸すからには、あんたも働いてね』


 陽菜はすぐに承諾し、それから関係者全員へ連絡を回した。


 樹里、凛、柚希、彩花。


 一次会へ出席する中井、佐藤、黒澤部長にも、終了後はRoseへ来るよう伝えている。


 青柳本人にだけは、何も知らせていなかった。


『中井くんからLINE来た。そろそろ一次会が終わるって』


 陽菜がスマートフォンを見ながら告げる。


「青柳さん、本当に何も知らないんですよね」


 凛が不安そうに尋ねた。


『知らないよ。中井くんには絶対に言うなって釘を刺してある』


「中井さん、隠し事が得意には見えませんけど」


「青柳さんに聞かれて、何度か挙動不審になったとは言っていました」


 柚希の言葉に、陽菜が眉を寄せる。


『何やってんの、中井くん』


「でも、ばれてはいないそうです」


『ならいいけど』


 陽菜は答えながら、凛を見る。


『緊張してる?』


「少しだけ」


『もう付き合ってるって会社中に知られてるのに?』


「誰のせいですか」


『青柳さんがちゃんと報告したからでしょ』


「その前に広めた人がいましたよね」


『誰だろうね』


「陽菜さんです」


 凛が即答すると、美園が小さく笑った。


『凛ちゃん、陽菜の扱いが上手くなったね』


「美園さんまで……」


『褒めてるよ』


『そうそう。あたしのおかげ』


「陽菜さんは褒められていません」


 凛が言い返したところで、店の外に複数の人影が見えた。


 陽菜が急いで照明の一部を落とす。


『来た。みんな、静かにして』


「一番騒ぎそうな人が何を言ってるの」


 彩花の指摘を無視し、陽菜は入口の横へ身を隠した。


 やがて扉が開く。


「こちらです。青柳さん」


 中井に促され、青柳が店内へ入ってきた。


「ここは……」


 薄暗い店内を見回した青柳が、足を止める。


 その後ろには、佐藤と黒澤部長が続いていた。


 全員が中へ入ったところで、美園が照明を戻す。


『青柳さん、お疲れさま!』


 陽菜の声と同時に、店内へ拍手が響いた。


「……櫻井さん?」


『一次会だけで帰れると思った?』


「皆さん、どうしてここに」


『こっちが本編だから』


「本編?」


『青柳さんをちゃんと送り出す会』


 青柳は驚いたまま、店内を見渡した。


 陽菜の隣には樹里と彩花。


 カウンターの中には美園と柚希。


 そして、その手前には凛が立っている。


「遠藤さんも、知っていたんですか」


「はい。黙っていて、すみません」


「いえ。驚きました」


 青柳の表情が、ゆっくりと緩んでいく。


「ありがとうございます」


『お礼はまだ早いよ。座って』


 陽菜は青柳を凛の隣へ押し込むように座らせた。


「櫻井さん、もう少し普通に案内できないんですか」


『恋人の隣なんだから、ここでいいでしょ』


「皆さんの前で言わないでください」


『もう全員知ってるよ』


「それも陽菜さんが広めたからです」


 凛の抗議に、店内から笑いが起きた。


 全員が席につき、美園が飲み物を行き渡らせる。


 黒澤部長がグラスを手に立ち上がった。


「じゃあ、俺からでいいか」


『お願いします、黒澤部長』


 黒澤部長は青柳を見る。


「青柳。名古屋支部への異動、それから部長への昇進、おめでとう」


「ありがとうございます」


「お前が入社してきた頃は、真面目だが融通の利かないやつだと思ってた」


「褒められているのでしょうか」


「まだ途中だ」


 黒澤部長の言葉に、笑いが起こる。


「仕事を覚えるのは早かった。人の話もよく聞く。自分の判断にも責任を持てる。名古屋で部下を持っても、その姿勢は忘れるな」


「はい」


「ただし、全部を一人で背負う必要はない。分からないことがあれば聞け。困ったときは戻ってこい。場所が変わっても、お前がここで働いてきたことまで消えるわけじゃない」


 青柳の表情が引き締まる。


「はい。肝に銘じます」


「期待してる。元気でな」


 黒澤部長はそこで言葉を切った。


 手にしたグラスを掲げる。


「青柳の新しい門出に。乾杯」


「乾杯!」


 グラスが重なり、澄んだ音が店内へ広がった。


 乾杯が終わると、すぐに賑やかな時間が始まった。


『そういえば青柳さん、名古屋でも書類の角が揃ってないと直すんですか?』


 陽菜が尋ねると、青柳は当然のように答えた。


「提出する資料であれば、直します」


『ホチキスの位置まで?』


「読む人がめくりやすい位置がありますから」


『中井くんが作った資料、よく無言で揃え直してたよね』


「えっ。あれ、青柳さんだったんですか?」


 中井が驚いて顔を上げる。


「誰が見ても明らかに曲がっていたので」


「言ってくれれば、自分で直しましたよ」


「一度は伝えました」


「そうでしたっけ」


「その翌日も曲がっていました」


『じゃあ、言っても無駄だったんだ』


「陽菜さん、笑わないでください」


 中井の隣で陽菜が楽しそうに笑う。


『名古屋の人たち、最初はびっくりするだろうね』


「業務に必要のないことまで強要するつもりはありません」


『必要なことだと思ったら?』


「直るまで伝えます」


『やっぱり大変そう』


 陽菜はそう言いながらも、どこか嬉しそうだった。


 青柳の几帳面さに助けられてきたことを、誰より知っているからだ。


 話が途切れると、中井は料理を陽菜の皿へ取り分け始めた。


『中井くん、それいらない』


「陽菜さん、野菜も食べてください」


『子どもじゃないんだから、自分で決めるよ』


「さっきから揚げ物しか食べていません」


『見張ってたの?』


「隣にいれば見えます」


『あたしのこと好きすぎじゃない?』


「はい。好きですけど」


 中井が当然のように答える。


 陽菜の動きが、一瞬だけ止まった。


 しかし次の瞬間には、中井が取り分けた野菜を口へ入れる。


『……みんなの前で平気で言うようになったね』


「陽菜さんに鍛えられました」


 柚希が笑い、彩花は呆れたように飲み物へ口をつけた。


 佐藤はカウンター近くに座り、美園の動きを目で追っている。


 空いた皿を見つけるたびに立ち上がろうとするため、美園が肩を押して座らせた。


『佐藤くんはお客さん。今日は働かなくていいよ』


「でも、美園さん一人では大変でしょう」


『凛ちゃんと柚希ちゃんがいるから平気』


「何かあったら呼んでください」


『恋人になってから、前より過保護になったね』


「そうですか?」


『そう。私がグラスを運ぶだけでも、落とさないか心配そうに見てる』


「見ていたのは、グラスではありません」


『じゃあ、何を見てたの?』


「……それは言いません」


 先日の公園での出来事を思い出したのか、佐藤の耳が赤くなる。


 美園はすぐに気づいたが、今夜は追及しなかった。


 代わりに佐藤の前へ新しい飲み物を置き、耳元へ顔を寄せる。


『あとで聞くからね』


「美園さん……」


 佐藤がさらに赤くなり、美園は満足そうに離れていった。


 それぞれの会話が混ざり合う中、樹里は青柳の隣へ移った。


『青柳さん』


「日高さん。これまで、お世話になりました」


『こちらこそ、お世話になりました』


「日高さんには、何度も助けていただきました」


『それは私も同じです。青柳さんが資料を確認してくださったおかげで、見落とさずに済んだこともありました』


「日高さんでも、見落とすことがあるんですね」


『あります。何でも一人でできるわけではありませんから』


 樹里は僅かに間を置いた。


『青柳さんが抜けると、正直、困ります』


 青柳が驚いたように樹里を見る。


 樹里が誰かの異動に対して、ここまで率直な言葉を口にするとは思っていなかったのだろう。


『ですが、それ以上に、名古屋で青柳さんが何を成し遂げるのか楽しみです』


「ありがとうございます」


『次にお会いするとき、追いつけないほど先へ行かないでください』


「日高さんにそう言われると、かなり難しい注文に聞こえます」


『私も負けるつもりはありませんから』


「僕もです」


 2人は静かにグラスを合わせた。


 その様子を見ていた彩花が口を挟む。


「日高、青柳さんを相手にまで張り合ってるの?」


『張り合っているわけではありません』


「同じようなものでしょ」


『彩花に言われたくありません』


「何それ」


 睨み合う2人を見て、青柳が声を立てて笑った。


「名古屋へ行っても、このやり取りが見られないのは残念ですね」


「見世物じゃないから」


『同感です』


 否定する声まで揃い、また笑いが起こった。


 宴が進むにつれ、時間は早く過ぎていった。


 やがて終電を気にしなければならない時刻が近づく。


 陽菜が時計を確認し、名残惜しそうに手を叩いた。


『そろそろ終わりにしようか』


「もうそんな時間ですか」


『青柳さんは明後日には名古屋へ行くんでしょ。寝不足のまま行かせるわけにもいかないから』


「ありがとうございます」


 美園と凛が、青柳の前へ一つの細長い箱を置いた。


「皆さんからです」


 青柳が箱を開ける。


 中に収められていたのは、深い紺色の軸を持つ上質なボールペンだった。


 華美ではないが、光を受けると控えめな艶を帯びる。


 これから部長として人前で書類へ署名する青柳にも、よく似合うものだった。


「名古屋で、使ってください」


 凛が言う。


 青柳は箱からボールペンを取り出し、確かめるように手へ馴染ませた。


「とても書きやすそうです」


『そこ、青柳さんらしい感想だね』


 陽菜が笑う。


「ありがとうございます。名古屋で大切に使います」


『しまい込んだら意味ないからね』


「使いながら大切にします」


『それならよし』


 青柳はボールペンを丁寧に箱へ戻した。


 それから立ち上がり、店内にいる一人ひとりへ頭を下げる。


「皆さん、本当にありがとうございました。名古屋へ行っても、ここで教えていただいたことを忘れません」


「堅いな、青柳」


 黒澤部長が笑う。


「もう少し、気の利いたことを言え」


「急に言われても困ります」


「部長になったら、急に挨拶を振られることも増えるぞ」


「善処します」


『そこは頑張りますって言うところじゃない?』


「櫻井さんまで無茶を言わないでください」


 最後まで青柳らしい返事だった。


 笑いの中で、送別会は終わった。


 店を出る前、青柳が凛を見る。


「遠藤さん。家まで送ります」


「はい」


 2人は並んでRoseを出た。


 夜風には、夏の終わりを思わせる僅かな涼しさが混じっている。


 駅へ向かう道を歩きながら、青柳が口を開いた。


「今日は驚きました」


「陽菜さんが、ほとんど一人で決めたみたいです」


「櫻井さんらしいですね」


「私たちのことを言いふらしたのも、陽菜さんです」


「それも、櫻井さんらしいです」


「青柳さんは怒らないんですか?」


「驚きはしました。でも、皆さんに祝っていただけたのは嬉しかったです」


「私は、恥ずかしかったです」


「嫌でしたか?」


「嫌ではありません」


 凛は少し迷ってから、青柳の袖を指先で掴んだ。


「嬉しかったです」


 青柳が足を止める。


 掴まれた袖と、凛の顔を交互に見た。


「手を、繋いでもいいですか」


「どうして聞くんですか」


「勝手に触れるのは、よくないと思って」


「……そういうところは、青柳さんらしいですね」


 凛は袖から指を離し、自分の手を差し出した。


 青柳が、その手をそっと握る。


 恋人になってから初めて繋いだ手は、互いに緊張していることが分かるほど固かった。


「明後日、行くんですね」


「はい」


「寂しいです」


「僕もです」


「でも、おめでとうございます」


 今度の祝福は、震えていなかった。


 寂しさを隠すための言葉でもない。


 夢を叶えた青柳を、凛は心から祝いたいと思っていた。


「ありがとうございます」


 青柳は繋いだ手に、少しだけ力を込める。


「行ってきます」


 凛も握り返した。


「はい。行ってらっしゃい」


 さよならではない。


 次に会う約束を持つ2人が交わす、短い言葉だった。


 Roseでは、見送りを終えた陽菜が扉を閉めていた。


『青柳さん、いい顔してたね』


『凛ちゃんもね』


 美園が答える。


 樹里は2人が歩いていった道を、窓越しに見つめていた。


『離れても、続くものはあります』


『うん』


 陽菜が静かにうなずく。


 賑やかだった店内には、まだいくつものグラスが残されている。


 けれど今夜ばかりは、片づけを急ぐ者はいなかった。


 別れを惜しみながらも、誰一人として、これを終わりとは呼ばなかった。

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