133話「視線の先」
その週の日曜日。
佐藤は、駅前の時計台の下で美園を待っていた。
待ち合わせの時間までは、まだ10分以上ある。
それでも落ち着かず、腕時計と改札口を何度も見比べてしまう。
『お待たせ』
背後から声をかけられ、佐藤は勢いよく振り返った。
「美園さん。おはようございます」
『おはよう。早いね』
「今来たところです」
『その台詞、信用されないやつだよ』
「本当に、少し前です」
『何分?』
「……20分くらいです」
『それを今来たとは言わない』
美園が呆れたように笑う。
黒いVネックのブラウスに、足首まである薄手のロングスカート。
Roseに立っているときよりも化粧は控えめで、髪も後ろで緩くまとめている。
店で見せる華やかさとは違う。
けれど、佐藤には余計に目を逸らしにくい姿だった。
『何?』
「いえ」
『今、上から下まで見たでしょ』
「服装が、いつもと違ったので」
『似合わない?』
「逆です。すごく似合っています」
迷いなく返され、美園の方が一瞬だけ目を瞬かせる。
『……そういうの、急に言うようになったね』
「思ったことを言っただけです」
『佐藤くんは、時々それが一番ずるい』
「何がですか?」
『何でもない。行こっか』
美園が先に歩き出す。
佐藤はその隣へ並んだ。
今日の行き先は、駅から少し離れた大きな公園だった。
何か特別な催しがあるわけではない。
並木道を歩き、途中で昼食を買って、気が向けば池の周りを一周する。
佐藤が考えてきた予定を聞いたとき、美園は少しだけ意外そうな顔をした。
『佐藤くんって、もっと頑張って店を探すのかと思ってた』
「最初はそのつもりでした。でも、ゆっくり話せる方がいいかと思って」
『私と?』
「美園さん以外に誰がいるんですか」
『確認しただけ』
からかうような声とは裏腹に、美園の歩調はゆっくりしていた。
夜のRoseでは、次々に客が訪れる。
佐藤と2人でいられる時間があっても、店では美園はママであり続けなければならない。
誰にも呼ばれない場所で、ただ並んで歩く。
それだけのことが、美園には思っていた以上に心地よかった。
公園へ着くと、2人は園内の売店でサンドイッチと飲み物を買った。
佐藤が代金を払おうとしたが、美園は自分の分を先に店員へ渡す。
「今日は僕が出します」
『どうして?』
「デートに誘ったのは僕なので」
『恋人になったら、毎回奢らないといけないの?』
「そういうわけではありませんけど」
『無理して格好つけなくていいよ』
「無理ではありません」
『じゃあ、次はお願いする。今日は自分の分』
「……分かりました」
佐藤は少し残念そうだったが、素直に引き下がった。
美園は、その反応を横目で見て小さく笑う。
『不満そう』
「不満ではないです」
『じゃあ、何?』
「少しくらい、いいところを見せたかっただけです」
『もう見せてもらってるよ』
「いつですか?」
『そういうところ』
佐藤には意味が分からなかったらしい。
首を傾げたまま、美園の隣を歩いている。
2人は池を見渡せるベンチへ腰を下ろした。
休日の公園には、散歩をする人や、芝生の上でくつろぐ人の姿がある。
風は穏やかで、日差しも強すぎない。
美園はサンドイッチの包みを開き、一口齧った。
『外で食べるのも、たまにはいいね』
「美園さんは、あまりこういうところには来ませんか?」
『昼間は寝てることが多いから。店が終わるの、遅いし』
「今日は眠くありませんか?」
『ちょっと眠い』
「すみません。もう少し遅い時間にすればよかったですね」
『別に。会いたかったから来たの』
佐藤の手が止まった。
美園は何事もなかったように、もう一口サンドイッチを食べる。
「……美園さん」
『何?』
「今の、もう一度言ってもらえますか」
『嫌』
「聞き間違いだったかもしれないので」
『じゃあ、聞き間違いでいいよ』
「よくありません」
『しつこい男は嫌われるよ』
「もう付き合っているので、少しくらいは許してください」
『付き合ったら嫌われないと思ってる?』
「思っていません。だから、今もかなり緊張しています」
あまりにも真顔で答える佐藤に、美園は吹き出した。
『まだ緊張してるの?』
「しますよ」
『あんなことまでしたのに?』
「ここで言わないでください」
『誰も聞いてないよ』
「そういう問題ではありません」
佐藤は周囲を確認し、耳を赤くした。
その反応がおかしくて、美園の笑みが深くなる。
付き合う前も、付き合ってからも、佐藤は基本的に変わらない。
触れ合ったからといって、急に馴れ馴れしくなることもない。
自分のものになったような顔もしない。
それでも以前よりは、少しだけ自分の気持ちを口にするようになった。
美園は飲み物を取ろうとして、ベンチの足元へ手を伸ばした。
その拍子に、ブラウスの胸元が僅かに開く。
佐藤の視線が、そこへ落ちた。
ほんの一瞬だった。
すぐに池の方へ顔を向けたものの、耳まで一気に赤くなる。
美園はペットボトルを手にしたまま、佐藤の横顔を見つめた。
『佐藤くん』
「はい」
『今、見た?』
「何をですか」
『私の胸』
「見てません」
『嘘』
「見ていません」
『じゃあ、なんでそんなに赤いの?』
「暑いからです」
『さっき、今日は涼しいって言ってたよね』
「日が当たってきたので」
『私たち、あの雨の日に、もっと近くで見てるよね』
「美園さん」
佐藤が焦ったように周囲を見回す。
近くを歩いている人々が、こちらを気にする様子はない。
それでも、佐藤の顔はますます赤くなった。
『今さら、谷間くらいで照れるの?』
「今さらとか、そういう話ではありません」
『じゃあ、どういう話?』
「ここは外です。それに、美園さんが見せようとしたわけでもありません」
『見せようとしたなら、見るの?』
「そうやって答えに困ることを聞かないでください」
『困るんだ』
「困ります」
『嫌なら、見なければいいのに』
「嫌とは言っていません」
今度は、美園の動きが止まった。
佐藤も、自分が何を口にしたのか気づいたらしい。
「あ……」
『嫌じゃないんだ?』
「それは……好きな人なので」
佐藤は顔を赤くしたまま、観念したように美園を見る。
「綺麗だと思って、見ました。すみません」
あまりにも正直な答えだった。
美園は笑おうとしたが、すぐには声が出なかった。
からかって困らせるつもりだった。
いつものように佐藤が慌てて、それを見て楽しむつもりだった。
けれど、真正面から好意を返されると、美園の方が弱い。
『……謝るんだ』
「勝手に見たので」
『恋人なのに?』
「恋人でも、何をしてもいいわけではないでしょう」
佐藤は当たり前のことのように答えた。
美園はペットボトルの蓋を開け、口をつける。
少し時間を置かなければ、今度は自分の頬が赤くなりそうだった。
『佐藤くんって、本当に変なところで真面目だよね』
「変ですか?」
『変。でも、そこが好き』
「……また、急に言いますね」
『思ったことを言っただけ』
「さっき僕に言ったことを、そのまま返していませんか」
『気のせいじゃない?』
美園は平然と答えた。
しかし佐藤は、僅かに赤くなった美園の耳を見つけていた。
「美園さんも、照れていますか?」
『照れてない』
「耳が赤いです」
『暑いから』
「今日は涼しいですよ」
『日が当たってきたの』
先ほどの言い訳をそのまま返され、佐藤が笑う。
『何がおかしいの?』
「いえ。僕と同じことを言っていると思って」
『……そういうところは、見なくていい』
「見ますよ」
『どうして?』
「好きな人なので」
佐藤の言葉に、美園は何も返せなくなった。
代わりに、佐藤の肩へ自分の肩を軽くぶつける。
「痛いです」
『大袈裟』
美園は佐藤から顔を背けたまま、残っていたサンドイッチを食べる。
少し経ってから、佐藤の肩へ自分の頭を預けた。
佐藤の身体が固まる。
『動かないで』
「はい」
『あと、周りを気にしない』
「はい」
『緊張もしない』
「それは、少し難しいです」
『努力して』
「頑張ります」
美園は目を閉じた。
遠くから聞こえる子どもの声と、木々を揺らす風の音。
その中に、すぐ隣を流れる佐藤の呼吸が混ざっている。
特別な場所ではない。
華やかな食事も、酒もない。
それでも、こうして誰かの肩を借りて昼間の公園で目を閉じることが、今の美園には何より贅沢だった。
『佐藤くん』
「はい」
『さっきのこと、忘れて』
「胸を見たことですか?」
美園は黙ったまま、佐藤の太腿を軽く叩いた。
「痛いです」
『それは忘れなくていい。私が照れたこと』
「分かりました」
『本当に?』
「はい。美園さんは一度も照れていません」
『よろしい』
佐藤の返事に、美園は満足そうに目を閉じ直した。
けれど、佐藤の口元には小さな笑みが残っている。
美園はそれに気づいていたが、今度は何も言わなかった。
からかうつもりだったのに、最後に照れさせられたのは自分だった。
それも、たまには悪くないと思えた。




