132話「言いふらし」
翌朝。
凛は、いつもより少し早く出社した。
昨夜はほとんど眠れなかった。
目を閉じるたびに、青柳の言葉が蘇った。
――僕は、遠藤さんが。凛さんが、好きです。
思い出すだけで胸が熱くなる。
その一方で、青柳が名古屋へ行くという事実まで、すぐあとからついてくる。
嬉しい。
寂しい。
不安もある。
どれか一つに決められない感情を抱えたまま、凛は自分の席へ向かった。
『凛ちゃん、おはよ』
「おはようございます、陽菜さん」
すでに出社していた陽菜が、椅子を回して凛を見る。
その目が、凛の顔を捉えた瞬間に細くなった。
『ちょっと待って』
「はい?」
『目、腫れてない?』
凛は反射的に顔を伏せた。
「少し寝不足なだけです」
『嘘。これ、泣いた目だよ』
「どうして分かるんですか」
『あたし、人の顔を見る仕事してるから』
陽菜が立ち上がる。
声は明るいままだったが、目つきだけが変わっていた。
『誰かに何かされた?』
「違います」
『本当に?』
「本当です」
『青柳さん?』
凛の肩が、わずかに跳ねた。
陽菜はそれを見逃さなかった。
『青柳さんに泣かされたの?』
「違います。むしろ、その逆で……」
『逆?』
近くの席にいた柚希が、2人の会話に気づいて顔を上げる。
「どうかしたんですか?」
『凛ちゃんが泣いてたみたい』
「えっ。何かあったの、凛ちゃん」
「大丈夫。本当に、嫌なことがあったわけではないから」
『じゃあ、いいことがあって泣いたの?』
陽菜に問い詰められ、凛は逃げるように周囲を見回した。
まだ出社している社員は少ない。
青柳の姿もない。
このまま隠し通せる相手ではないと諦め、凛は小さく息を吐いた。
「昨夜、青柳さんと話しました」
『うん』
「異動のことと……これからのことを」
陽菜が続きを待っている。
柚希まで、息を潜めて凛を見つめていた。
「それで――青柳さんと、お付き合いすることになりました」
陽菜の動きが止まった。
『……は?』
「ですから、青柳さんと――」
『ええっ!?』
陽菜の声が、朝の営業部に響き渡った。
凛が慌てて口元へ人差し指を立てる。
「陽菜さん、声が大きいです」
『だって、付き合ったの!? いつ!? 昨日!?』
「昨夜です。もう少し静かに――」
『よかったじゃん!』
陽菜は満面の笑みを浮かべ、凛の両手を掴んだ。
『おめでとう、凛ちゃん!』
「ありがとうございます」
『告白したのはどっち? 青柳さん?』
「……青柳さんです」
『どこで?』
「Roseです」
『美園さんもいた?』
「いました」
『何て言われたの?』
「そこまで話す必要がありますか?」
『あるよ。大事なところじゃん』
「ありません」
『じゃあ、凛ちゃんは何て返したの?』
「それも言いません」
『なんで。あたし、ここまで心配してたのに』
「心配していただいたことには感謝しています。ですが、それとこれとは別です」
凛がはっきり拒むと、陽菜は不満そうに唇を尖らせた。
隣では、柚希が自分のことのように嬉しそうな顔をしている。
「本当によかったね、凛ちゃん」
「ありがとう、柚希ちゃん」
「でも、青柳さんは名古屋へ行くんだよね」
「うん。それは変わらない」
「寂しいね」
「寂しい。でも、青柳さんがずっと目指していた場所だから」
凛は、自分へ言い聞かせるように答えた。
「離れても、続けていこうと話しました」
「そっか」
柚希が優しく笑う。
「応援するね」
「ありがとう」
2人の間に穏やかな空気が流れる。
その横で、陽菜は何かを考えていた。
『これ、言っていい話だよね』
「え?」
『青柳さんと付き合ったこと』
「いずれは、皆さんにもお伝えするつもりですけど」
『そっか。いずれ言うんだ』
「はい。青柳さんとも相談してから――」
『じゃあ、隠す話じゃないね』
「陽菜さん?」
陽菜は自分の席へ戻ると、ちょうど出社してきた中井を手招きした。
『中井くん、ちょっと』
「おはようございます。どうしました?」
『凛ちゃんと青柳さん、付き合ったって』
「陽菜さん!」
中井が目を見開く。
「えっ、本当ですか?」
「……本当です」
「おめでとうございます!」
「ありがとうございます。でも、もう少し声を――」
『ね。めでたいでしょ』
「すごいですね。名古屋へ行く前に、ちゃんと気持ちを伝えたんだ」
『青柳さん、やるときはやるよね』
満足そうにうなずいた陽菜が、次に出社してきた佐藤を見つける。
『佐藤くん、おはよ。青柳さん、凛ちゃんと付き合ったよ』
「もう言うんですか!?」
「おはようございます。……えっ、青柳さんと遠藤さんが?」
『そう』
「おめでとうございます」
「ありがとうございます……」
凛は顔を赤くしたまま、机へ額をつけたくなるのを堪えた。
そこへ、彩花が鞄を肩に掛けたまま近づいてくる。
「朝から何を騒いでるの?」
『彩花さん、聞いて。凛ちゃんと青柳さんが付き合ったの』
「ちょっと、陽菜さん!」
「へえ」
彩花は凛を見たあと、口元をわずかに緩めた。
「よかったじゃない。おめでとう」
「ありがとうございます、彩花さん」
「遠距離になるんでしょ。簡単じゃないだろうけど、決めたなら頑張りなさい」
「はい」
彩花の言葉は現実的だった。
だからこそ、凛には素直に受け取ることができた。
『ほら。みんな喜んでる』
陽菜が得意げに言う。
「だからといって、勝手に言いふらしていいことにはなりません」
『言いふらしてないよ。近くの人に共有してるだけ』
「それを言いふらしていると言うんです」
『お祝いは人数が多い方がいいじゃん』
「まだ青柳さんにも確認していないんです」
『大丈夫だよ。青柳さんなら嫌がらないって』
「そういう問題ではありません」
凛が抗議している最中、樹里が出社した。
陽菜はすぐにそちらへ顔を向ける。
『日高先輩、おはようございます』
『おはようございます』
『凛ちゃんと青柳さん、昨日から付き合ってるんですよ』
「陽菜さん!」
樹里は一度凛を見た。
赤くなった顔と、その隣で嬉しそうにしている陽菜を見比べる。
『そうなんですね。遠藤さん、おめでとうございます』
「ありがとうございます、日高先輩」
『それから、櫻井さん』
『はい』
『本人の許可を取らずに広めるのは、やめた方がいいですよ』
『でも、めでたい話ですよ?』
『めでたければ何をしてもいいわけではありません』
『日高先輩だって、嬉しそうじゃないですか』
『それとこれとは別です』
陽菜は、凛が少し前に口にしたのと同じ言葉を返され、黙り込んだ。
樹里は自分の席へ向かいかけ、途中で足を止める。
『……ただ、本当によかったです』
「はい」
凛が笑う。
「ありがとうございます」
樹里は小さくうなずき、今度こそ自分の席へ向かった。
『ほら。日高先輩も喜んでる』
「そこではありません」
やがて、出社してくる社員の数が増えていく。
陽菜が直接伝えたのは、そこまでだった。
だが、中井から松井へ。
佐藤から近くの男性社員へ。
彩花の反応を見ていた女性社員から、その隣の席へ。
話は少しずつ広がっていった。
「遠藤さんと青柳さん、付き合い始めたらしいよ」
「異動前に決めたんだ」
「遠距離になるのか」
凛の周囲を飛び交う小声は、もはや隠しようのない大きさになっていた。
「陽菜さん」
『何?』
「これが、あなたの言う共有ですか?」
『あたしが言ったのは、あそこにいる人たちまでだよ』
「同じことです」
『でも、祝福されて嫌な気はしないでしょ?』
「恥ずかしいです」
『嫌なの?』
「……嫌ではありません」
『じゃあ、よかった』
あっさり笑う陽菜を前に、凛はこれ以上の抗議を諦めた。
そのとき、営業部の入口から青柳が入ってくる。
「おはようございます」
フロアの視線が、一斉に青柳へ集まった。
青柳の足が止まる。
「……おはようございます」
もう一度挨拶しても、妙な静けさは消えない。
やがて、誰かが堪えきれずに声を上げた。
「青柳さん、おめでとうございます」
「ありがとうございます。異動のことでしょうか」
「そっちもですけど、遠藤さんとのことです」
青柳は目を瞬かせた。
それから、離れた席にいる凛を見る。
凛は顔を真っ赤にしたまま、陽菜を指差した。
その動きだけで、青柳は事情を理解したらしい。
「櫻井さんが?」
『あたしは、ちょっとしか言ってません』
「ちょっとの範囲が広すぎます」
「そうだったんですね」
青柳は困ったように笑った。
怒っている様子はない。
だが、曖昧な噂だけを残すつもりもないようだった。
青柳は姿勢を正し、周囲へ頭を下げる。
「皆さんがお聞きになっているとおり、遠藤さんとお付き合いさせていただくことになりました」
凛が顔を上げる。
「名古屋へ異動したあとも、互いを大切にしていきたいと思っています。温かく見守っていただけると嬉しいです」
今度は、誰も遠慮しなかった。
あちこちから祝福の言葉と拍手が上がる。
凛は恥ずかしさに耐えきれず、両手で顔を覆った。
『ほら。本人から言ってもらった方が盛り上がった』
「陽菜さんが言うことではありません」
『でも、嬉しいでしょ?』
凛は指の隙間から、青柳を見る。
青柳も恥ずかしそうにしながら、それでも凛から目を逸らさなかった。
「……嬉しいです」
『でしょ』
陽菜は満足そうに腕を組んだ。
『祝福は、みんなで共有した方がいいんだよ』
勝手に言いふらした本人が、一番誇らしげな顔をしている。
凛は呆れながらも、とうとう笑ってしまった。
異動の辞令が出てから、重い空気に包まれていた営業部。
その朝だけは、青柳が去る寂しさよりも、2人の始まりを喜ぶ声で満たされていた。




