131話「答え」
店の扉が閉まり、外の気配が遠ざかる。
青柳は濡れてもいない額をハンカチで押さえながら、申し訳なさそうに頭を下げた。
「閉店間際に、本当にすみません」
『まだ閉めてないから大丈夫。座って』
美園が示したのは、カウンターの端だった。
店内には、残り2組の客がいる。
凛は入口の前で立ち尽くしていた。
昼間、会社で見ていたはずの顔なのに、ここへ来た青柳は別人のように見えた。
仕事の相談ではない。
異動の引き継ぎでもない。
凛に話があると言って、彼はわざわざRoseまで来た。
「遠藤さん、お仕事中にすみません」
「いえ。私もちょうど、休憩をいただくところでしたから」
自分の口から出た言葉なのに、ひどく他人行儀に聞こえた。
美園は何も言わず、青柳の前へおしぼりと水を置いた。
『私は向こうにいるから。何かあったら呼んで』
「ありがとうございます」
美園は離れたものの、完全に背を向けることはしなかった。
凛がカウンターの中へ入ろうとすると、青柳が慌てて呼び止める。
「遠藤さん。できれば、こちらに座っていただけませんか」
「……はい」
凛はエプロンを外し、カウンター越しではなく、青柳の隣へ座った。
近い。
けれど、数日後には、その距離を簡単に埋められなくなる。
そう考えただけで、胸が苦しくなった。
「今朝のことなんですが」
青柳が静かに切り出した。
「きちんと、自分の口からお話ししたかったんです。辞令という形で先に知られることになるとは思っていなくて」
「仕方ありません。会社の決定ですから」
「はい」
それきり、会話が途切れる。
青柳は膝の上で組んだ手を見つめていた。
言葉を選んでいるのだと、凛には分かった。
「僕は、もともと名古屋の出身なんです」
「……そうだったんですね」
「大学を卒業してこちらへ来ましたが、いつか名古屋支部へ行きたいと思っていました。地元へ戻りたいというだけではなくて、名古屋で仕事を任されることが、入社した頃からの目標だったんです」
凛は黙って聞いていた。
「今回の話をいただいたとき、本来なら迷う理由はありませんでした。しかも、部長という立場まで任せていただける。ずっと望んでいた機会です」
青柳の声から、誇張も虚勢も感じなかった。
本当に、長い間そこを目指してきたのだ。
名古屋への異動は、突然降りかかった不運ではない。
努力を続けてきた青柳が、自分の力で手にしたものだった。
それなら、祝わなければならない。
凛は膝の上で両手を握り締めた。
「……昔からの夢が、叶ったんですね」
「はい」
「名古屋支部へのご栄転、本当におめでとうございます」
言えた。
何度も喉につかえていた言葉を、ようやく口にできた。
けれど、祝福とは呼べないほど、震えた声だった。
「ありがとうございます」
青柳が穏やかに答える。
その優しい声が、凛の胸をさらに締めつけた。
これでいい。
青柳の夢が叶ったのだから、笑って送り出せばいい。
花火大会の夜も、ツーリングの写真を見せる約束も、渡せないまま鞄に入っている土産も、すべて良い思い出にすればいい。
凛は顔を上げようとした。
笑わなければと思った。
けれど、どうしても青柳の顔を見ることができなかった。
カウンターの奥で、美園が手を止める。
伏せられた凛の目に、涙が溜まっている。
それでも凛は、泣くことさえ堪えようとしていた。
客のグラスを拭いていた美園が、布巾を置いた。
約束したはずだ。
格好悪くても、全部伝えなさいと。
何も言わないまま青柳を帰すつもりなら、今度こそ割って入る。
美園が2人の方へ足を向けた、その瞬間だった。
「でも、今は違うんです」
青柳の声に、美園の足が止まった。
凛も、ゆっくりと顔を上げる。
「……違う?」
「名古屋へ行くことが夢だったのは、本当です。その気持ちは今も変わっていません」
青柳は一度、深く息を吸った。
「ですが、何の迷いもなく喜べると思っていた僕が、今はここを離れることが寂しいと感じています」
凛の唇が、わずかに開く。
「今の部署には、大切な人たちがいます。僕を育ててくださった方も、支えてくださった方もいます」
青柳が凛を見る。
逃げ場を与えないような強い視線ではなかった。
それでも、目を逸らすことはできなかった。
「その中に、夢だった名古屋よりも、離れたくないと思ってしまう人ができました」
心臓が、大きく跳ねた。
「花火大会のあとから、ずっと考えていました。あの夜の気持ちは何だったのか。遠藤さんともっと話したいと思うのは、なぜなのか」
青柳は小さく笑った。
「ツーリングへ行くと聞いたときも、写真を見せてもらう約束をしただけなのに、楽しみにしていました。今日、遠藤さんに避けられているように感じて、仕事に集中できないほど気になりました」
「避けていたわけでは……」
「分かっています。僕も、きちんと話せていませんでしたから」
青柳の手が、膝の上で強く握られる。
緊張している。
いつも落ち着いて見える青柳も、平気ではないのだと分かった。
「辞令が出て、ようやく自分の気持ちを誤魔化せなくなりました。離れることが決まってから気づくなんて、遅すぎるとは思います」
青柳は真っ直ぐに凛を見つめた。
「僕は、遠藤さんが――凛さんが、好きです」
凛の目から、涙が落ちた。
堪える間もなかった。
頬を伝った涙が、膝の上に置いた手へ落ちる。
「遠藤さん?」
青柳の表情が一変した。
「すみません。困らせるつもりでは――」
「違います」
凛は首を横に振った。
けれど、次の涙も止められなかった。
「違うんです。困っているわけではありません」
「では、どうして……」
「分からないんです」
凛は涙を拭いながら、必死に言葉を探した。
「ご栄転は、おめでたいことです。青柳さんがずっと努力してきた結果ですから、本当はもっと喜ばなければいけません」
「はい」
「でも、私は全然喜べなくて。名古屋へ行ってほしくないと思ってしまって……そんな自分が、嫌だったんです」
喉が震える。
それでも、もう止めなかった。
「青柳さんの夢を応援したいです。諦めてほしくありません。でも、離れたくもありません」
凛は濡れた目で青柳を見る。
「行ってほしくないのに、行ってほしいんです。何を言っているのか、自分でも分かりません」
「分かります」
青柳は、迷わず答えた。
「僕も、同じですから」
「……同じ?」
「名古屋へは行きます。ずっと望んできた場所で、任された仕事をやり遂げたいです」
凛の胸が痛んだ。
けれど同時に、その言葉に少しだけ救われた。
自分のために夢を捨てると言われたら、きっと喜べなかった。
「それでも、凛さんとの関係まで諦めたくありません」
青柳が椅子ごと、わずかに凛へ向き直る。
「名古屋へ行けば、今までのようには会えません。簡単なことばかりではないと思います」
「はい」
「それでも、遠くなる前に伝えたいんです」
青柳は一度言葉を切った。
そして、震えを隠さない声で尋ねた。
「僕と、お付き合いしていただけませんか」
凛は涙を拭った。
すぐに返事をしたかったのに、声にならない。
何度もうなずいてから、ようやく唇を開く。
「はい」
青柳の目が、大きくなる。
「私も、青柳さんが好きです」
「……本当ですか」
「こんなことで、嘘はつきません」
泣きながら答える凛を見て、青柳の肩から力が抜けた。
「よかった……」
小さく漏れたその言葉は、凛がこれまで聞いたどの声よりも頼りなく、それだけに本心だと分かった。
美園は離れた場所で、そっと息を吐いた。
割って入る必要はなかった。
凛は、きちんと自分の言葉で伝えられた。
青柳もまた、夢と凛のどちらかを切り捨てることなく、両方を選ぼうとしている。
最後の客が席を立ち、美園が会計を済ませる。
扉の外へ見送ってから、入口の札を裏返した。
CLOSEDの文字が、店の外を向く。
美園はカウンターへ戻ると、2人の前に新しいグラスを置いた。
『おめでとう』
凛が美園を見る。
『ちゃんと言えて、よかったね』
「……はい」
『青柳くんも。凛ちゃんを泣かせた分、これから大切にしてあげて』
「はい。必ず」
『返事が真面目すぎる』
美園が微笑むと、凛も涙の残る顔で笑った。
「あっ……」
凛は突然立ち上がり、店の奥へ向かった。
置いてあった鞄から、小さな包みを取り出して戻ってくる。
「これ、渡そうと思っていたんです」
「僕にですか?」
「ツーリングのお土産です。辞令を見てから、渡す機会を逃してしまって」
青柳は両手で包みを受け取った。
「ありがとうございます。大切にします」
「食べ物なので、大切にしすぎないでください」
「あ……そうですね」
真剣に答える青柳を見て、凛が初めて自然に笑った。
「それから、写真も」
「見せていただけるんですか」
「その約束でしたから」
凛は青柳の隣へ座り直し、スマートフォンを取り出した。
画面には、ツーリング先で撮った集合写真が映る。
笑っている陽菜。
その隣で静かに立つ樹里。
彩花に肩を寄せられ、少し困ったように笑う美園。
零と柚希。
そして、仲間たちの端で、バイクの鍵を手にした凛。
「楽しそうですね」
「はい。とても楽しかったです」
「次に行ったときも、写真を見せてもらえますか」
凛は青柳を見る。
次。
その言葉が、今までとは違う響きを持って胸に届いた。
「写真だけでいいんですか?」
「できれば、お話も聞きたいです」
「では、たくさん撮っておきます」
「お願いします」
遠くなることは、変えられない。
名古屋へ行く日も、もう決まっている。
それでも、その先に会う約束ができた。
離れる前に終わるのではない。
離れてからも続けていくために、2人の関係には、ようやく名前がついた。




