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130話「言えないおめでとう」

翌朝も、凛に元気は戻らなかった。


 挨拶はできる。


 仕事にも遅刻しない。


 頼まれたことは、普段と変わらず丁寧にこなしている。


 ただ、目だけがどこか遠かった。


 机の下には、昨日渡せなかった土産が置かれている。


 鞄から出すことさえできず、紙袋は同じ場所に残ったままだった。


 始業前の営業部では、青柳の異動が話題になっていた。


「青柳さん、名古屋支部で部長になるらしいよ」


 誰かの声が、凛の耳へ届く。


 動かしていた指が止まった。


「部長?」


「そう。異動だけじゃなくて昇進だって」


「若いのにすごいね」


「青柳さんなら納得だけどな」


 周囲から上がるのは、祝福の言葉ばかりだった。


 青柳の仕事ぶりを知っている人間なら、当然の反応だった。


 顧客への対応は丁寧で、後輩の面倒見もいい。


 問題が起きても声を荒らげず、必要なことを冷静に判断できる。


 名古屋支部で部長に選ばれたと聞いても、誰も疑問には思わなかった。


 黒澤が自席から声を上げる。


「話が広がってるから、先に伝えておく」


 営業部が静かになる。


「青柳は、名古屋支部への異動と同時に部長へ昇進する。正式な辞令は昨日掲示したとおりだ」


 小さなどよめきが起こる。


「向こうの営業部門を任される。栄転だ。残りの期間は短いが、引き継ぎは中途半端にするな。青柳も、最後まで頼むぞ」


「はい」


 青柳が立ち上がる。


「急な話で、ご迷惑をおかけします。残された期間で、可能な限り引き継ぎを進めます。よろしくお願いします」


 頭を下げると、営業部のあちこちから拍手が起きた。


 凛も、周囲に遅れて手を叩いた。


 青柳と目が合う。


 ほんの一瞬だった。


 凛はすぐに視線を落とした。


 おめでとうございます。


 その一言を伝えるべきなのだろう。


 名古屋支部で部長になる。


 誰が聞いても喜ばしい話だった。


 青柳が努力してきた結果なら、なおさら祝うべきだった。


 それなのに、その言葉を口にしようとするたび、胸の奥が苦しくなる。


 拍手が止まる。


 黒澤が手を叩いた。


「祝うのはいいが、仕事は待ってくれない。全員、始めろ」


 社員たちが自分の席へ戻っていく。


 青柳の周囲だけには、すぐに人が集まった。


「青柳、おめでとう」


「ありがとうございます」


「向こうで部長か。すごいな」


「まだ実感はありませんが、任せていただいた以上は頑張ります」


「引っ越しはいつ?」


「今、会社と調整しています」


「忙しくなるな」


「そうですね」


 青柳は1人ずつの言葉に、丁寧に応じていた。


 その顔には、戸惑いと緊張がある。


 それでも、栄転を喜んでいるように見えた。


(……おめでとうって、言わないと)


 凛は席を立とうとした。


 だが、青柳の周りには人が絶えない。


 一歩を踏み出せないまま、また椅子へ座った。


 午前中。


 凛は書類を確認しながら、何度も同じ行を読み直していた。


 意味が頭に入ってこない。


 青柳の周りでは、引き継ぎの相談が始まっている。


 自分には関係のない業務の話だった。


 それでも、その声が聞こえるたびに意識が向いてしまう。


「遠藤さん」


 名前を呼ばれ、凛が顔を上げた。


 樹里が書類を手に立っている。


『先ほどお願いした資料は、どこまで進んでいますか』


「すみません。もう少しで終わります」


『急がなくていいです』


「ですが、午前中までに必要ですよね」


『期限は昼までです。正確にお願いします』


「はい」


 樹里はその場を離れようとして、足を止めた。


『遠藤さん』


「はい」


『今日は、間違えないことだけを考えてください』


「……分かりました」


『速さは求めていません』


 それだけ告げ、樹里は自分の席へ戻った。


 凛は、手元の書類を見つめる。


 慰められたわけではない。


 何があったのかを尋ねられたわけでもない。


 ただ、今の自分にできる仕事の仕方を示された。


 凛は一度深く息を吸い、最初の行から確認し直した。


 昼休みになっても、青柳の周囲には人がいた。


 他部署の社員まで祝いに来ている。


 信頼されている人なのだと、改めて思った。


 嬉しいはずだった。


 青柳が認められたことを、自分も喜びたい。


 その気持ちは嘘ではない。


 けれど、喜びのすぐ隣にある寂しさが、大きすぎた。


 机の下へ手を伸ばす。


 土産の紙袋へ指が触れる。


(今、渡そう)


 そう決め、凛は紙袋を持ち上げた。


 青柳の方を見る。


 ちょうど人が途切れていた。


 今なら話せる。


 凛が立ち上がろうとした瞬間、電話が鳴る。


「はい、島川不動産、遠藤です」


 顧客からの問い合わせだった。


 内容を聞き、担当者へ取り次ぐ。


 通話を終えたときには、青柳は別の社員と資料を見ていた。


 凛は紙袋を、再び机の下へ戻した。


 午後も同じだった。


 タイミングを見つけては逃し、青柳の方を見ては視線を逸らす。


 青柳も何度か凛を見ていた。


 けれど、勤務中に無理に声をかけようとはしなかった。


 2人の間にある距離は、それほど遠くない。


 それでも今日は、名古屋よりも遠く感じられた。


 終業時刻を過ぎても、青柳は引き継ぎの打ち合わせを続けていた。


 凛は席を立ち、Roseへ向かう準備をする。


 今日はバイトの日だった。


 結局、おめでとうも言えない。


 写真も見せられない。


 土産も渡せない。


 凛は紙袋を鞄へ戻した。


「お先に失礼します」


『お疲れさま、凛ちゃん』


 陽菜が心配そうに凛を見る。


「お疲れさまです」


『今日はRoseだよね』


「はい」


『無理しないでね』


「大丈夫です」


 また同じ言葉を使ってしまった。


 陽菜はそれを指摘しなかった。


 凛は営業部を出て、エレベーターへ乗る。


 扉が閉まる直前、青柳がこちらを見ていることに気づいた。


 声をかけられる前に、2人の間を扉が遮った。


 会社を出て少し歩いたところで、スマートフォンが震えた。


 凛は足を止める。


 届いていたのは、青柳からのLINEだった。


 ――遠藤さん、お疲れさまです。


 続けて、もう1通届く。


 ――少しお話しできませんか。このあと、お時間はありますか?


 凛は画面を見つめた。


 話したい。


 昨日から、ずっとそう思っていた。


 それなのに、実際にその機会が来ると怖かった。


 何を言われるのか。


 自分が何を言ってしまうのか。


 それでも、断れば後悔することだけは分かっていた。


 凛はゆっくりと文字を打つ。


 ――今日はRoseでバイトがあります。


 一度送信し、次の文章を続ける。


 ――お店でよければ、お話しできます。


 既読はすぐについた。


 青柳からの返事が届く。


 ――分かりました。仕事が終わり次第、伺います。


 ――遅い時間になるかもしれません。


 ――待っています。


 そこまで打ってから、凛の指が止まる。


 少し迷い、最後の言葉を変えた。


 ――分かりました。お気をつけてお越しください。


 送信する。


 待っていますと書くことが、怖かった。


 けれど、本当は待っていた。


 昨日からずっと。


 Roseへ着くと、美園はすでに開店準備を進めていた。


「おはようございます」


『おはよう、凛ちゃん』


 美園は最初から事情を尋ねなかった。


 凛の顔を見れば、陽菜から聞いていたことが事実だと分かる。


 それでも、本人の口から話すまでは待つつもりだった。


 凛は着替えを済ませ、エプロンをつける。


 グラスを並べ、テーブルを拭き、開店の準備を進める。


 手は動いている。


 けれど、いつもより何度も時計を見ていた。


『誰か来るの?』


 美園がようやく尋ねる。


 凛の手が止まる。


「青柳さんです」


『そう』


「今日、LINEが来ました。少し話せませんかって」


『それで、ここを指定したの?』


「今日はバイトなので。それに……他の店より、ここがよかったんです」


 美園は静かにうなずいた。


『分かった』


「青柳さん、名古屋支部で部長になるそうです」


『栄転なんだね』


「はい」


『おめでとうって、言えた?』


 凛は首を横へ振った。


「言わないといけないのに」


『どうして?』


「青柳さんが評価された結果だからです。喜ばしいことですし、私が落ち込む理由なんてありません」


『理由ならあるでしょ』


 美園は、拭いていたグラスを置いた。


『離れるのが寂しい』


 凛は俯く。


「でも、私は青柳さんの何でもありません」


『何でもない相手のために、そんな顔はしないよ』


「私が勝手に期待していただけです」


『何を?』


「これからも、同じ会社で話せると思っていました。今日も、写真を見てもらって、土産を渡して……また次の話ができると思っていました」


 凛は鞄の中から、小さな紙袋を取り出した。


「でも、青柳さんには名古屋での仕事があります。部長になるんです。私は笑って、おめでとうございますって言うべきなのに」


『言いたくないなら、今は言わなくてもいい』


「それでは、青柳さんを困らせます」


『凛ちゃん』


 美園はカウンター越しに、凛を見る。


『今日は、青柳くんを綺麗に送り出すために会うの?』


「……分かりません」


『自分の気持ちを伝えるためじゃないの?』


「伝えて、どうするんですか」


『それを決めるのは、青柳くんだよ』


 凛が顔を上げる。


『いっぱい、わがままをぶつけたっていい』


 美園の声は静かだった。


『寂しいなら寂しい。行ってほしくないなら、行ってほしくない。おめでとうって言えないなら、それも言えばいい』


「そんなことを言ったら、青柳さんの負担になります」


『勝手に相手の気持ちを決めないの』


 美園の言葉に、凛は息を止めた。


『言わずに後悔するくらいなら、格好悪くても全部伝えなさい』


 美園はもう一度グラスを手に取る。


『後悔のないように』


「……はい」


 凛はエプロンの裾を握り、ゆっくりとうなずいた。


 店が開く。


 客が訪れれば、いつもどおり笑顔で接客する。


 注文を聞き、酒を作り、美園の手伝いをする。


 それでも扉が開くたび、凛の肩はわずかに動いた。


 時間が進む。


 客が1人、また1人と帰っていく。


 日付が変わるまで、あと少し。


 店内に残る客も、わずかになっていた。


 凛はカウンターの内側で、何度も同じグラスを拭いていた。


『凛ちゃん』


「はい」


『そのグラス、もう十分綺麗だよ』


「……すみません」


『謝らなくていい。深呼吸して』


 凛はグラスを置いた。


 ゆっくりと息を吸い、吐く。


 そのとき、入口のベルが鳴った。


 凛の身体が固まる。


 扉が開く。


「遅くなってしまい、すみません」


 青柳が、Roseへ入ってきた。

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