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129話「辞令」

月曜日の朝。


 凛は、いつもより少し早く出社した。


 手には通勤鞄と、もう1つ小さな紙袋を持っている。


 中に入っているのは、日光で青柳のために選んだ土産だった。


 何度も迷い、陽菜にからかわれながら決めた菓子。


 スマートフォンには、ツーリングで撮った写真も残っている。


 出発前の集合写真。


 東照宮で撮った7人の写真。


 夕暮れの中、陽菜に頭を撫でられる零たちを写した写真。


 そして、青柳へ見せようと思って撮った景色。


 昨日の夜、無事に帰ったことだけはLINEで伝えた。


 写真は画面越しではなく、直接見せるつもりだった。


 青柳がどんな顔で見るのかを、凛は少しだけ楽しみにしていた。


 エレベーターを降り、営業部へ向かう。


 ところが、普段とは違うざわめきが聞こえた。


「名古屋か」


「急だな」


「いつから?」


「来月らしい」


 数人の社員が、社内掲示板の前へ集まっている。


 凛は足を止めた。


 その横を、陽菜が通り過ぎる。


『おはよう、凛ちゃん。どうしたの?』


「おはようございます。何か、出ているみたいで」


『また異動かな』


 陽菜は人の隙間から掲示板を覗いた。


 凛も、その後ろから新しく貼られた辞令を見る。


 いくつか並んだ名前。


 部署名。


 日付。


 その中の一行だけが、視界へ強く焼きついた。


 青柳慧。


 9月1日付。


 名古屋支部へ異動。


 凛の手から、鞄が落ちた。


 床へぶつかり、乾いた音が響く。


 近くにいた社員が振り返った。


『凛ちゃん』


 陽菜がすぐに屈み、鞄へ手を伸ばす。


 その隣には、土産の紙袋が残っていた。


 幸い、中身は潰れていない。


『大丈夫?』


「……はい」


 凛も遅れて屈み、鞄を拾う。


 指へうまく力が入らなかった。


 陽菜が代わりに持ち上げ、凛へ渡す。


『青柳さん、名古屋に行くんだ』


「そう、みたいですね」


 自分の声なのに、遠くから聞こえた。


『聞いてなかったの?』


「はい」


『昨日、LINEしてたんじゃないの?』


「写真を見せる約束をしただけです」


 凛はもう一度、掲示板を見る。


 何度読み直しても、書かれている内容は変わらない。


 名古屋。


 9月1日。


 異動。


 たったそれだけの文字だった。


 青柳が、この会社からいなくなる。


 もう同じフロアで働けない。


 朝になれば会えることも、廊下ですれ違うこともなくなる。


 昨日までは考えもしなかった未来が、紙の上ではすでに決定事項になっていた。


『凛ちゃん』


「大丈夫です」


 陽菜が何かを言うより早く、凛は答えた。


「異動は、会社では普通にあることですから」


『でも』


「おめでたいことかもしれません」


 口にした言葉は、どれも正しかった。


 会社員であれば、異動は珍しくない。


 青柳が選ばれたのなら、それだけ評価されているということでもある。


 頭では分かっている。


 それなのに、胸の奥へ空いた穴は少しも埋まらなかった。


「仕事の準備をします」


 凛は陽菜へ頭を下げ、自分の席へ向かった。


 紙袋を、机の下へ置く。


 青柳のために選んだ土産。


 渡す理由は、まだある。


 異動すると分かったからといって、渡せなくなるものではない。


 それでも今は、紙袋へ手を伸ばせなかった。


 少し遅れて、青柳が出社してきた。


 掲示板の前に残っていた社員たちが、すぐに声をかける。


「青柳、名古屋だって?」


「はい」


「急だな。いつ聞いたんだ?」


「正式に決まったのは、つい先ほどです」


「そうか。引き継ぎ、大変になるな」


「ご迷惑をおかけします」


「迷惑なんて言うなよ。向こうでも頑張れ」


「ありがとうございます」


 次々に声をかけられ、青柳の周囲へ人が集まる。


 青柳は1人ずつに頭を下げていた。


 その視線が、一度だけ凛の方へ向く。


 凛は目を逸らした。


 机の上にある書類を開く。


 まだ、何も書かれていないページだった。


 それを読んでいるふりをした。


 青柳が何か言いたそうにしていたことには、気づいている。


 けれど今、声をかけられたら、どんな顔をすればいいのか分からなかった。


 笑って、おめでとうございますと言うべきなのか。


 どうして教えてくれなかったのかと、責めるべきなのか。


 行かないでほしいと、言ってしまっていいのか。


 どれも口にできなかった。


 始業時刻になり、黒澤が全員へ声をかけた。


「もう見た人もいると思うが、今朝付けで辞令が出た」


 営業部が静かになる。


「青柳は、9月1日から名古屋支部へ異動だ。残りの期間で引き継ぎを進める。関係する者には、あとで個別に指示を出す」


 黒澤は青柳を見る。


「急で大変だろうが、頼むぞ」


「はい。最後まで責任を持って対応します」


「それでいい。通常業務もある。朝から騒ぎすぎるな。仕事に戻れ」


 黒澤の一言で、社員たちが自分の席へ戻っていく。


 青柳も席へ向かった。


 凛の近くを通ったが、立ち止まらなかった。


 今は勤務時間だった。


 それが青柳なりの配慮だったのかもしれない。


 けれど凛には、避けられたようにも感じられた。


 午前中の凛は、いつもどおり仕事をしているつもりだった。


 電話が鳴れば取る。


 依頼された資料を揃える。


 コピーを取り、必要な部署へ届ける。


 それでも、少しずつ普段との違いが表れていた。


 コピー機の前で、取り出した紙をしばらく見つめている。


 席へ戻る歩幅が遅い。


 声をかけられても、返事が一拍遅れる。


「凛ちゃん」


 柚希に呼ばれ、凛が顔を上げる。


「これ、枚数が違うかも」


「あ……すみません」


「大丈夫。私も確認するから」


「すぐに取り直します」


「急がなくていいよ」


「でも、仕事なので」


 凛は書類を受け取り、もう一度コピー機へ向かった。


 柚希はその背中を心配そうに見送る。


 陽菜も離れた席から、凛の様子を見ていた。


『日高先輩』


『何ですか』


『凛ちゃん、ずっとあんな感じ』


 樹里が書類から顔を上げる。


 コピー機の前に立つ凛を見る。


『辞令を見てからですか』


『うん。あたしも何か言おうとしたんだけど、大丈夫って』


『今は、無理に聞かない方がいいでしょう』


『でも、放っておけないじゃん』


『放っておくのと、待つのは違います』


 陽菜は樹里を見る。


『話したくなれば、遠藤さんから話します』


『話さなかったら?』


『そのときは、何も言わずに傍にいればいい』


 陽菜は少しだけ黙った。


 以前の樹里なら、そうは言わなかったかもしれない。


 自分から何も話せなかった夜に、神谷がどうしてくれたのか。


 陽菜は尋ねなかったが、樹里の言葉の中にその夜が残っている気がした。


『分かった』


 陽菜は席を立った。


 コピーを終えた凛が戻ってくるのを待ち、給湯室へ誘う。


『凛ちゃん、少し休まない?』


「大丈夫です」


『朝から、そればっかりだよ』


「本当に大丈夫なので」


『じゃあ、あたしが休みたいから付き合って』


 陽菜は凛の返事を待たず、給湯室へ入った。


 凛も少し迷ったあと、その背中を追う。


 陽菜は2人分の飲み物を用意し、片方を凛へ差し出した。


『名古屋、遠いね』


「はい」


『でも、会えなくなるわけじゃないよ』


「はい」


『LINEもできるし、休みの日に会いに行くこともできる』


「そうですね」


『青柳さんも、連絡してくれると思う』


「分かりません」


 凛はカップを両手で持った。


 中身は温かい。


 それでも、冷えた指先はなかなか戻らなかった。


『昨日まで、何も知らなかったんです』


 陽菜は黙って聞く。


「帰ってきたら写真を見せてくださいって言ってくれました。だから私は、今日も明日も、青柳さんがここにいるものだと思っていました」


『うん』


「異動は、まだ先です。分かっています」


 凛は自分へ言い聞かせるように続ける。


「時間はあります。名古屋へ行っても、会おうと思えば会えます。仕事で決まったことなら、私が落ち込むのもおかしいです」


『おかしくないよ』


「でも、私は青柳さんの何でもありません」


 陽菜の表情が、わずかに曇る。


「ただ同じ会社で働いて、花火大会へ一緒に行って、少し話すようになっただけです」


『それでも、寂しいんでしょ』


 凛は答えなかった。


 否定しようとすれば、声が震えそうだった。


『それなら、今は寂しいでいいじゃん』


「……はい」


『無理におめでとうって思わなくてもいいよ』


「でも、もし青柳さんにとって良い異動なら、喜ばないと」


『喜ぶのと寂しいのは、一緒にあっていいと思う』


 陽菜は凛の顔を覗き込まなかった。


 隣に並び、自分のカップへ口をつける。


『あたしだって、大切な人が遠くへ行くって言われたら嫌だよ』


「陽菜さんも?」


『当たり前じゃん』


「陽菜さんなら、笑って送り出せると思っていました」


『無理。たぶん最初に、行かないでって言う』


 凛がわずかに顔を上げる。


『それで困らせてから、最後は応援する』


「先に困らせるんですね」


『だって、寂しいのを隠して聞き分けのいい人になるの、あたしには無理だもん』


 凛の口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。


 だが、それはすぐに消えた。


『少しは響いた?』


「ありがとうございます」


 丁寧な返事だった。


 陽菜は、それ以上言葉を重ねなかった。


 今の凛に、正しい言葉だけでは届かない。


 陽菜にも、それが分かった。


『戻ろうか』


「はい」


 午後になっても、青柳の周囲から人が途切れることはなかった。


 引き継ぎについて相談する者。


 異動先について尋ねる者。


 早くも送別会の話を始める者。


 凛は何度か青柳の方を見た。


 けれど、近づくことはできなかった。


 鞄の横には、日光の土産が置かれたままになっている。


 昼休みに渡そうと思った。


 夕方になったら声をかけようとも思った。


 それでも、結局紙袋を持ち上げることさえできなかった。


 終業時刻。


 青柳はまだ、別の社員と引き継ぎの予定を確認していた。


 凛は静かに帰り支度をする。


 写真を見せる約束も、土産を渡すこともできなかった。


「遠藤さん」


 席を立ったところで、青柳に呼ばれた。


 凛の身体が止まる。


 振り返ると、青柳は他の社員に囲まれたまま、こちらを見ていた。


「昨日は、無事に帰れたようでよかったです」


「はい」


「写真も――」


「すみません。今日は少し急いでいるので」


 凛は青柳の言葉を遮ってしまった。


 自分でも驚き、唇を噛む。


「そうですか」


 青柳は寂しそうに笑った。


「では、また時間のあるときに」


「……はい」


 凛は頭を下げ、営業部を出た。


 廊下へ出た瞬間、胸の奥が強く痛んだ。


 青柳は何も悪くない。


 異動を自分で決めたのかも分からない。


 それなのに、まともに顔を見ることもできなかった。


 エレベーターへ乗り、閉じる扉の向こうに営業部が消える。


 凛は鞄の中にある紙袋を、強く抱きしめた。


 その夜。


 陽菜は1人でRoseを訪れた。


 カウンターへ座った陽菜の顔を見て、美園はすぐにグラスではなく水を出した。


『会社で何かあった?』


『分かる?』


『分かるよ。陽菜、誰かのことで悩んでる顔してる』


 陽菜は水へ口をつけた。


『青柳さん、名古屋へ異動だって』


 美園の手が止まる。


『凛ちゃんの?』


『うん。9月1日から』


『凛ちゃんは、知ってたの?』


『今日の朝、掲示板で初めて知った。鞄、落としてた』


『……そっか』


『そのあと、ずっと元気ない』


 陽菜はカウンターへ肘をつき、両手で顔を支えた。


『声はかけたよ。名古屋へ行っても会えるとか、連絡できるとか』


『正しいね』


『うん。でも、全然届いてない感じだった』


 美園は、カウンターの中で短く息を吐いた。


『距離の話は、理屈じゃ埋まらないからね』


『どうしたらいい?』


『今は、何もしなくていいんじゃないかな』


『でも』


『凛ちゃんが話したくなったら、聞いてあげればいい』


 美園は新しいグラスを手に取り、布で拭き始めた。


『寂しいって気持ちは、誰かが正しい言葉を言えば消えるものじゃないよ』


『そっか』


『本人が、自分で向き合うしかない』


 陽菜は天井を見る。


『青柳さん、行っちゃうんだ』


『まだ時間はあるよ』


『凛ちゃん、ちゃんと話せるかな』


『話せるよ』


『どうして分かるの?』


『凛ちゃんは、自分の気持ちから逃げない子だから』


 美園の言葉は静かだった。


『時間はかかっても、最後はちゃんと自分で決める』


 陽菜はしばらく黙っていた。


 やがて、水の入ったグラスを両手で包む。


『そのときは、受け止めてあげてね』


『もちろん』


 店内に、氷の鳴る音が落ちる。


 昨日まで、凛のスマートフォンには7人の笑顔があった。


 鞄の中には、青柳へ渡すための土産がある。


 楽しかった一日は、何も失われていない。


 それでも月曜日の朝に貼られた、たった1枚の紙が、その思い出の色まで変えてしまった。


 辞令の一行と、渡せなかった土産。


 凛の沈黙だけが、次の日へ持ち越された。

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