128話「帰るまで7人」
東照宮の近くにある食事処で、7人は長いテーブルを囲んでいた。
歩き続けたあとの身体には、温かい茶が心地よい。
注文した料理を待つ間、陽菜がスマートフォンを取り出した。
『写真、グループに送ったよ』
テーブルのあちこちで、通知音が鳴る。
柚希が画面を開き、最初の写真を見て笑った。
「凛ちゃん、目を閉じてる」
「撮る瞬間までは開けていたんです」
「零ちゃんも、すごい顔してるよ」
「柚希さんが急に引っ張ったからです」
「だって、離れすぎてたから」
「1枚目は使わないんですよね?」
『あたしは、こっちも好きだけど』
陽菜は2枚の写真を並べて見せる。
1枚目には、誰かが誰かを見ている瞬間が写っていた。
凛は目を閉じ、彩花は陽菜の方を向いている。
零は柚希に腕を引かれ、驚いた顔をしていた。
樹里だけは、いつもと変わらない表情で正面を見ている。
2枚目では、7人全員がカメラへ顔を向けていた。
「日高、もう少し笑えばいいのに」
彩花が言う。
『笑っています』
「どこが?」
『いつもよりは』
『総――』
陽菜は言いかけ、慌てて口を閉じた。
その場にいる全員の顔を見回してから、言い直す。
『日高先輩は、これでも機嫌いい方だよ』
「分かりにくすぎるのよ」
『彩花に言われたくない』
「私は分かりやすいでしょ」
『そう思っているのは自分だけです』
「何よ」
『喧嘩するなら、料理が来る前に終わらせてね』
美園が茶を飲みながら言う。
「中村さんは、随分落ち着いてるわね」
『お腹が空きすぎて、喧嘩する元気がないの』
「それでさっきから、入口ばかり見てるんですね」
凛が納得したようにうなずく。
『凛ちゃんまで見てたの?』
「はい。美園さん、店員さんが通るたびに目で追っていました」
『見ないでよ』
『美園さん、食べ物が関わると隠せないよね』
『陽菜も同じでしょ』
『あたしは隠してないもん』
やがて、注文した料理が順番に運ばれてくる。
テーブルの上へ器が並ぶと、先ほどまで写真を見ていた全員の目がそちらへ移った。
『いただきます』
陽菜の声をきっかけに、それぞれが箸を取る。
空腹だったこともあり、最初の数分は会話が減った。
美園は姿勢を崩さず、静かに料理を口へ運んでいる。
その様子を見ていた彩花が、箸を止めた。
「中村さん、食べ方が綺麗ね」
『急にどうしたの?』
「後ろに乗っているときとの印象が違うから」
『どう違う?』
「運転してるときは、もっと男らしいと思った」
『私、女なんだけど』
「分かってるわよ。雰囲気の話」
『店をやってると、変な食べ方はできないからね』
「それにしても綺麗です」
柚希も美園の手元を見る。
『そんなに見られると食べづらいよ』
「すみません」
『彩花さんも見ないで』
「私は褒めただけでしょ」
『後ろで腰にしがみついてた人に言われると、複雑』
「しがみついてない。必要な分だけ掴まってたの」
『帰りも、あれくらいしっかり掴まってね』
「言われなくても分かってる」
彩花は不機嫌そうに料理へ戻った。
その顔を見て、美園が小さく笑う。
向かい側では、柚希が零の皿を見つめていた。
「零ちゃん、それ美味しそう」
「食べますか?」
「いいの?」
「半分どうぞ」
「でも、零ちゃんが食べたくて頼んだんでしょ」
「柚希さんが美味しそうに食べてくれた方が、自分も嬉しいっす」
零は揚げ物を1つ取り、柚希の皿へ置いた。
「ありがとう。じゃあ、私のも食べる?」
「いいんですか?」
「半分交換」
「いただきます」
柚希も自分の料理を零の皿へ分ける。
陽菜は、そのやり取りを見逃さなかった。
『仲いいね』
零の箸が止まる。
「陽菜さん、聞こえる声で言わないでください」
『聞こえるように言ってるもん』
「分けただけです」
『何も言ってないじゃん』
「顔が言っています」
『零、人の顔を読めるようになったね』
「陽菜さんだけは分かりやすいです」
陽菜は楽しそうに笑った。
柚希は少し恥ずかしそうにしながらも、皿へ載せられた料理を口に運ぶ。
「美味しい」
その一言で、零の表情が柔らかくなった。
凛は自分の料理を食べながら、樹里へ尋ねる。
「日高先輩は、普段からツーリングへ行くんですか?」
『ほとんど行きません』
「そうなんですね」
『今日は例外です』
『凛ちゃんが誘ったからだよ』
陽菜がすぐに補足する。
「本当ですか?」
『はい』
樹里は短く答えた。
『遠藤さんから誘われなければ、こうして皆さんで出かけることもなかったと思います』
「誘ってよかったです」
『私も、そう思います』
凛の目が、少しだけ大きくなる。
樹里は何事もなかったように、再び箸を動かしていた。
以前なら、誘いを受けた理由まで口にはしなかっただろう。
けれど今は、相手へ伝えなければ分からないことがあると知っている。
陽菜も美園も、その変化に気づいていた。
2人は何も言わず、わずかに笑うだけに留めた。
食事を終えたあと、7人はもう一度周辺を歩いた。
土産物を見て回り、それぞれが職場や親しい相手への品を選ぶ。
陽菜は中井へ渡す菓子を迷いなく手に取った。
『中井くん、これ好きそう』
「陽菜さん、自分の分より先に選ぶんですね」
柚希に言われ、陽菜が首を傾げる。
『そう?』
「さっきから、中井さんのものばかり見ています」
『喜ぶ顔が分かりやすいから、選びやすいんだよね』
「仲いいですね」
『うん。好きだから』
陽菜は恥ずかしがる様子もなく答えた。
柚希の方が照れたように目を逸らす。
美園も、佐藤へ渡すものを手に取っていた。
陽菜がすぐに気づく。
『美園さん、それ佐藤くんに?』
『そうだよ』
『昨日も一緒だったのに、今日も会うの?』
『明日渡すの』
『今日帰ってから会えばいいじゃん』
『疲れてる顔で会いたくないの』
『昨日はもっと疲れることしたのに?』
『陽菜』
美園の低い声に、柚希と凛が不思議そうな顔をする。
樹里は何も聞かなかったことにして、別の商品を見ていた。
彩花だけは事情を察したのか、額へ手を当てている。
「櫻井さん。場所を考えなさいよ」
『何のこと?』
「分かってて言ってるでしょ」
美園は陽菜の背中を軽く叩き、強制的に別の売り場へ向かわせた。
凛は青柳へ渡す土産を前に、長い時間迷っていた。
箱の大きさを比べ、原材料を確認し、また最初の品へ戻る。
『凛ちゃん、まだ決まらないの?』
「職場で渡すなら、あまり特別に見えないものの方がいいですよね」
『本人だけに渡すの?』
「そのつもりです」
『だったら、特別でいいじゃん』
「よくありません」
『どうして?』
「青柳さんが困るかもしれないので」
『凛ちゃんからなら、何でも喜ぶと思うけど』
「どうして陽菜さんが分かるんですか」
『見てれば分かるよ』
凛の顔が赤くなる。
結局、凛は小さな箱に入った菓子を選んだ。
派手ではないが、渡す相手を考えて選んだことが伝わる品だった。
「これにします」
『ちゃんと渡してね』
「渡します」
『写真も見せるんでしょ?』
「はい。約束したので」
凛は購入した土産を、大切そうに鞄へしまった。
帰路へ就く頃には、午後の日差しが少し傾き始めていた。
7人は駐車場へ戻り、再びインカムを接続する。
それぞれがエンジンをかけ、行きと同じ順番に並んだ。
『全員、聞こえますか』
樹里の声が入る。
「聞こえます」
『聞こえるよ』
「大丈夫です」
「自分も聞こえています」
『帰りは、行きより疲れが出ます。少しでも異常を感じたら、すぐに言ってください』
『了解』
「はい」
『では、出発します』
4台が、ゆっくりと駐車場を出た。
帰りの車列は、行きよりも動きが揃っていた。
凛は発進のたびに慌てることもなく、前の樹里との距離を一定に保っている。
「行きより、怖くないです」
『慣れてきた?』
陽菜が尋ねる。
「はい。力の抜き方が少し分かってきました」
『帰る頃には、もっと上手くなってるよ』
『慣れた頃が一番危険です』
樹里の声が入る。
『油断はしないでください』
「はい」
『日高先輩、褒めてから注意すればいいのに』
『安全に帰ってから褒めます』
『だって、凛ちゃん』
「では、帰ったら褒めてもらいます」
『約束します』
山道を抜け、次第に平地へ近づいていく。
インカムには、途切れることなく会話が流れていた。
『次に行くなら、どこがいい?』
陽菜が尋ねる。
「行き先より、食べたいものから決めたい」
彩花が答える。
『彩花さん、それいいね』
美園が賛成する。
「私は海が見たいです」
柚希が言った。
「海なら、走りやすい道を探します」
零が答える。
「また零ちゃんの後ろ?」
「嫌ですか?」
「嫌とは言ってないよ」
『凛ちゃんは?』
「私は、もう少し長い距離でも走ってみたいです」
『次も行く気になったんだ』
「はい」
凛の返事は明るかった。
だが、しばらく走ったあと、その声が少しずつ減っていった。
陽菜が最初に気づく。
『凛ちゃん?』
「はい」
『疲れた?』
「少しだけです。でも、大丈夫です」
『腕、痛くない?』
「少し張っているだけです」
最後尾から、零の声が入る。
「樹里さん。凛さん、さっきから少し肩が上がっています」
『確認しました』
樹里は前方の道路標識を見る。
『予定を変えます。次の休憩場所へ入ります』
「日高先輩、まだ走れます」
『走れるかではなく、安全に走り続けられるかで判断してください』
「ですが、皆さんを待たせることになります」
『誰も急いでないよ』
美園の声が聞こえる。
「遠藤さんが休むなら、私も休みたい」
彩花も続いた。
「私も少し脚が固くなってきました」
柚希が言う。
「自分も休憩に賛成です」
『ほら。凛ちゃんのためだけじゃないよ』
陽菜の声は柔らかかった。
『みんなで休もう』
「……分かりました」
樹里が合図を出し、4台は予定より手前の休憩場所へ入った。
バイクを停めると、凛は慎重にスタンドを立てた。
ヘルメットを外す。
額には、薄く汗が浮かんでいた。
「すみません。私のせいで」
『謝らなくていいよ』
美園が凛の肩へ触れる。
『疲れたって言えるのも、安全運転のうちだから』
「自分では、まだ大丈夫だと思っていました」
『後ろから見ると、少し分かるんです』
樹里も凛の前へ立つ。
『速度も一定でしたし、危険な運転ではありませんでした。ただ、疲労が増す前に休む方がいい』
「はい」
『行きより、ずっと安定していました』
凛が顔を上げる。
「褒めてくださるんですか?」
『安全に休憩場所まで来られましたから』
「ありがとうございます」
『でも、無理はしないでください』
「やっぱり注意もつくんですね」
『当然です』
凛は笑った。
陽菜が飲み物を持って戻ってくる。
『凛ちゃん、どれがいい?』
「自分で買います」
『もう買ってきた。水とスポーツドリンク』
「では、スポーツドリンクをお願いします」
『はい』
凛が受け取る。
『凛ちゃんが静かになったの、すぐ分かったよ』
「インカムがあったからですね」
『うん』
陽菜は、手にしたヘルメットを見る。
もし声が繋がっていなければ、前を走る凛の疲れに気づくまで、もう少し時間がかかったかもしれない。
零が後方から見た姿を伝え、美園や彩花、柚希の声もすぐに重なった。
誰か1人のために止まったのではない。
全員で休むことを、その場で決められた。
陽菜は何も言わず、少し離れた場所にいる零を見た。
零は柚希へ飲み物を渡している。
「零ちゃんは飲まないの?」
「自分の分もあります」
「また私の分を先に買ったの?」
「柚希さんが何を飲むか分からなかったので、何種類か買いました」
「買いすぎだよ」
「残ったら、自分が飲みます」
「じゃあ、これ半分飲む?」
「同じ容器からですか?」
「嫌ならいいけど」
「嫌ではないっす」
零は受け取ったボトルを見つめ、固まっている。
柚希は、その反応を不思議そうに眺めていた。
休憩を長めに取り、凛の身体が十分にほぐれたことを確認してから、7人は再び出発した。
日が傾くにつれ、周囲の景色が少しずつ見慣れたものへ変わっていく。
行きよりも口数は減っていた。
それでも、声が途切れることはない。
「柚希さん、眠くないですか?」
「大丈夫」
「少しでも眠くなったら言ってください」
「零ちゃんの背中に顔をつけててもいい?」
「え?」
「風が少し冷たいから」
「いいですけど、寝ないでください」
「寝ないよ」
少し間を置いて、柚希の声が小さくなる。
「零ちゃんの背中、温かいね」
「……聞こえています」
「聞こえるように言ったの」
今度は陽菜が何も言わなかった。
からかえば、零が慌てることは分かっている。
けれど今は、2人の会話をそのままにしておきたい気がした。
『彩花さん、寒くない?』
美園が尋ねる。
「平気」
『腕、さっきより強くなってるけど』
「寒いから」
『そういうことにしておくね』
「余計なことを言うと離すわよ」
『危ないから離さないで』
「なら、黙って運転して」
『はい』
美園の楽しそうな声が、インカムへ流れる。
その前を走る凛も笑った。
『日高先輩』
陽菜が、樹里の背中へ声をかける。
『何ですか』
『楽しいね』
『はい』
『また来たい?』
『皆さんが希望するなら』
『日高先輩は?』
樹里は少しだけ間を置いた。
『私も、また走りたいです』
陽菜の腕が、樹里の腰へ少しだけ強く回る。
『そっか』
『苦しいです』
『今だけ』
『運転中です』
『分かってるよ』
夕方。
4台は、出発した島川不動産のエントランス前へ戻ってきた。
樹里が停車し、凛、美園、零が順番に続く。
エンジン音が1つずつ消えていく。
最後の音が止まると、急に周囲が静かになった。
陽菜が後部座席から降りる。
美園の後ろから彩花が降り、零は柚希が地面へ足を着くまで車体を支え続けた。
凛も自分の力で、最後まで走りきった。
全員がヘルメットを外す。
『お疲れさま』
陽菜が手を上げた。
「お疲れさまでした」
「楽しかったです」
「私も」
『無事に帰れてよかったね』
「日高先輩」
凛が樹里の前へ立つ。
「最後まで連れて帰ってくださって、ありがとうございました」
『連れて帰ったわけではありません。遠藤さんが自分で走ったんです』
「途中で休ませてもらいました」
『休んだあとも、ご自分で走ったでしょう』
「はい」
『行きより、ずっと上手でした』
凛の顔に、達成感のある笑みが浮かぶ。
「また、誘ってもいいですか?」
『もちろんです』
『次も絶対行こう』
陽菜が横から加わる。
『今度は海ね』
「食べ物から決めるんじゃなかったの?」
彩花が言う。
『海の近くで美味しいもの食べればいいじゃん』
『それなら私も賛成』
美園が笑う。
「私も、また零ちゃんの後ろでいい?」
柚希が尋ねる。
「自分でよければ」
「じゃあ決まり」
零は短くうなずいたが、嬉しさを隠せていなかった。
7人は、取り付けていたインカムを外し始める。
借りた機器を1つずつ受け取り、零がケースへ戻していく。
陽菜は自分の分を外すと、すぐには零へ渡さなかった。
掌の上に載せ、小さな機器を見つめる。
『零』
「はい」
『これ、持ってきてくれてありがとう』
零が顔を上げる。
「朝も言ってましたよ」
『朝は、面白そうって言っただけ』
陽菜は零の前へ立った。
『今日、凛ちゃんが疲れたとき、すぐ分かった。離れて走ってても、みんなの声がずっと聞こえてた』
凛、美園、彩花、柚希も、2人を見る。
『あたし、バイクって、前を走る人の背中を見るか、後ろがついてきてるか気にするものだと思ってた』
陽菜は樹里の背中へ目を向ける。
『でも今日は、誰が笑ってるかも、誰が怖がってるかも、誰が疲れてるかも、全部分かった』
「……はい」
『走ってる間も、ずっと7人だった』
陽菜は、インカムを零の手へ置いた。
『誰も1人にならなかった。零が7人分、用意してくれたから』
零は掌の機器を見下ろす。
『本当にありがとう』
「自分は、みんなで話せた方が楽しいと思っただけです」
『それで十分だよ』
陽菜は、零の頭へ手を置いた。
乱暴ではなく、髪を少しだけ撫でる。
『零、いい子になったね』
「子供扱いしないでください」
『してないよ。ちゃんと褒めてる』
「なら、頭は撫でなくていいです」
『照れてる?』
「照れてないっす」
『顔、赤いよ』
「夕日のせいです」
『朝は朝日のせいって言ってなかった?』
柚希が笑う。
「零ちゃん、今日はずっと光のせいにしてる」
「本当に違います」
美園も笑い、彩花は呆れたように息を吐いた。
凛は、その光景をスマートフォンで撮った。
陽菜に頭を撫でられ、不満そうな顔をしている零。
その隣で笑う柚希。
少し離れた場所には、美園と彩花。
そして陽菜の後ろには、樹里がいる。
朝に撮った整った集合写真とは違う。
誰もカメラを見ていない。
それでも、凛にとっては一番好きな写真になった。
片づけを終え、それぞれが帰宅の準備を始める。
7人で作った車列が、ここでほどけていく。
けれど、もう朝までの7人には戻らない。
同じ道を走り、同じ景色を見て、同じ声を聞いた。
それぞれの間に、今日だけの記憶が残っている。
凛は青柳とのLINEを開いた。
撮影した写真をすぐに送ろうとして、指を止める。
画面越しではなく、直接見せたかった。
代わりに、短い文章だけを送る。
――無事に帰ってきました。とても楽しかったです。
少しして、青柳から返信が届いた。
――お帰りなさい。無事でよかったです。
続けて、もう1通。
――写真、楽しみにしています。
凛はその言葉を見て、微笑んだ。
――明日、見せます。
青柳から返ってきたのは、了承を示す短いスタンプだった。
そのときの凛は知らなかった。
青柳が、何度も文章を書いては消したあと、そのスタンプを送ったことを。
青柳の手元には、名古屋支店への異動が記された内示書が置かれていた。




