127話「同じ景色」
最初の休憩場所へ着いたとき、凛は大きく息を吐いた。
駐車場所を確認し、前の樹里に続いてバイクを停める。
スタンドが地面へ着いたことを確かめてから、ようやく肩の力を抜いた。
「着きました……」
『お疲れさま』
美園の声が、まだインカムから聞こえてくる。
「思っていたより、身体に力が入っていました」
『最初は仕方ないよ。肩と腕、痛くない?』
「少しだけ」
『休憩中に動かした方がいいです』
樹里がヘルメットを外しながら言う。
『水分も取ってください』
『日高先輩、やっぱり引率の先生みたい』
『櫻井さんも降りてください』
『今降りる』
陽菜は樹里の肩へ手を置き、後部座席から降りた。
地面へ足を着けると、その場で大きく伸びをする。
『気持ちよかった。やっぱりバイクっていいね』
『後ろに乗っていただけでしょう』
『後ろでも楽しいよ。日高先輩の運転、安心できるし』
樹里は返事をせず、ヘルメットを置いた。
けれど、否定もしなかった。
美園の後ろから降りた彩花は、自分の腰を軽く叩いていた。
『大丈夫?』
「平気。少し同じ姿勢が続いただけ」
『最初より、しっかり掴まってたね』
「カーブで身体を持っていかれそうになったから」
『私と同じ方向へ傾けば大丈夫だよ』
「それが分からないから掴まったの」
『次はもっとゆっくり曲がろうか?』
「そこまでしなくていい。今ので慣れた」
彩花は平静を装っていたが、頬にはわずかに興奮が残っている。
美園はそれに気づいても、指摘しなかった。
『楽しかった?』
「……悪くはない」
『それならよかった』
「嬉しそうにしないで」
『してないよ』
「してる」
美園は笑いながら、彩花のヘルメットを受け取った。
最後尾を走っていた零も停車し、柚希を降ろしていた。
「足、着けますか?」
「待って。どっちから降りるんだっけ」
「乗った方と同じ側で大丈夫っす。自分の肩を使ってください」
「こう?」
「ゆっくりで」
柚希は零の肩へ両手を置き、慎重に足を下ろした。
地面へ着いた瞬間、安堵したように息を吐く。
「降りられた」
「お疲れさまでした」
「思ってたより怖くなかったよ」
「本当ですか?」
「うん。零ちゃんが急に動かないでいてくれたから」
「よかったっす」
「でも、途中で返事がなくなったときは心配した」
「それは、柚希さんが背中のことを言ったからです」
「風が来なくていいって言っただけだよ?」
「分かっています」
「変なの」
柚希は笑いながら、ヘルメットを外した。
風に乱れた髪を手で整える。
零はその横顔を見ていたが、柚希が振り向く前に視線を逸らした。
『全員、大丈夫?』
陽菜が少し離れた場所から呼びかける。
「大丈夫です」
「私も」
『問題ないよ』
「自分たちも大丈夫っす」
『じゃあ、飲み物買おう。あたし喉渇いた』
『先ほどから、一番喋っていましたからね』
『インカムが面白いんだもん。離れてるのに、みんながすぐ近くにいるみたいで』
陽菜はヘルメットへ取り付けられた機器を指先で触った。
『このあとも繋いだままで行くよね?』
「もちろんっす」
『よし』
まだ零へ礼は言わない。
今の陽菜にとっては、便利で面白い道具だった。
その本当の価値を知るのは、もう少し先だった。
休憩を終えた7人は、再び走り出した。
市街地を離れ、山々が近づいてくる。
木々の間を抜ける道へ入ると、空気の温度が少し下がった。
『この先、少し道が曲がります』
先頭を走る樹里が伝える。
「分かりました」
凛が答える。
『速度を落とします。慌てずについてきてください』
「はい」
『凛ちゃん、肩の力抜いてね』
陽菜の声が重なる。
「抜いているつもりなんですけど」
『腕でハンドルにしがみつかない方が楽だよ』
『櫻井さん。余計な指示を増やさないでください』
『間違ってないでしょ』
『一度に言われると混乱します』
「大丈夫です。陽菜さんの言いたいことも分かります」
『ほら』
『前を見ていてください』
『後ろに乗ってるのに?』
『景色を見ていてください』
インカムの中へ笑い声が広がった。
凛の肩から、少しだけ力が抜ける。
1人で走っている。
それでも、1人きりではなかった。
前には樹里がいる。
後ろには美園と零がいる。
不安になれば、声を出すだけで全員へ届く。
凛は自分の速度で、緩やかな曲線を抜けた。
「曲がれました」
『上手だったよ』
美園が後ろから褒める。
「ありがとうございます」
『その調子でいいです』
樹里の声も聞こえた。
凛はヘルメットの中で、少しだけ笑った。
日光へ到着したのは、昼を少し前にした頃だった。
バイクを並べ、全員がヘルメットを外す。
陽菜はすぐにスマートフォンを取り出した。
『まず、写真撮ろう』
「散策してからでもいいんじゃない?」
彩花が言う。
『帰りだと疲れてるかもしれないじゃん』
「今でも髪が崩れてるけど」
『みんな同じだから大丈夫』
陽菜は周囲を見回し、スマートフォンを置けそうな場所を探した。
『あの石の前に並ぼう。タイマーで撮るから、逃げないでね』
「誰も逃げませんよ」
凛が笑う。
『零、端に行かない。もっとこっち』
「自分はここで大丈夫っす」
『駄目。ちゃんと入って』
陽菜は零の腕を引き、柚希の隣へ立たせた。
『凛ちゃん、もう半歩前。彩花さんは美園さんの隣』
「どうして位置まで決められないといけないの?」
『全員が綺麗に入るため』
「日高は、そこでいいの?」
『日高先輩は、あたしの隣』
陽菜は当然のように樹里の腕を引いた。
美園が肩をすくめながら、彩花の隣へ並ぶ。
凛と柚希も位置へ収まり、零だけが少し硬い顔をしていた。
『10秒。笑って』
陽菜がタイマーを設定し、急いで樹里の隣へ滑り込む。
電子音が鳴る。
撮影の直前、柚希が零の腕を引いた。
「零ちゃん、もっとこっち」
零の身体がわずかに傾く。
その瞬間、シャッターが切れた。
『確認する』
陽菜がスマートフォンへ駆け寄る。
1枚目には、引かれたことに驚く零と、笑っている柚希が写っていた。
凛は目を閉じ、彩花は陽菜の方を見ている。
『もう1枚』
「今のでいいんじゃない?」
『全員、カメラ見てないと駄目』
「自然でいいと思いますけど」
凛は写真を覗き込みながら笑った。
『駄目。次はちゃんと撮るよ』
もう一度並び直す。
今度は、全員が正面を向いた。
陽菜が樹里の肩へ触れ、美園が彩花の隣で笑う。
柚希は零との距離を、先ほどより少しだけ狭めた。
凛は7人の中央に立った。
2度目のシャッターが切れる。
『今度は完璧』
「あとで送ってください」
『グループに入れておく』
陽菜は満足そうにスマートフォンをしまった。
境内へ入ると、休日らしい人の流れができていた。
大きな杉に囲まれた参道を、7人は並んで歩く。
バイクを降り、インカムの接続も切った。
先ほどまで耳元にあった声は、それぞれの距離へ戻っている。
それでも、誰かが離れていくことはなかった。
豪華な装飾が施された建物を見上げ、陽菜が素直に声を上げる。
『すごい。思ってたより派手』
『声が大きいです』
『感想を言っただけじゃん』
『周囲を見てください』
『日高先輩だって、さっきからずっと見てるでしょ』
『見学に来たので当然です』
『綺麗なら、綺麗って言えばいいのに』
『綺麗ですね』
あまりにも淡々とした言い方に、陽菜が笑った。
『言わされた感がすごい』
凛は、その半歩後ろを歩いていた。
会社で見る2人とは、少し違う。
陽菜は樹里の隣で遠慮なく笑い、樹里も本気で離れようとはしない。
過去を聞く以前なら、ただ仲のいい先輩と後輩に見えていただろう。
今は、その関係が6年前よりさらに前から続いていることを知っている。
凛は前を歩く2人へ声をかけた。
「お二人は、昔もよく一緒に走っていたんですか?」
陽菜と樹里の足が、ほとんど同時に止まった。
陽菜が振り返る。
『うん。何度も』
樹里も凛を見る。
『今とは、目的が違いましたが』
「そうですよね」
凛は2人の表情を見比べる。
「私は、今日の方が好きです」
陽菜が目を瞬いた。
『凛ちゃん』
「昔のお二人を見たことはありません。でも、今日は皆さんが楽しそうなので」
凛は少し照れたように笑った。
「私も、楽しいです」
陽菜はすぐに凛の隣へ移動し、その腕へ自分の腕を絡めた。
『あたしも、今日の方が好き』
「近いです、陽菜さん」
『いいじゃん。写真撮ろうよ』
「またですか?」
『青柳さんに見せるんでしょ』
凛の顔が赤くなる。
「どうして青柳さんの名前が出るんですか」
『帰ったら写真見せるって言ってたじゃん』
「聞いていたんですか?」
『すぐ近くにいたし』
「それは、そうですけど」
『じゃあ、凛ちゃん1人でも撮ってあげる』
「1人は恥ずかしいです」
『青柳さんと一緒なら恥ずかしくない?』
「そういう話ではありません」
『顔、赤いよ』
「歩きます」
凛は陽菜の腕から逃れ、先へ進んだ。
陽菜は楽しそうに追いかける。
『待ってよ、凛ちゃん』
『櫻井さん。からかいすぎです』
『本当のことしか言ってないよ』
樹里も2人の後を歩き出す。
凛の過去に対する恐怖が、すべて消えたわけではない。
けれど今、凛が見ているのは元総長と元副総長ではなかった。
少し無口で心配性な先輩と、遠慮なく人をからかう同僚。
凛が自分の意思で誘った、現在の2人だった。
別の小道では、零と柚希が並んで歩いていた。
大勢の観光客が行き交う本道から外れたため、周囲の人影は少ない。
石段の前で、柚希が足を止める。
「思ったより急だね」
「ゆっくり上がれば大丈夫っす」
「バイクに乗ったあとだから、少し脚が変な感じ」
零は先に一段上がると、柚希へ手を差し出した。
「掴まってください」
「転ばないよ」
「転んだら困ります。自分の責任なので」
「ここはバイクの後ろじゃないけど」
「誘ったのは自分ですから」
柚希は差し出された手を見る。
それから、そっと自分の手を重ねた。
零の指が閉じる。
石段を上がるための支えにしては、少しだけ長く手が重なっていた。
上へ着いても、零はすぐには離さない。
柚希も、自分から離そうとはしなかった。
「零ちゃん」
「はい」
「もう段差、終わったよ」
零が我に返り、手を離そうとする。
その前に、柚希の指がわずかに力を込めた。
「このままでいい」
「……いいんですか?」
「人が多いところで、はぐれたら困るでしょ」
「そうですね」
零の耳が赤くなる。
柚希は前を向いたまま、その変化に気づかないふりをした。
今の気持ちが何なのか、自分でもまだ分からない。
安心するから。
転びたくないから。
はぐれたくないから。
理由はいくらでもつけられた。
ただ、零の手を離したくないと思った。
今は、それだけで十分だった。
本道の反対側では、美園と彩花が歩いていた。
「中村さん」
『何?』
「佐藤さんとは、上手くいってるの?」
美園が彩花を見る。
『突然だね』
「昨日の店で見てたら、聞きたくなっただけ」
『陽菜に何か言われた?』
「何も。ただ、2人とも分かりやすかったから」
『そんなに?』
「見てる方が気まずくなるくらい」
美園は困ったように笑った。
『上手くいってるよ』
「本気なの?」
『本気だよ』
返事に迷いはなかった。
『付き合うって決めたし、ちゃんと好き』
「へえ。意外と素直」
『隠して得することでもないから』
「そう」
彩花は美園の横顔を見る。
Roseで初めて会った頃より、表情が柔らかくなったように感じる。
「いい顔してる」
『そう?』
「羨ましいって言ったら、怒る?」
『怒らないよ』
美園は少し前を歩く家族連れを見つめた。
『でも、簡単なことばかりじゃない』
「分かってる」
『私は特にね』
「それでも、進むって決めたんでしょ」
『うん』
「なら、それでいいんじゃない」
美園は彩花を見る。
『彩花さんは?』
「私?」
『誰かに羨ましいと思うくらいなら、自分も見つければいいのに』
「簡単に言わないで」
『簡単じゃないのは知ってるよ』
「私は、今は仕事で負けたくない相手がいるから、それで十分」
『樹里?』
「日高以外に誰がいるの」
即答だった。
美園は声を立てずに笑う。
「何がおかしいの?」
『樹里も、彩花さんには負けたくないと思ってるよ』
「本人が言ったの?」
『言わなくても分かる』
「なら、次は直接言わせる」
『そういうところ、似てるね』
「どこが?」
『負けず嫌いなところ』
「中村さんまで、私と日高を一緒にしないで」
彩花は不満そうに言いながらも、否定する声にはどこか力がなかった。
美園と並んで次の角を曲がる。
少し離れた場所に、他の5人の姿が見えた。
『合流する?』
「そうね。そろそろお腹も空いた」
美園が手を上げる。
それに気づいた陽菜が、大きく手を振り返した。
『美園さーん、彩花さーん。ご飯行こう』
「やっぱり声が大きい」
『あれが陽菜だから』
零と柚希も戻ってくる。
合流する直前、繋いでいた手は自然に離れた。
けれど柚希の手には、零の体温が残っている。
陽菜は全員が揃ったことを確認すると、先頭へ立った。
『何食べる?』
「せっかくですから、この辺りのものがいいです」
凛が答える。
『私は温かいものがいいな』
美園が続く。
「ゆば料理は?」
彩花の提案に、柚希が反応する。
「食べてみたいです」
「自分も何でも大丈夫っす」
『日高先輩は?』
『皆さんに合わせます』
『そう言うと思った』
7人は、近くの店を探して歩き始めた。
写真。
繋いだ手。
交わした本音。
まだ名前のつかない気持ち。
それぞれが違うものを胸に残しながらも、今は同じ場所を歩いている。
かつてバイクは、樹里たちにとって力を示すものだった。
誰より先へ出るためのもの。
敵を振り切り、追い、仲間を率いるためのもの。
けれど今日のバイクは、7人を同じ景色まで連れてきた。
速さを競う者はいない。
誰かを置いていく者もいない。
目的地へ着いたあとも、旅は続いている。
今度は、自分たちの足で。
凛は少し前を歩く6人を見つめた。
そして、忘れないうちにその背中をスマートフォンで撮った。
帰ったら、青柳に見せるために。




