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124話「雨上がりの日常」

樹里と神谷が会社へ到着したのは、始業時刻を過ぎてからだった。


 病院で診察を受け、昨夜の物件に立ち寄って車を回収してから出社したため、すでに午前の業務は半分近く終わっている。


 神谷の腕には、新しい包帯が巻かれていた。


 営業部へ入った瞬間、複数の視線がそこへ集まる。


「神谷さん、その腕どうしたんですか?」


 最初に声を上げたのは柚希だった。


「昨日、物件の確認中に少し怪我をしました」


「少しって、包帯を巻いてるじゃないですか」


「傷は浅いそうです。仕事にも支障はありません」


「病院には行ったんですよね?」


「はい。今、日高さんに連れていってもらいました」


 その言葉に、今度は視線が樹里へ向く。


『何ですか』


「いや、別に」


 柚希はそう答えながらも、樹里と神谷を交互に見た。


 2人が同じ時間に出社し、神谷は怪我をしている。


 何かあったことは分かるが、どこまで尋ねていいのか判断できないらしい。


「神谷」


 黒澤が自席から呼ぶ。


「診断は?」


「軽い切り傷です。ガラス片も残っていないので、消毒を続ければ問題ないそうです」


「そうか。報告書は午後でいい。午前中は外へ出るな」


「分かりました」


「日高さんもだ」


『私は怪我をしていません』


「顔に疲れが出てる」


『業務に支障はありません』


「そういうところは、2人とも似なくていい」


 黒澤は呆れたように息を吐いた。


「昨日は、原因を確認した時点で十分だった。警察と消防への連絡も適切だ。だが、結果的に怪我人が出たことは軽く考えるな」


「すみません」


『申し訳ありません』


「謝罪が欲しいわけじゃない。次に同じことが起きたとき、誰も怪我をしないために報告書を書くんだ。神谷が日高さんを庇ったことも含め、状況は全部残せ」


「はい」


『分かりました』


「それと、昨日の残業扱いと今日の遅刻は、こっちで処理しておく。余計な心配はするな」


 黒澤はそれだけ言うと、手元の書類へ視線を戻した。


 神谷が自席へ向かう。


 樹里も鞄を置き、パソコンを立ち上げた。


 その横へ、彩花が近づいてくる。


「日高」


『何』


「寝てないでしょ」


『寝た』


「何時間?」


『業務には関係ない』


「その顔で誤魔化せると思わないで」


 彩花は樹里の目元を見たあと、机の上にある書類を数枚取った。


『何をしてるの』


「午前中に処理しないといけない分は、私がやる」


『必要ない』


「倒れられたら迷惑なの」


『倒れない』


「昨日、神谷さんに庇われておいて、よく言えるわね」


 樹里の目が、わずかに細くなる。


『報告が早い』


「部長から聞いた。言っておくけど、あんたに借りを作るつもりはないから」


『頼んでいない』


「私が勝手にやる。あんたも、いつもそうでしょ」


 彩花はそれ以上反論させず、書類を持って自席へ戻った。


 樹里はその背中を見つめる。


 素直に感謝を口にすれば、彩花はかえって不機嫌になるだろう。


『……彩花』


「何」


『間違えないで』


「誰に言ってるのよ」


 彩花は振り返らなかった。


 けれど、その声はどこか満足そうだった。


 昼休み。


 樹里が給湯室へ入ると、すぐ後ろから陽菜もついてきた。


 扉が閉まったことを確認し、樹里の隣へ並ぶ。


『日高先輩』


『何ですか』


『昨日、本当に同じベッドで寝ただけ?』


『会社でする話ではありません』


『じゃあ、仕事が終わってから聞けばいい?』


『聞かないでください』


『どうして?』


『何もないからです』


『キスも?』


『していません』


『抱きしめたりは?』


 樹里は答えなかった。


 陽菜の目が大きくなる。


『したんだ』


『声が大きい』


『どっちから?』


『櫻井さん』


『日高先輩から?』


『違います』


『じゃあ、神谷さんから?』


『そういう話ではありません』


 樹里はコーヒーを淹れながら、陽菜へ背を向けた。


 陽菜は諦めず、その横顔を覗き込む。


『どんな話?』


『……悪い夢を見ました』


 陽菜の表情が変わった。


 からかうような笑みが、静かに消える。


『一ノ宮?』


 樹里は答えなかった。


 だが、その沈黙だけで十分だった。


『神谷さんに、話したの?』


『話していません』


『聞かれなかった?』


『何も』


 樹里はカップへ湯を注ぐ。


 立ち上る湯気の向こうで、昨夜の神谷の言葉を思い出した。


 分からないまま傍にいることはできる。


『ただ、いてくれました』


 陽菜は、しばらく何も言わなかった。


『そっか』


『はい』


『よかったじゃん』


 樹里が陽菜を見る。


 陽菜は柔らかく笑っていた。


『何が』


『怖いときに、傍にいてほしいと思える人ができたこと』


『私は、混乱していただけです』


『はいはい』


『その返事は何ですか』


『別に。日高先輩が少しずつ可愛くなっていくなと思って』


『戻ります』


『待って。まだキスしたかしか聞いてない』


『聞いたでしょう』


『その先は?』


『ありません』


『じゃあ、抱きしめられたまま寝ただけ?』


『櫻井さん』


『健全すぎない? 同じベッドだよ?』


 樹里は陽菜を残し、給湯室を出た。


 廊下へ出たところで、中井と顔を合わせる。


「陽菜さんは中ですか?」


『はい。少し黙らせておいてください』


「何を話していたんですか?」


『私からは言えません』


「そうですか」


 中井が給湯室へ入る。


 直後、中から陽菜の声が聞こえた。


『中井くんは、あたしと同じベッドで何もしない自信ある?』


「な、何の話ですか!?」


 樹里は足を止めなかった。


 給湯室の扉が閉まっていることだけが救いだった。


 午後になると、営業部はいつもの慌ただしさを取り戻した。


 神谷は片手で報告書を作り、樹里が写真と現場情報を補足していく。


 並んで画面を確認していても、昨夜のことには触れない。


「ここは、消防が到着した時刻も入れた方がいいですね」


『17時42分です』


「よく覚えていますね」


『記録しています』


「さすがです」


『神谷さんは、業者との通話内容をお願いします』


「分かりました」


 会話は仕事のものだけだった。


 けれど神谷が書類へ手を伸ばそうとすると、樹里が先に取る。


 腕を動かしかければ、黙って視線を向ける。


 神谷も無理をしようとはせず、素直に任せていた。


 少し離れた席から、陽菜がその様子を見ている。


「陽菜さん、何か面白いものでもあるんですか?」


 中井が尋ねる。


『うん。あるよ』


「何ですか?」


『教えない』


「気になります」


『神谷さん、やるなあって思ってるだけ』


「仕事の話ですか?」


『どうだろうね』


 陽菜は頬杖をつき、楽しそうに2人を眺めていた。


 終業後。


 樹里と陽菜はRoseへ向かった。


 昨夜の雨が嘘のように、空は晴れている。


 道の端にはまだ小さな水溜まりが残り、街灯の光を映していた。


 Roseの扉を開けると、美園がカウンターの中に立っている。


『いらっしゃい』


『美園さん、昨日大丈夫だった?』


『うん。店に泊まったから』


 陽菜はカウンター席へ座った。


 樹里も隣に腰を下ろす。


『1人で?』


 陽菜の問いに、美園の動きが一瞬止まった。


『どうして?』


『いや、1人だったのかなって』


『……佐藤くんもいたよ』


『へえ』


 陽菜の目が細くなる。


 美園はグラスを取り出し、2人へ水を注いだ。


『何、その顔』


『別に』


『何か言いたそうだけど』


『何も』


 陽菜は差し出された水を一口飲んだ。


 美園の顔を見る。


 次に、その立ち方へ目を向ける。


 もう一度、顔へ戻る。


『美園さん』


『何?』


『したの?』


『何を』


『セックス』


 美園の手から、危うくボトルが滑り落ちかけた。


 樹里が眉間へ指を当てる。


『櫻井さん。店内で何を言っているんですか』


『だって気になるじゃん』


『声が大きい』


 美園が周囲を見る。


 幸い、まだ他に客はいなかった。


『で、したの?』


『陽菜』


『その反応はしたね』


『何も言ってないでしょ』


『否定もしないじゃん』


 陽菜が身を乗り出す。


『どうだった?』


『追い出すよ』


『初めてなのに店で?』


『陽菜』


『美園さん、意外と悪い子だね』


『……どうしてそこまで分かるの』


 美園が言ってから、口を閉じる。


 陽菜の目が一段と輝いた。


『やっぱりしたんだ』


『今のは忘れて』


『無理』


『総長、何とか言って』


 美園が樹里へ助けを求める。


 樹里は静かに水を飲んだ。


『櫻井さん。美園が困っています』


『総長だって気になるでしょ?』


『個人的なことです』


『気にならないの?』


 樹里は美園を見る。


 美園も、樹里の答えを待っている。


『……佐藤さんが無理をさせていないかは、気になります』


『総長まで』


『そういう意味ではない』


 美園は額を押さえた。


 陽菜は堪えきれずに笑っている。


『ごめん、ごめん』


『全然そう思ってないでしょ』


『うん』


『認めるんだ』


 陽菜は笑いを収め、美園の顔を改めて見た。


『でも、よかったね』


 声から、からかう色が消えていた。


 美園は少しだけ目を伏せる。


『……うん』


『幸せだった?』


『それ以上は言わない』


『じゃあ、幸せだったんだ』


『陽菜』


『だって美園さん、今、すごく優しい顔してるから』


 美園は何も言い返せなかった。


 視線を逸らし、グラスを拭き始める。


 その耳が赤くなっている。


 樹里はそんな美園を見つめ、ほんのわずかに口元を緩めた。


 店の扉が開く。


「こんばんは」


 佐藤だった。


 美園の手が止まる。


『いらっしゃい』


「昨日は、ありがとうございました」


『その話は今しないで』


 佐藤が不思議そうな顔をする。


 陽菜が振り返り、満面の笑みを向けた。


『佐藤くん、おはよう』


「こんばんはですよね?」


『昨日は眠れた?』


「え?」


『陽菜』


 美園の低い声が飛ぶ。


 佐藤は陽菜と美園を交互に見た。


 やがて何かを察し、顔を赤くする。


「もしかして、話したんですか?」


『話してない。勝手に見抜かれたの』


『美園さん、分かりやすいもん』


『誰のせいで分かりやすくなってると思ってるの』


「すみません」


『佐藤くんは謝らなくていい』


『あたしも悪くないよ』


『陽菜は黙ってて』


 Roseに笑い声が広がった。


 昨夜の雨は、もう遠い。


 怖い夢も、帰れなかった夜も、朝になれば日常の中へ溶けていく。


 それでも、何も変わらなかったわけではない。


 樹里は以前より少しだけ、神谷を頼れるようになった。


 美園は以前より少しだけ、佐藤の前で無防備になった。


 変化はまだ、本人たちにしか分からないほど小さい。


 けれど確かに、昨日までとは違っていた。


 翌朝。


 樹里が出社すると、陽菜はすでに自分の席にいた。


『おはようございます、日高先輩』


『おはようございます』


『昨日、神谷さんとLINEした?』


『していません』


『なんで?』


『業務上の用件がないからです』


『寝る前に、おやすみなさいくらい送ればいいじゃん』


『送りません』


『せっかく同じベッドで寝たのに』


『会社でその話をしないでください』


 陽菜は不満そうに唇を尖らせた。


 そのとき、凛が2人の席へ近づいてきた。


「日高先輩、陽菜さん。少しいいですか?」


『はい』


『どうしたの、凛ちゃん』


 凛は周囲を見た。


 まだ出社している社員は少ない。


 それでも、声をわずかに落とす。


「今度の休み、お二人は空いていますか?」


『私は空いています』


『あたしも。中井くんと会う予定もないよ』


「そうなんですね」


『もしかして、どこか行きたいの?』


「はい」


 凛は一度、言葉を選んだ。


「よければ、3人でツーリングに行きませんか?」


 陽菜の表情が明るくなる。


『行く』


「まだ行き先も言っていませんけど」


『凛ちゃんから誘ってくれたんでしょ。行くよ』


 凛が小さく笑う。


 樹里はすぐには答えなかった。


 凛が自分たちの過去を知ったのは、つい最近のことだった。


 Rose girlsの総長と副総長。


 今まで見せていなかった自分たちの一面を知り、凛は怖いと正直に口にした。


 それでも、Roseへ戻ってきた。


 今度は、自分から同じ道を走ろうとしている。


『遠藤さん』


「はい」


『私たちで、いいんですか』


 凛は樹里の問いの意味を理解した。


「お二人がいいんです」


 迷いのない答えだった。


「聞いたことを、私がすべて受け止められているとは思っていません」


 陽菜の笑顔が、少しだけ静かになる。


「まだ分からないこともあります。驚いたことも、怖いと思ったことも、なくなったわけではありません」


 凛は2人を真っ直ぐに見る。


「でも、だからといって、お二人から離れたいとは思いませんでした」


『凛ちゃん』


「昔のお二人ではなく、今、私が知っている日高先輩と陽菜さんと走りたいんです」


 凛は少し照れくさそうに視線を落とした。


「同じ道を走れば、今までより少しだけ、お二人のことを知れる気がするので」


 陽菜が立ち上がる。


 凛の両手を取り、強く握った。


『絶対行こう』


「はい」


『雨でも行く』


「雨なら中止です」


『小雨なら?』


「中止です」


『曇りなら?』


「路面を確認して決めます」


『凛ちゃん、真面目すぎない?』


「陽菜さんが無計画すぎるんです」


 凛は呆れたように言いながらも、手を振りほどかなかった。


 陽菜の顔には、隠しきれない喜びが浮かんでいる。


『日高先輩は?』


 凛が樹里を見る。


 樹里は、静かにうなずいた。


『行きます』


「本当ですか?」


『遠藤さんから誘っていただいたのに、断る理由はありません』


『やった。久しぶりに日高先輩と走れる』


『会社ではしゃがないでください』


『まだほとんど誰もいないからいいじゃん』


「陽菜さん。日高先輩が困っています」


『凛ちゃん、もう日高先輩の味方?』


「危険運転をしない方の味方です」


『じゃあ、あたしの味方じゃないじゃん』


「安全に走ってくだされば、味方になります」


『分かった。凛ちゃんの前では大人しく走る』


『遠藤さんの前以外でも、そうしてください』


『日高先輩まで』


 凛が笑う。


 樹里の口元にも、かすかな笑みが浮かんだ。


 凛の誘いは、過去を許したという宣言ではない。


 すべてを理解したという意味でもない。


 それでも、怖さを抱えたまま、自分から一歩近づいてくれた。


 かつて何のために走っていたのかを、凛は知らない。


 樹里も陽菜も、まだ語っていないことがある。


 けれど次の休日、3人は同じ道を走る。


 過去を再現するためではない。


 今の3人で、新しい景色を見るために。

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