123話「朝になっても」
目を覚ましたとき、雨はまだ降っていた。
昨夜ほど激しくはない。
窓を細かく叩く音が、静かな部屋に続いている。
樹里は薄く目を開けた。
最初に見えたのは、見慣れた天井だった。
次に感じたのは、自分の身体へ回された腕。
樹里の呼吸が止まる。
顔を横へ向けると、神谷が眠っていた。
昨夜のことが、一気に蘇る。
悪夢を見たこと。
廊下にいた神谷を、自分から寝室へ招いたこと。
傍にいてほしいと頼み、その服を掴んだまま眠ったこと。
神谷は約束どおり、掛け布団の上にいる。
服も着たままだった。
怪我をしていない方の腕だけが、布団越しに樹里の身体へ回されている。
何もされていない。
それでも、こんなに近い場所で男性の寝顔を見るのは初めてだった。
樹里は神谷の腕から抜けようと、ゆっくり身体を動かした。
「……日高さん」
神谷の目が開く。
樹里の動きが止まった。
『起こしましたか』
「いえ。おはようございます」
『……おはようございます』
朝の挨拶を交わすには、互いの顔が近すぎる。
神谷もそれに気づいたのか、慌てて腕を解いた。
「すみません」
『謝らないでください。私が頼んだことです』
樹里は上半身を起こした。
乱れた髪を手で整えながら、神谷から目を逸らす。
『腕はどうですか』
「痛みはありません」
『見せてください』
「起きてすぐですか?」
『傷は待ってくれません』
「はい」
神谷も身体を起こし、包帯を巻かれた腕を差し出した。
樹里はそこへ触れかけて、手を止める。
『ここではなく、リビングで確認します』
「そうですね」
神谷はベッドから降りた。
それから、昨夜使うはずだった毛布と枕がソファへ置かれたままになっていることを思い出す。
「結局、ソファは一度も使いませんでしたね」
『最初は使っていたでしょう』
「ほんの少しだけです」
『……昨夜のことは、忘れてください』
寝室を出ようとしていた神谷の足が止まる。
「それはできません」
樹里が振り返る。
『できないとは』
「日高さんが怖がっていたことを、誰かに話すつもりはありません」
神谷は樹里の目を見て答えた。
「ですが、頼ってもらえたことまで、なかったことにはしたくありません」
『私は、ただ混乱していただけです』
「それでも構いません」
『忘れた方が、神谷さんも困らないでしょう』
「僕は困っていません」
神谷の返事に迷いはなかった。
「日高さんは、困っていますか?」
樹里は答えなかった。
嫌だったのなら、寝室へ招くことはなかった。
朝まで掴んでいた袖を、自分から離せなかったはずもない。
『……包帯を替えます』
「はい」
樹里は問いから逃げるように、リビングへ向かった。
神谷はそれ以上、答えを求めなかった。
ソファへ座った神谷の包帯を外す。
傷口に腫れはなく、血も止まっていた。
『悪化はしていませんね』
「日高さんの手当てがよかったんですね」
『念のため、病院には行ってください』
「今日は仕事があります」
『病院へ行ってからです』
「ですが、昨日の報告が――」
『私がまとめます』
「日高さんも寝不足ではありませんか?」
樹里の手が止まる。
「途中までは、あまり眠れていませんよね」
『誰のせいですか』
「僕ですか?」
『そういうことにしておきます』
「理不尽ですね」
神谷は笑った。
昨夜の出来事を特別なものとして問い詰めない。
かといって、何もなかったように遠ざかるわけでもない。
その距離が、今の樹里にはありがたかった。
『朝食は食べられますか』
「作っていただけるんですか?」
『簡単なものだけです』
「お願いします」
『怪我人でなければ作りませんからね』
「では、もう少し治らないでほしいですね」
『治してください』
樹里が冷蔵庫を開ける。
神谷はその背中を見ながら、穏やかに目を細めた。
その頃、Roseでは佐藤が先に目を覚ましていた。
腕の中には、美園がいる。
1枚の毛布に包まれ、佐藤の胸へ頬を寄せたまま眠っていた。
昨夜までとは違う距離に、佐藤はほとんど身動きが取れなかった。
腕が痺れている。
それでも、起こしたくなかった。
やがて美園の睫毛が揺れた。
薄く目を開け、佐藤の顔を見る。
『……おはよう』
「おはようございます」
美園は何度か瞬きをした。
佐藤の顔を見てから、自分たちを包む毛布へ視線を落とす。
昨夜のことを思い出したのだろう。
毛布を引き上げ、顔の半分を隠した。
「美園さん?」
『見ないで』
「すみません」
佐藤は慌てて天井を向いた。
『本当に逸らすんだ』
「見ないでと言われたので」
『少しくらい困ってよ』
「どうすれば正解なんですか?」
『知らない』
毛布の向こうから、美園のくぐもった声が聞こえる。
佐藤はしばらく天井を見つめたあと、慎重に尋ねた。
「身体は、大丈夫ですか?」
『朝一番に聞くことがそれなの?』
「心配なので」
『少しだけ違和感はあるけど、大丈夫』
「本当に?」
『嘘をつかないって約束したでしょ』
「そうでした」
『それより、腕』
「腕?」
『ずっと腕枕してたでしょ。痺れてない?』
「大丈夫です」
『指、動かしてみて』
佐藤が指を動かそうとする。
うまく力が入らず、ぎこちない動きになった。
美園が毛布から顔を出す。
『全然大丈夫じゃないじゃん』
「すぐに治ります」
『無理して格好つけるから』
美園は佐藤の腕から頭を下ろし、その腕を両手で優しく揉んだ。
「美園さん」
『何?』
「今、すごく幸せです」
美園の手が止まる。
『朝から恥ずかしいこと言わないで』
「昨夜、好きと言ってほしいと言われたので」
『あれは昨夜の話』
「朝になったら、言ってはいけないんですか?」
美園は答えず、佐藤の腕を揉む。
顔は俯いているが、耳が赤くなっていた。
「美園さん」
『何』
「朝になっても、いました」
美園が顔を上げる。
昨夜、自分から尋ねた。
明日の朝になっても、ちゃんといるのかと。
『……そうだね』
「約束しましたから」
『そんなに真面目に答えなくてもいいのに』
「僕にとっては、大事な約束です」
『そっか』
美園は佐藤の胸へ、もう一度頬を寄せた。
『じゃあ、もう少しだけ』
「はい」
『もう少しだけ、このままでいて』
「はい」
佐藤の腕が、美園の背中へ回る。
昨夜とは違い、もう触れる許可を尋ねなかった。
美園も、それを咎めない。
外の雨音を聞きながら、2人は再び目を閉じた。
眠るためではない。
初めて迎えた朝を、もう少しだけ2人きりで過ごすためだった。
樹里の部屋では、トーストの焼ける匂いが広がっていた。
樹里が目玉焼きとサラダをテーブルへ並べる。
「朝から、きちんと作るんですね」
『簡単なものだけだと言ったでしょう』
「僕が1人なら、コーヒーだけで済ませています」
『だから倒れるんです』
「まだ倒れたことはありません」
『倒れてからでは遅いです』
樹里は向かい側へ座った。
神谷が箸を持とうとして、再び怪我をした腕を動かす。
『反対の手で食べてください』
「目玉焼きなら何とかなります」
『無理をする必要はありません』
「昨日のうどんよりは簡単です」
『当然です』
神谷が不慣れな手で食事を始める。
樹里もコーヒーカップへ手を伸ばした。
そのとき、テーブルに置かれたスマートフォンが震えた。
画面には、陽菜の名前が表示されている。
樹里は数秒迷ってから、電話に出た。
『もしもし』
『おはようございます、日高先輩』
陽菜の声は、朝から妙に明るい。
『おはようございます』
『神谷さん、まだいます?』
『います』
『どこに?』
『目の前にいます』
『朝ご飯、一緒に食べてるの?』
『そうです』
『へえ』
電話の向こうで、陽菜が楽しそうに笑う。
『何ですか』
『別に。何もなかったのかなって』
『ありません』
樹里は即答した。
神谷の箸が止まる。
『まだ何も聞いてないけど』
『今、聞いたでしょう』
『あたしは、神谷さんの腕は大丈夫かなって聞こうとしただけ』
『……傷は悪化していません。これから病院へ連れていきます』
『ふうん。朝まで同じ部屋にいて、本当にそれだけ?』
『櫻井さん』
『同じベッドで寝たりしてない?』
樹里の手が止まる。
返事をしない樹里に、陽菜も黙った。
数秒後、陽菜の声が弾ける。
『えっ、本当に同じベッドで寝たの!?』
『声が大きい』
『何もしてないのに!?』
『何もしていません』
『神谷さん、紳士すぎない?』
『切ります』
『待って。なんで同じベッド――』
樹里は通話を切った。
スマートフォンを伏せて置く。
向かい側では、神谷が視線を皿へ落としていた。
『聞こえましたか』
「どの部分でしょうか」
『聞こえたんですね』
「すみません」
『神谷さんが謝ることではありません』
樹里はコーヒーを飲む。
いつもより、少しだけ苦く感じた。
「櫻井さんには、随分心配されているんですね」
『半分は面白がっているだけです』
「残りの半分は?」
『……心配しているのだと思います』
「いい後輩ですね」
『そうですね』
樹里は素直に認めた。
神谷が少し驚いたような顔をする。
『何ですか』
「いえ。日高さんが、今の言葉を否定しなかったので」
『私を何だと思っているんですか』
「櫻井さんのことを、大切にしている人だと思っています」
樹里は神谷を見た。
神谷はそれ以上、何も言わずに朝食へ戻る。
樹里も問い返さなかった。
やがてRoseでは、美園が起き上がった。
『そろそろ着替えないと』
「もう少し、このままでは駄目ですか?」
『さっきまで私が言ってたのに、今度は佐藤くん?』
「美園さんの気持ちが分かりました」
『店を開ける準備があるの』
「今日は休んでもいいのでは?」
『昨日も休んでるんだよ』
「ですが、あまり眠っていませんよね」
『誰のせい?』
佐藤の顔が真っ赤になる。
「……すみません」
『冗談だよ』
美園は毛布を身体へ巻いたまま、佐藤の頬へ触れた。
『2人のせいでしょ』
唇へ、短く口づける。
佐藤は驚いた顔のまま、美園を見つめた。
『そんな顔してないで、着替えて』
「はい」
『あと、ここであったことは内緒だからね』
「分かりました」
『陽菜にも、樹里にも』
「分かりました」
『特に陽菜。絶対面白がるから』
「そうですね」
佐藤が同意したことで、美園は眉を寄せる。
『佐藤くんまで、陽菜の扱いが分かってきたね』
「少しだけです」
美園は立ち上がり、昨夜脱いだ服へ手を伸ばした。
その動きが、わずかにぎこちない。
佐藤が心配そうに腰を上げる。
『見ないで』
「ですが」
『大丈夫。着替えたら呼ぶから、向こうに行ってて』
「はい」
佐藤は言われたとおり、バックヤードを出ていった。
扉が閉まる。
1人になった美園は、胸元へ手を置いた。
昨夜の体温が、まだそこに残っているような気がした。
鏡へ映る自分の顔を見る。
目元には寝不足が出ている。
髪も乱れていた。
それなのに、不思議と嫌いではなかった。
『……悪い顔してる』
自分へ向けて呟き、小さく笑った。
樹里と神谷は、朝食を終えると部屋を出た。
雨は小降りになり、鉄道も順次運転を再開している。
神谷が助手席へ乗り、樹里が運転席へ座る。
「僕の車なのに、日高さんが運転するんですね」
『病院へ着くまで我慢してください』
「日高さんの運転は信用しています」
『なら、問題ありません』
「昨夜は、ありがとうございました」
樹里がエンジンをかける。
『こちらこそ』
「日高さんに、お礼を言われるようなことはしていません」
『……いてくれました』
神谷が樹里を見る。
樹里は前を向いたまま、シートベルトを締めた。
『それで十分です』
「はい」
神谷も、それ以上の言葉を重ねなかった。
同じ朝。
佐藤は店先に立ち、美園が臨時休業の札を外すのを待っていた。
「昨夜は、ありがとうございました」
『それ、私が言う方じゃない?』
「僕も言いたかったので」
『そっか』
美園は札を手にしたまま、佐藤を見る。
『佐藤くん』
「はい」
『朝になってもいてくれて、ありがとう』
「これからもいます」
『そこまで聞いてないよ』
「言いたかったので」
美園は少し困ったように笑った。
『じゃあ、またあとで』
「はい。またあとで」
佐藤が店を出る。
数歩進んだところで振り返ると、美園はまだ入口に立っていた。
佐藤が手を上げる。
美園も小さく手を振り返した。
雨は、もうほとんど止んでいる。
同じ夜を越えた2組は、それぞれ違う朝を迎えた。
けれど、美園も樹里も知った。
朝になっても、傍にいる人がいる。
昨夜だけで終わらない温度が、この世界には確かにあるのだと。




