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122話「雨音に隠して」

客のいないRoseに、雨音だけが響いていた。


 美園と佐藤は、ソファに並んで座っている。


 互いの指を絡めたまま、どちらも次の言葉を探していた。


 いつもなら、美園はいくらでも会話を続けられる。


 客が何を求めているのかを読み取り、相手が心地よく話せる言葉を選ぶ。


 沈黙さえも、自分の望む形に変えられる。


 だが今は、隣にいる佐藤が何を考えているのか、分からなかった。


 いや。


 本当は、分かっている。


 分かっているからこそ、次の言葉を選べずにいた。


『佐藤くん』


「はい」


『手、震えてるよ』


「すみません」


『謝ることじゃないでしょ』


「緊張しているので」


『私と手を繋ぐだけで?』


「美園さんは、緊張しないんですか?」


『どう見える?』


「余裕があるように見えます」


『なら、そういうことにしておいて』


 美園は微笑んだ。


 佐藤の目には、いつもと変わらない笑顔に映ったかもしれない。


 けれど、重ねた指先から伝わる鼓動までは隠せなかった。


「美園さんの手も、少し震えています」


『……気のせいだよ』


「そういうことにしておきます」


『言うようになったね』


「美園さんの恋人ですから」


『それ、便利な言葉だと思ってない?』


「大切な言葉だと思っています」


 佐藤は、繋いだ手へ少しだけ力を込めた。


「今も、時々信じられないんです」


『何が?』


「美園さんが、僕を選んでくれたことです」


 美園の笑みが、わずかに薄くなる。


『選ばれたくなかった?』


「反対です。嬉しすぎて、いつか夢だったと気づくんじゃないかと不安になります」


『大袈裟』


「僕にとっては、大袈裟ではありません」


 佐藤の言葉は、どこまでも真っ直ぐだった。


 美園を美しく飾るわけでもない。


 過去も傷も、すべて理解しているふりをするわけでもない。


 ただ、今ここにいる美園を見ている。


 その視線から逃げるように、美園は佐藤の肩へ頭を預けた。


 佐藤の身体が固まる。


『動かないで』


「はい」


『重くない?』


「全く」


『即答すると、嘘っぽいよ』


「では、少しだけ」


『重いんだ』


「違います。今のは、美園さんが――」


『冗談』


 慌てる佐藤を見て、美園が小さく笑う。


 そのまま目を閉じると、佐藤の体温が頬へ伝わってきた。


 誰かへ体重を預けることに、慣れていない。


 自分が支える側にいる方が、ずっと楽だった。


 けれど今夜は、少しくらい寄りかかってもいいような気がした。


「美園さん」


『何?』


「抱きしめてもいいですか?」


 美園は目を閉じたまま答える。


『聞かないとできない?』


「大切なことなので、聞きたいです」


『……いいよ』


 佐藤の腕が、美園の身体へゆっくりと回る。


 壊れやすいものを扱うような、不器用で慎重な抱き方だった。


 美園は、その胸元へ頬を寄せた。


 耳を澄まさなくても、佐藤の鼓動が聞こえる。


 自分と同じくらい、速かった。


『緊張しすぎ』


「仕方ないです」


『これまでだって、抱きしめたことはあるでしょ』


「今夜は、いつもと違う気がするので」


 佐藤にも分かっている。


 帰るための電車は止まり、店の外では激しい雨が降っている。


 このまま朝まで、2人きり。


 けれど、天候を言い訳にはしたくなかった。


 偶然帰れなくなったから、仕方なく一緒にいるのではない。


 この場所に残ることを、自分たちで選んでいる。


 美園が顔を上げた。


 視線が重なる。


 佐藤の腕に、わずかに力が入った。


「キスしてもいいですか?」


『それも聞くんだ』


「嫌ですか?」


『嫌なら、こんなに近くにいないよ』


 美園から顔を寄せた。


 唇が、静かに重なる。


 一度離れたあと、佐藤が美園の表情を確かめる。


 拒まれていないと分かると、もう一度唇を重ねた。


 今度は、先ほどより長く。


 美園の指が、佐藤の服を掴む。


 抱きしめる腕にも、先ほどまでの遠慮はなかった。


 それでも佐藤は、美園の背中へ回した手を、それ以上動かそうとはしない。


 唇が離れる。


 近すぎる距離で、2人の呼吸が重なった。


『真面目だね』


「何がですか?」


『手』


 佐藤の肩が、わずかに動く。


『そこから少しも動かない』


「勝手に触れたくないので」


『私がいいと言ったら?』


「……触れたいです」


 正直な答えだった。


 美園は佐藤の手を取り、自分の頬へ触れさせた。


 強張っていた指が、恐る恐る肌を撫でる。


 頬から耳元へ。


 そこから首筋へ下りかけて、また止まった。


『また止まった』


「美園さんが、嫌がっていないかと思って」


『嫌なら言うよ』


「言えますか?」


『私を誰だと思ってるの?』


「何でも1人で我慢しようとする人です」


 美園の目が、わずかに見開かれる。


「だから、言ってください。嫌なことも、怖いことも」


『……本当に、言うようになったね』


「美園さんの恋人ですから」


『またそれ』


 呆れたように笑いながら、美園は佐藤の手へ自分の手を重ねた。


『嫌じゃないよ』


「はい」


『怖くないわけでもないけど』


 佐藤の手が止まる。


「なら、ここで止めます」


『最後まで聞いて』


「すみません」


『怖いけど、離れてほしいとは思ってない』


 美園は佐藤の胸へ額を預けた。


『今は、それでいい?』


「はい」


 佐藤の腕が、もう一度美園を抱きしめる。


 今度は、最初よりも深く。


 美園の身体が、その腕の中へ収まった。


 雨音が、店の外でさらに強くなる。


 誰もいない店内で、2人の呼吸だけが近づいていった。


 唇を重ねるたびに、触れる場所が少しずつ増えていく。


 頬へ。


 額へ。


 首元へ。


 佐藤が触れるたび、美園は逃げずに受け入れた。


 やがて佐藤が、苦しそうに顔を離した。


「美園さん」


『何?』


「これ以上は……止まれなくなるかもしれません」


 その言葉を口にすることさえ、佐藤には勇気が必要だった。


 美園は、佐藤の目を見つめる。


 欲望だけで自分を見ている目ではない。


 傷つけることを恐れ、今も答えを待っている。


『止まりたい?』


「……分かりません」


『正直だね』


「美園さんが嫌なら、止まります」


『私が決めるの?』


「2人で決めたいです」


 美園は、繋がれたままの手を見る。


 未来のことを考えれば、怖くないはずがない。


 この人の人生へ深く踏み込むほど、自分の身体のことを話さなければならない日は近づいてくる。


 そのとき、同じ目で見てもらえる保証はない。


 けれど、その不安を理由に、佐藤の気持ちまで勝手に決めることはもうしたくなかった。


 美園は立ち上がった。


 佐藤の手は離さない。


『奥に行こうか』


「……いいんですか?」


『今さら聞くの?』


 美園は佐藤をバックヤードへ連れていく。


 そこには、小さなソファと簡易的な寝具が置かれていた。


 遅い時間まで店に残ることがあるため、休める程度のものは揃えてある。


 佐藤は入口で足を止めた。


 美園が振り返る。


『どうしたの?』


「本当に、ここでいいんですか」


 美園は佐藤へ歩み寄り、その胸元に指を置いた。


『ここは、店だよ? 初めてなのに、お店でしちゃうの? 悪い子だね』


 佐藤の耳が、熱い。


「……ごめんなさい。でも、帰りたくないです」


『私も。悪い子は、一人じゃないみたい』


 美園は、佐藤の胸元を掴んだまま引き寄せた。


 再び、唇が重なる。


 今度はどちらからともなく、互いを求めた。


 佐藤の手が美園の腰へ触れる。


 美園はその腕へ手を添えたが、拒むことはしなかった。


 代わりに、自分から佐藤との距離をなくした。


「美園さん」


『今は、名前だけ呼ばないで』


「すみません」


『謝るのも禁止』


「では、何を言えばいいですか?」


『好きって言って』


「好きです」


 迷いのない言葉だった。


「美園さんが好きです」


『……うん』


「もう一度、言いましょうか?」


『調子に乗らないの』


 そう言いながら、美園は佐藤の首へ腕を回した。


 今まで誰かに向けてきた、余裕のある笑顔は消えていた。


 代わりに浮かんでいたのは、1人の女性としての戸惑いだった。


 佐藤は初めて見るその表情から、目を逸らせない。


『あまり見ないで』


「綺麗なので」


『そういうことを言われると、余計に恥ずかしい』


「美園さんも、恥ずかしがるんですね」


『帰ってもらおうかな』


「すみません」


『謝るのは禁止って言ったばかりでしょ』


 佐藤は言葉に詰まり、それから小さく笑った。


 美園もつられるように笑う。


 張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ解けた。


 佐藤はバックヤードの照明へ手を伸ばした。


「消しますか?」


『消さないで』


 意外な答えに、佐藤の手が止まる。


 美園は視線を逸らしながら続けた。


『暗いところで、見えないふりをされる方が嫌』


「見えないふりはしません」


『なら、少しだけ暗くして』


「はい」


 佐藤は照明を落とし、入口近くの小さな灯りだけを残した。


 薄明かりの中で、美園はもう一度佐藤へ向き直る。


 服へ掛けられた佐藤の指が止まる。


 美園はその手を取り、自分から導いた。


『大丈夫』


「無理をしていませんか?」


『してない』


「怖かったら、いつでも言ってください」


『佐藤くんもね』


「僕もですか?」


『初めてなのは、私だけじゃないでしょ』


「はい」


『私ばかり気遣って、自分のことを忘れないで』


 佐藤は、少し困ったように笑った。


「そこまで余裕がないかもしれません」


『私もないよ』


 その告白に、佐藤の目が柔らかくなる。


 美園は、服の下に隠していた肌を少しずつ晒していった。


 客の前で見せるために選んだ衣装ではない。


 誰かを魅了するために作った仕草でもない。


 佐藤だけに見られることを意識するたび、指先が震えた。


 佐藤は急かさなかった。


 自分も同じように、少しずつ飾りを取り払っていく。


 互いの体温が直接触れた瞬間、美園の身体が小さく強張った。


「寒いですか?」


『違う』


「では――」


『緊張してるの』


 佐藤の腕が、美園を包む。


 肌の温度が重なる。


 恥ずかしさも、恐れも、抱きしめられたからといって消えるわけではない。


 それでも、美園はもう離れたいとは思わなかった。


『佐藤くん』


「はい」


『優しくして』


「はい」


『それは、普通に返事するんだ』


「今は、冗談を言えません」


『顔を見れば分かる』


 美園は佐藤の頬へ触れた。


 そのまま引き寄せ、唇を重ねる。


 触れ方は、先ほどまでよりも深くなっていった。


 佐藤は何度も美園の名前を呼ぶ。


 そのたび、美園は短く返事をした。


 自分がここにいることを伝えるように。


 佐藤の手が触れるたび、美園の呼吸が変わる。


 驚いて身を固くすれば、佐藤はすぐに止まった。


『止まらなくていいよ』


「でも」


『嫌なときは、ちゃんと言うから』


「約束してください」


『約束する』


 美園がうなずくと、佐藤はもう一度そっと触れた。


 急がず、確かめるように。


 美園も、ただ受け入れるだけではなかった。


 佐藤の背へ腕を回し、自分からその身体を求める。


 誰かに何かを与えるためではない。


 佐藤に望まれているから応じるのでもない。


 自分が、この人に触れたい。


 この人の近くにいたい。


 その気持ちを、美園は初めて素直に身体で伝えた。


 2人の間に残っていた最後の距離が、ゆっくりと失われていく。


 その瞬間、美園の指が佐藤の背中を強く掴んだ。


 佐藤はすぐに動きを止める。


「痛いですか?」


『……少しだけ』


「やめますか?」


 美園は首を横へ振った。


『このまま、いて』


「はい」


 佐藤は動かず、美園を抱きしめた。


 乱れた呼吸が落ち着くまで、何度も髪を撫でる。


 美園は胸元へ顔を埋めた。


『格好悪いところ、見せちゃった』


「格好悪くありません」


『余裕のない顔してるでしょ』


「僕も同じです」


『佐藤くんは、最初から余裕なかったもんね』


「否定できません」


 その答えに、美園がわずかに笑う。


 まだ残る緊張が、その笑みとともに少しずつ解けていった。


『もう、大丈夫』


「本当に?」


『うん。来て』


 佐藤が、もう一度美園へ唇を重ねる。


 雨音が、2人の声と呼吸を包み込んだ。


 互いの名前を呼び、抱きしめ、何度も気持ちを確かめる。


 美園は、誰にも見せたことのない弱さも、戸惑いも、すべて佐藤へ預けた。


 その夜、2人は初めて身体を重ねた。


 ただ求め合うだけではなかった。


 佐藤は美園の小さな変化を見逃さず、美園も佐藤の不器用な優しさを受け止めた。


 2人で同じ場所まで進み、同じところで立ち止まり、また一緒に歩き出した。


 やがて、重なっていた身体が離れる。


 佐藤は近くにあった毛布を取り、美園の身体を包んだ。


『自分は?』


「僕は大丈夫です」


『またそれ』


 美園は毛布の半分を持ち上げた。


『こっちに来て』


「はい」


 佐藤が隣へ横になる。


 美園はその胸元へ身体を寄せた。


 先ほどよりも自然に、佐藤の腕が背中へ回る。


「後悔していませんか?」


 美園は顔を上げた。


『今、それを聞くの?』


「すみません。不安になって」


『後悔してないよ』


「よかったです」


『佐藤くんは?』


「するわけがありません」


『即答なんだ』


「はい」


『……そっか』


 美園は佐藤の胸へ頬を戻した。


 少し恥ずかしくて、少しだけ身体に残る感覚が落ち着かない。


 それでも、そのすべてが嫌ではなかった。


『佐藤くん』


「はい」


『明日の朝になっても、ちゃんといる?』


 佐藤は、美園を抱く腕へ力を込めた。


「います」


 美園は目を閉じる。


 その返事を信じたいと思った。


 同じ頃。


 樹里は、暗い道を走っていた。


 前方には、赤い光が揺れている。


 数えきれないほどのテールランプ。


 耳を塞ぎたくなるような排気音。


 背中には、Rose girlsの文字がある。


 何度振り返っても、陽菜と美園の姿が見えない。


 自分だけが先へ進んでいる。


 止まらなければならない。


 引き返さなければならない。


 分かっているのに、バイクは速度を上げ続ける。


 遠くから、自分を呼ぶ声がする。


 その声に応えようとしても、喉が動かない。


 やがて、道の先に立つ男の姿が見えた。


 一ノ宮だった。


 昔と変わらない目で、樹里を見ている。


「お前は、こっち側だ」


 樹里はブレーキを握る。


 だが、止まらない。


「戻ってこいよ、総長」


 違う。


 戻るつもりはない。


 そう言いたいのに、声が出ない。


 視界の端で、赤と黒の薔薇が散っていく。


 その向こうで、陽菜と美園が背を向けた。


 待て。


 行くな。


 今度は、置いていかない。


 1人で決めない。


 だから――。


『待ってくれ』


 自分の声で、樹里は目を覚ました。


 薄暗い寝室。


 激しい雨音。


 身体中に汗をかき、呼吸が乱れている。


 夢だった。


 そう理解しても、すぐには身体が動かなかった。


 樹里は上半身を起こす。


 震える指で、額を押さえた。


 眠っている間に手が当たったのか、ベッド脇に置いていた小物が床へ落ちている。


 そのとき、閉じた寝室の扉が外から叩かれた。


「日高さん」


 神谷の声だった。


「大丈夫ですか?」


『……大丈夫です』


「何か、倒れたような音がしました」


『物を落としただけです。戻ってください』


「本当に大丈夫ですか?」


『はい』


 樹里は即座に答えた。


 だが、声の震えまでは隠せなかった。


 扉の向こうで、神谷が黙る。


「扉を開けてもいいですか?」


『必要ありません』


「日高さん」


『大丈夫です』


「大丈夫な声には聞こえません」


 樹里は唇を噛んだ。


 神谷に過去を話すつもりはない。


 今、話せるとも思わない。


 扉を開ければ、何かを聞かれる。


 そう考えるだけで、胸が苦しくなった。


「何があったのかは、聞きません」


 神谷の声が、扉越しに届いた。


「ただ、1人にして大丈夫なのか、それだけ教えてください」


 樹里は答えられなかった。


 大丈夫だと言えば、神谷は戻るだろう。


 そうしてもらうべきだった。


 それなのに、言葉が出てこない。


「ここに座っています」


『神谷さん』


「扉は開けません。中にも入りません。話も聞きません」


 扉の向こうで、神谷が床へ腰を下ろす気配がした。


「ですから、眠れるまでここにいさせてください」


『ソファへ戻ってください』


「嫌です」


『怪我をしているんですよ』


「腕だけです」


『廊下に座っていたら、身体を冷やします』


「日高さんが眠ったら戻ります」


『私は大丈夫です』


「先ほどから、それしか言っていません」


 樹里は俯いた。


 誰かに弱った姿を見せることが嫌なのではない。


 神谷にだけは、見せるのが怖かった。


 知られれば、今までと同じようには見てもらえないかもしれない。


 過去を知った神谷が、自分から離れていく姿を想像した。


 その恐怖を認めることさえ、今の樹里にはできなかった。


「日高さん」


 扉の向こうから、静かな声がする。


「何も話さなくていいです」


『……知りたいとは、思わないんですか』


「思います」


 神谷は嘘をつかなかった。


「日高さんのことですから、知りたいです」


『なら、どうして聞かないんですか』


「僕が知りたいことと、日高さんが話せることは別です」


 樹里の指が、シーツを握る。


「話せるときに話してください。それまでは待ちます」


『いつになるか、分かりません』


「構いません」


『話さないかもしれません』


「そのときは、そのときです」


『それで、私の何が分かるんですか』


 言ってから、樹里は息を止めた。


 神谷を責めたいわけではなかった。


 それでも、口から出た言葉は鋭かった。


 扉の向こうで、しばらく返事がない。


「分からないことは、たくさんあります」


 神谷は静かに答えた。


「ですが、分からないまま傍にいることはできます」


 樹里は目を閉じた。


 また、夢の中の声が蘇る。


 戻ってこいと呼ぶ声。


 背を向けて離れていく、陽菜と美園。


 自分だけが、どこにも帰れなくなる感覚。


 樹里はベッドから降りた。


 扉の前まで歩き、鍵を外す。


 ゆっくりと扉を開けた。


 神谷は約束どおり、寝室へ入らず、廊下に座っていた。


 扉が開いたことに気づき、顔を上げる。


 樹里は寝室の内側に立ったまま、何も言わない。


 いつも整えられている髪は乱れ、顔からは血の気が引いていた。


 神谷はその姿を見ても、勝手に立ち上がろうとはしなかった。


「怖い夢を見たんですか?」


『……はい』


「今も、怖いですか?」


 樹里は答えようとした。


 大丈夫だと。


 もう平気だと。


 しかし、何度も繰り返してきた言葉を、今度は口にできなかった。


『少しだけ』


「そうですか」


 神谷は廊下に座ったまま、樹里の言葉を待った。


 寝室と廊下の境を、越えようとはしない。


 樹里の方から、敷居をまたいだ。


 廊下へ出て、神谷の前に立つ。


『立てますか』


「はい」


 神谷がゆっくりと立ち上がる。


 それでも、自分から樹里へ近づくことはなかった。


「触れてもいいですか?」


 その問いに、樹里はすぐには答えられなかった。


 美園と佐藤が互いを求めた同じ夜。


 樹里に必要だったものは、それとは違っていた。


 求められることでも、身体を重ねることでもない。


 ただ、自分が弱った瞬間に、逃げずにいてくれる誰かだった。


 樹里は神谷の服の袖を掴んだ。


 言葉の代わりに、ほんの少しだけ引き寄せる。


 神谷の腕が、ゆっくりと樹里の背中へ回った。


 怪我をしていない方の腕だけで、強くなりすぎないように抱きしめる。


 樹里の額が、神谷の胸元へ触れた。


『……すみません』


「謝らないでください」


『神谷さんも、休まなければ』


「ここにいます」


『腕は』


「大丈夫です」


『また、それを言うんですね』


「今度は本当です」


 樹里の指が、神谷の服を強く掴む。


 神谷は、何があったのかを尋ねなかった。


 誰の夢を見たのかも、なぜ樹里がこれほど怯えているのかも。


 ただ、呼吸が落ち着くまで、廊下で樹里を抱きしめていた。


 やがて樹里が顔を上げる。


『今夜だけ、ここにいてもらえますか』


「はい」


 樹里は一度、開いた寝室の扉を振り返った。


 それから神谷を見る。


『……中へ、入ってください』


「失礼します」


 神谷は樹里に招かれて初めて、寝室の敷居をまたいだ。


 樹里が先にベッドへ戻る。


 神谷は入口の近くで立ち止まり、それ以上進まなかった。


『どうしたんですか』


「どこにいればいいですか?」


『ベッドの端に座ってください』


「分かりました」


 神谷は言われた場所へ腰を下ろした。


 樹里が横になるのを待つ。


 けれど、神谷が立ち去ろうとすれば、樹里の指がその袖を掴んだ。


『何もしないでください』


「もちろんです」


『……今のは、そういう意味ではありません』


「分かっています」


 神谷の返事が少しだけ早く、樹里は目を細めた。


「掛け布団の上からなら、隣にいてもいいですか?」


 樹里は小さくうなずいた。


 神谷は樹里と同じベッドへ上がった。


 樹里は掛け布団の中。


 神谷はその上。


 2人の間には、はっきりと境界が残されている。


 神谷は怪我をしていない腕だけを樹里へ回した。


 掛け布団越しに、そっと抱き寄せる。


 それ以上は、何もしない。


 樹里の過去へ踏み込むことも、弱さにつけ込むこともしない。


 ただ、そこにいた。


 Roseでは、美園と佐藤の肌が重なっている。


 樹里の部屋では、2人の間に掛け布団がある。


 一方は、自分たちの意思で境界を越えた。


 もう一方は、越えないことを選んだ。


 形は違っても、どちらも相手を求め、相手の意思を尊重した夜だった。


 やがて樹里の指から力が抜けていく。


 規則正しい寝息を確かめても、神谷はすぐには腕を解かなかった。


 外ではまだ、雨が降り続いている。


 けれど今度の眠りの中で、樹里は誰にも置いていかれなかった。

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