121話「2つの雨宿り」
樹里の部屋へ着いた頃には、神谷のスーツもすっかり濡れていた。
駐車場から建物の入口まで、それほど距離があるわけではない。
それでも、傘では防ぎきれない雨が容赦なく吹き込んできた。
エントランスの自動扉が閉まると、外で暴れていた雨音が少しだけ遠ざかる。
「お邪魔しても、本当に大丈夫ですか?」
『ここまで来て、今さら何を言っているんですか』
「いえ。冷静に考えると、女性の部屋へ上がることになりますので」
『怪我人を雨の中へ放り出すほど、私は薄情ではありません』
「そういう意味ではなくてですね」
『神谷さん』
「はい」
『腕から、また血が出ています』
濡れたガーゼに、赤い染みが広がっている。
神谷はようやく自分の腕へ目を落とした。
「本当ですね」
『他人事みたいに言わないでください』
樹里は鞄から鍵を取り出した。
扉を開け、先に神谷を中へ入れる。
『どうぞ』
「お邪魔します」
玄関へ入った神谷は、周囲を汚さないよう、濡れた靴を慎重に脱いだ。
樹里は靴箱からタオルを取り出し、神谷へ差し出す。
『先に身体を拭いてください』
「日高さんも濡れていますよ」
『私は着替えられますから』
「では、先に日高さんが――」
『腕を怪我している人と、濡れただけの人間のどちらが先ですか』
「……僕です」
『分かればいいです』
神谷は素直にタオルを受け取った。
樹里はもう1枚取り出し、自分の髪とコートを簡単に拭く。
「綺麗な部屋ですね」
『散らかすほど物がないだけです』
必要な家具だけが置かれた、整然とした部屋だった。
色も白や黒で統一され、余計な装飾はほとんどない。
生活感がないわけではない。
ただ、誰かに見せるための物が極端に少なかった。
「日高さんらしいです」
『どういう意味ですか』
「無駄がないという意味です」
『褒めていますか』
「もちろんです」
樹里は神谷の顔を見た。
悪意はない。
だからこそ、反応に困った。
『とりあえず、座ってください』
「はい」
神谷をソファへ座らせ、樹里は救急箱を持ってくる。
濡れたガーゼを外すと、傷口から再び血が滲んでいた。
『洗います』
「お願いします」
樹里は洗面所へ神谷を連れていき、傷口へ水を流した。
神谷の腕が、わずかに動く。
『痛みますか』
「少しだけです」
『我慢しないでください』
「我慢するほどではありません」
『さっきも同じようなことを言っていましたね』
「怒っていますか?」
『まだ怒っています』
「長いですね」
『誰のせいだと思っているんですか』
樹里が傷の周囲を確認する。
細かなガラス片が残っていないことを確かめ、清潔なタオルで水分を拭き取った。
「手慣れていますね」
神谷の言葉に、樹里の指が一瞬止まった。
『応急処置くらいはできます』
「以前にも、こういう怪我の手当てを?」
『……何度か』
「そうですか」
神谷は、それ以上尋ねなかった。
樹里の短い沈黙から、聞かれたくないことなのだと察したのだろう。
消毒を済ませ、新しいガーゼを傷へ当てる。
樹里が包帯を巻き始めると、神谷はその横顔を静かに見つめた。
『何ですか』
「いえ」
『先ほどから、いえと何も言っていませんばかりですね』
「日高さんの家で、日高さんに手当てをしてもらっているという状況に、少し緊張しています」
『意識しなければいいでしょう』
「それができたら苦労しません」
樹里は答えず、包帯を巻き終えた。
『きつくないですか』
「大丈夫です。ありがとうございます」
『今日は濡らさないようにしてください』
「もう十分に濡れましたけどね」
『そういう意味ではありません』
「分かっています」
神谷が笑う。
樹里は救急箱を閉じながら、その顔を見た。
こんな状況でも、神谷は普段と変わらない。
自分が怪我をしたことより、樹里が無事だったことに安堵しているように見えた。
『……どうして、私を庇ったんですか』
「考える前に身体が動きました」
『それで自分が怪我をしていたら、意味がありません』
「日高さんが怪我をするよりはいいです」
『よくありません』
神谷が樹里を見る。
『どちらかが怪我をしていいという話ではないでしょう』
「そうですね」
『次は、自分の身も守ってください』
「次がないことを願います」
『私もです』
「ですが、もし同じことが起きたら、また同じようにすると思います」
樹里の眉が寄る。
『今、私の話を聞いていましたか』
「聞いていました」
『なら――』
「それでもです」
神谷の声は、穏やかなままだった。
強く言い返しているわけではない。
けれど、譲る気もないことだけは伝わった。
樹里は小さく息を吐く。
『頑固ですね』
「日高さんほどではありません」
『私は頑固ではありません』
「そういうことにしておきます」
その頃、Roseでは美園が佐藤の濡れた上着を受け取っていた。
『これ、しばらく干しておくね』
「すみません」
『謝るくらいなら、こんな日に来なければよかったのに』
「それはできませんでした」
『どうして?』
「美園さんが1人で店にいると思ったので」
『私は子供じゃないよ』
「知っています」
『雨が降ったくらいで困るようにも見えないでしょ』
「それも知っています」
佐藤は、濡れた髪をタオルで拭きながら答えた。
「でも、心配するのに、美園さんの許可はいらないと思ったので」
美園の手が止まる。
『随分、言うようになったね』
「美園さんが、はっきり言えと言ったんですよ」
『そうだったかな』
「忘れたんですか?」
『都合の悪いことは忘れることにしてるの』
「では、何度でも言います」
佐藤が真っ直ぐに美園を見る。
「僕は、美園さんが心配でした。だから来ました」
美園は先に目を逸らした。
佐藤の上着をハンガーへ掛け、バックヤードへ向かう。
『何か食べる?』
「話を変えましたね」
『食べないなら、私だけ食べるけど』
「食べます」
『素直でよろしい』
店には、簡単な食事を作れる程度の設備がある。
美園は冷蔵庫の中を確認し、残っていた食材をカウンターへ並べた。
「僕も手伝います」
『お客様に手伝わせるわけにはいかないでしょ』
「今日は客ではありません」
『じゃあ、何?』
「……恋人です」
美園が振り返る。
佐藤の顔は、言葉にした本人が一番驚いているように赤くなっていた。
『自分で言って恥ずかしくなるなら、言わなければいいのに』
「美園さんが聞いたからです」
『そうだったね』
美園は薄く笑う。
『じゃあ、恋人の佐藤くん。お皿を出してくれる?』
「はい」
佐藤は嬉しさを隠せない顔で、指定された棚へ向かった。
2人で作ったのは、店にあった食材を使った簡単な炒め物と、温かいスープだった。
豪華な料理ではない。
それでも、閉店後の店で誰かと並んで料理を作ることは、美園にとって初めてに近かった。
これまでのRoseは、美園が客を迎える場所だった。
話を聞き、酒を出し、笑って見送る。
自分が誰かと食卓を囲むための場所ではなかった。
「いただきます」
『いただきます』
カウンターを挟まず、2人は隣り合って座った。
外では大雨が降り続いている。
時折、強い風が店の扉を震わせた。
「美味しいです」
『ほとんど私が作ったからね』
「僕も皿を出しました」
『それは料理とは言わないよ』
「野菜も切りました」
『危なっかしくて見ていられなかったけど』
「一応、切れていました」
『大きさが全部違ったよ』
「味は同じです」
『食感が違うの』
佐藤が気まずそうに黙り込む。
美園はその横顔を見て、静かに笑った。
『でも、助かったよ』
「本当ですか?」
『お皿を出してくれたから』
「そこですか」
『冗談』
美園はスープへ口をつけた。
『1人で食べるより、美味しい』
佐藤の箸が止まる。
『何?』
「美園さんが、そういうことを言ってくれるとは思いませんでした」
『私だって、たまには素直になるよ』
「たまにではなく、いつもでお願いします」
『調子に乗らないの』
「すみません」
謝りながら、佐藤は笑っていた。
その笑顔を見ていると、美園の胸の奥に小さな熱が広がっていく。
誰かが待っている。
誰かと同じ物を食べる。
何でもない会話をして、同じことで笑う。
美園が遠ざけようとしていたものは、こういう時間だったのかもしれない。
欲しがれば、いつか失う。
そう思っていた。
けれど今は、失う可能性だけを理由に、目の前の温かさを拒みたくなかった。
樹里の部屋では、神谷が借りたタオルで髪を拭いていた。
樹里は別室で着替えを済ませ、部屋着の上から薄いカーディガンを羽織って戻ってくる。
いつものスーツ姿ではない樹里を見て、神谷の動きが止まった。
『何ですか』
「いえ……日高さんも、家ではそういう格好をするんですね」
『家でまでスーツを着ていると思っていたんですか』
「そういうわけではありませんが、少し新鮮で」
『見ないでください』
「すみません」
神谷は素直に視線を逸らした。
樹里は自分から部屋へ招いたことを、今になって意識していた。
会社でも、外でもない。
誰にも見せる必要のない姿で過ごす、自分だけの場所だった。
そこに神谷がいる。
落ち着かないはずなのに、不思議と嫌ではなかった。
『何か食べられますか』
「僕は大丈夫です」
『昼から何も食べていないでしょう』
「日高さんもですよね」
『ですから、作ります』
「手伝います」
『怪我人は座っていてください』
「片腕は使えます」
『使わなくて結構です』
「では、見ています」
『見られると作りづらいです』
「どこにいればいいですか?」
『ソファに座っていてください』
「分かりました」
神谷が言われたとおりに座る。
樹里は冷蔵庫を開けた。
人へ振る舞うことを想定した食材はない。
結局、冷凍していたうどんと野菜を使い、簡単な鍋焼きうどんを作ることにした。
台所から響く調理の音を聞きながら、神谷は部屋を見回す。
棚の端に、小さな写真立てが伏せて置かれていた。
意図的に見えないようにしているようにも見える。
神谷は手を伸ばさなかった。
見る権利のないものだと思った。
『お待たせしました』
「ありがとうございます」
樹里が鍋を運んでくる。
湯気の向こうで、神谷が嬉しそうに笑った。
「日高さんに料理を作ってもらえるとは思いませんでした」
『うどんを煮ただけです』
「それでもです」
『期待しないでください』
「いただきます」
神谷は箸を持とうとして、包帯を巻かれた腕を動かしかけた。
『反対の手で食べられますか』
「少し時間はかかりますが」
『無理なら、別のものにします』
「大丈夫です。食べられます」
慣れない手つきで麺を持ち上げようとするが、うまく掴めない。
何度か失敗し、神谷は小さく笑った。
「思ったより難しいですね」
『だから言ったでしょう』
「ですが、美味しそうなので諦めたくありません」
樹里はしばらくその様子を見ていた。
やがて、自分の箸を置く。
『貸してください』
「え?」
『箸です』
「いえ、自分で食べられます」
『麺が伸びます』
「日高さん」
『何ですか』
「もしかして、食べさせてくれるんですか?」
樹里の手が止まった。
そこまで考えていなかったことが、顔に出た。
「冗談です。もう少し頑張ります」
『……そうしてください』
神谷は笑いを堪えながら、再び箸を動かす。
樹里は無言でうどんを食べ始めた。
耳がわずかに赤くなっていることには、気づかないふりをした。
食事を終える頃、樹里のスマートフォンへ陽菜からLINEが届いた。
――日高先輩、無事ですか?
会社の人間がいる可能性を考え、呼び方は日高先輩になっている。
樹里は短く返信した。
――無事です。神谷さんが腕を怪我しましたが、手当ては済みました。
既読はすぐについた。
――神谷さんが?
――軽い傷です。
――日高先輩は本当に怪我してない?
――していません。
少し間を置いて、次のメッセージが届いた。
――今どこにいるの?
樹里の指が止まる。
嘘をつく必要はない。
だが、正直に答えれば、どんな返信が来るかは容易に想像できた。
――私の部屋です。
既読がついた。
数秒後、画面いっぱいに驚いた顔のスタンプが表示される。
続けて、文字が届いた。
――神谷さんと2人で!?
――交通機関が止まったためです。
――あたし、理由は聞いてないけど。
樹里は画面を閉じた。
「櫻井さんですか?」
『はい』
「何かありましたか?」
『ありません』
「そうですか」
神谷は深く追及しなかった。
その直後、樹里のスマートフォンが再び震える。
――日高先輩。今夜は雨も風も強いので、戸締まりはしっかりしてくださいね。
――分かっています。
――いろんな意味で。
樹里は返信せず、スマートフォンを伏せて置いた。
「本当に、何もありませんか?」
『ありません』
今度の答えは、先ほどよりも強かった。
Roseでも、食事を終えた美園と佐藤が、並んで食器を洗っていた。
『私が洗うから、佐藤くんは拭いて』
「はい」
狭い流し台の前では、少し動くだけで肩が触れる。
佐藤はそのたびに距離を取ろうとした。
美園は気づいていたが、何も言わなかった。
『そんなに離れたら、お皿を渡せないよ』
「すみません」
『さっきから謝ってばかりだね』
「緊張しているので」
『どうして?』
「美園さんと、2人きりだからです」
『今までだって、2人でいたことはあるでしょ』
「閉まった店で、朝まで一緒になるかもしれないのは初めてです」
美園の手から、水が流れ続ける。
『まだ朝までいると決まったわけじゃないよ』
「そうですね」
『雨が弱くなったら帰ってもらうから』
「はい」
佐藤は逆らわなかった。
けれど、外の雨音はさらに強くなっていた。
美園にも、今夜のうちに帰せるとは思えなかった。
片づけを終えると、美園は店内の照明を落とした。
カウンター上の間接照明だけを残す。
客のいないRoseは、普段よりも広く、静かに見えた。
「眠る場所はありますか?」
『奥に小さなソファがあるよ。毛布も置いてある』
「美園さんが使ってください」
『佐藤くんはどうするの?』
「僕は、ここの椅子で大丈夫です」
『身体を痛めるよ』
「一晩くらいなら平気です」
『自分のことを雑に扱わないで』
佐藤が美園を見る。
『誰かが心配してるのに、大丈夫だと言って無理をするのは駄目』
「美園さんも、僕を心配してくれるんですか?」
『しなかったら、タオルも食事も出してないよ』
美園は佐藤の手から布巾を受け取る。
『奥のソファは佐藤くんが使って。私は店のソファで寝るから』
「でも――」
『これは店の責任者としての指示』
「恋人としては?」
美園が振り向く。
「恋人としてなら、何と言いますか?」
佐藤の声は真剣だった。
美園は、すぐには答えられなかった。
カウンターの照明が、佐藤の横顔を淡く照らしている。
『……少しだけ、ここにいて』
「はい」
佐藤は美園の隣へ座った。
触れ合わないほどの距離を空けながら、それでも離れすぎない場所に。
美園は背もたれへ身体を預けた。
雨の音を聞きながら、隣にいる佐藤の体温を感じる。
樹里の部屋では、神谷がソファで眠る準備をしていた。
樹里が寝室から毛布と枕を運んでくる。
「僕が床で寝ます。日高さんがソファを使ってください」
『自分の家で、どうして私がソファで寝るんですか』
「では、僕も床で」
『怪我人を床へ寝かせられません』
「ですが」
『お客様用の布団がないだけです。ソファなら十分眠れます』
「日高さんは?」
『私は寝室で寝ます』
「そうですか」
神谷は少しだけ安心したように息を吐いた。
『何を安心しているんですか』
「日高さんまでここで寝ると言い出すかと思いました」
『言いません』
「少し残念です」
『神谷さん』
「冗談です」
『怪我人でなければ、追い出しています』
「怪我をしていてよかったと、初めて思いました」
『明日の朝になったら、すぐ病院へ連れていきます』
「傷より先に、日高さんに怒られた精神的な疲労を診てもらいたいです」
『まだ怒られたいんですか』
「もう十分です」
樹里は毛布をソファへ置いた。
『何か必要なものがあれば、声をかけてください』
「ありがとうございます」
『おやすみなさい』
「おやすみなさい、日高さん」
樹里は寝室へ入った。
扉を閉め、背中を預ける。
自分の家に、誰かがいる。
それだけのことが、ひどく落ち着かなかった。
それなのに、帰ってほしいとは思わない。
樹里はベッドへ横になった。
目を閉じても、雨音が耳に残る。
やがてその音は、遠い過去のバイクの排気音と重なり始めた。
Roseでは、美園と佐藤がまだ隣に座っていた。
会話は途切れている。
それでも、気まずさはなかった。
しばらくして、佐藤の手がソファの上で動いた。
美園の手に触れる直前で止まる。
「手を握ってもいいですか?」
美園は、佐藤の手へ自分の指を重ねた。
『聞かなくてもいいことまで、聞くんだね』
「嫌がることはしたくないので」
『そう』
指が絡む。
佐藤の手は温かかった。
美園はその温度を確かめるように、ほんの少しだけ強く握った。
樹里と神谷。
美園と佐藤。
同じ雨から逃れた2組は、違う場所で夜を迎えていた。
一方には、閉じた寝室の扉がある。
もう一方には、少しずつ狭くなっていく距離がある。
雨はまだ、朝まで止みそうになかった。




