120話「雨の行き先」
一ノ宮と会った日から、数日が過ぎた。
会社へ来れば、電話が鳴る。
客から問い合わせが入り、書類には決裁期限があり、予定表には新しい訪問先が増えていく。
誰かにとって大きな出来事があっても、日常は立ち止まってはくれない。
樹里にとっては、そのことがありがたかった。
『日高先輩。この契約書、確認お願いします』
『そこへ置いてください。あとで見ます』
『あとでって、いつですか?』
『この資料が終わってからです』
『何分後?』
『櫻井さん』
『急かしてるんじゃないですよ。あたし、日高先輩の予定を把握しておきたいだけです』
『私の予定を把握して、どうするんですか』
『働かせすぎないように管理します』
『余計な仕事を増やさなければ、それだけで助かります』
『ひどい』
そう言いながらも、陽菜は楽しそうだった。
樹里の机へ契約書を置き、自分の席へ戻っていく。
いつもと変わらないやり取りだった。
だが陽菜は、この数日、以前よりも頻繁に樹里の顔を見ていた。
何かを尋ねるわけではない。
心配しているとも言わない。
ただ、そこにいることを確認している。
樹里は気づいていたが、指摘しなかった。
自分も同じように、陽菜の姿を目で追うことがあったからだ。
「日高先輩」
今度は凛に呼ばれ、樹里が顔を上げる。
「先日の件は、もう大丈夫なんですか?」
凛は声を落としていた。
事情を聞き出そうとしているのではない。
3人が約束どおりに戻ってきたのか、それだけを確かめようとしていた。
『はい。終わりました』
「そうですか」
『ご心配をおかけしました』
「いえ。皆さんが無事なら、それでいいです」
凛は小さく微笑み、自分の席へ戻った。
それ以上は聞かない。
その優しさに、樹里は何も返せなかった。
代わりに、ほんの少しだけ頭を下げた。
窓の外では、朝から細い雨が降っていた。
昼を過ぎても止む気配はなく、むしろ時間が経つほど強くなっていく。
灰色の雲は低く垂れ込め、まだ午後だというのに、窓の外は夕方のように暗い。
「これ、本当に大雨になるんじゃないですか」
柚希がスマートフォンの天気予報を見ながら、不安そうに呟いた。
「夕方から夜にかけて、かなり降るみたいです」
「電車、止まらないといいね」
凛も窓の外へ目を向ける。
「私はバイクで来なくて正解でした」
「凛ちゃん、この雨でバイクだったら陽菜さんに怒られてたよ」
『怒るよ。危ないじゃん』
「ほら」
柚希が笑う。
「陽菜さん、完全に凛ちゃんのお姉ちゃんですね」
『凛ちゃんが危なっかしいだけ』
「陽菜さんにだけは言われたくありません」
『なんで?』
「本当に分からないんですか?」
『全然』
「凛ちゃん。諦めた方がいいよ」
柚希が凛の肩へ手を置く。
陽菜は納得がいかない様子で2人を見ていた。
そのとき、黒澤の机の電話が鳴った。
「はい、島川不動産、黒澤です」
いつもの低い声で応じた黒澤の表情が、次第に険しくなっていく。
「雨漏り? どこからだ」
周囲の空気が変わった。
「分かった。写真は撮れるか。危ない場所には近づかなくていい。こっちから確認に行く」
黒澤は電話を切ると、手元の資料を開いた。
「駅前の旧宮本ビルだ。3階の窓際から水が入ってるらしい」
旧宮本ビルは、島川不動産が売買の仲介を進めている物件だった。
現在は1階の店舗だけが営業を続け、上階は引き渡しへ向けて順次退去が進められている。
「屋上か外壁か?」
神谷が席を立つ。
「まだ分からん。今朝の段階では異常がなかったらしい。風が強くなってから急に漏れ始めたそうだ」
『私が確認に行きます』
樹里も立ち上がった。
その物件の資料を最も把握しているのは樹里だった。
「1人では行かせられん。神谷、ついていけ」
「はい」
『神谷さん、別件の資料が残っていませんか』
「戻ってから対応します」
『私だけで確認できます』
「日高さん」
神谷は穏やかな声で樹里を遮った。
「今の雨の中、1人で行かせると思いますか?」
『仕事です』
「だからです」
神谷は机の上から車のキーを取った。
「現地で別行動をした方が、状況も早く確認できます。僕にも行かせてください」
樹里は数秒、神谷の顔を見つめた。
『……分かりました。お願いします』
「2人とも、建物の外側は見るだけにしろ」
黒澤が念を押す。
「屋上へも出るな。原因の特定より、まず被害の確認と安全確保だ。危険だと思ったらすぐ戻れ」
『はい』
「分かりました」
『日高先輩』
陽菜が席から樹里を呼び止める。
声には出さなかったが、その目は明らかに心配していた。
『確認して戻ってくるだけです』
『……気をつけてくださいね』
『はい』
『絶対ですよ』
『分かっています』
『神谷さん』
陽菜の視線が神谷へ向く。
『日高先輩、仕事になると周りが見えなくなるときがあるので、止めてください』
「分かりました」
『櫻井さん』
『お願いしますね』
「任せてください」
神谷が真面目にうなずく。
樹里は反論しかけたが、やめた。
少なくとも、誰かに心配されることを拒む理由は、もうなかった。
会社を出たときには、雨粒が地面を白く弾くほどになっていた。
傘を差しても、横殴りの雨が足元を濡らす。
神谷の車へ乗り込むまでの短い距離だけで、樹里のコートには無数の水滴がついた。
「予報より早く荒れてきましたね」
神谷がワイパーを動かす。
最も速い設定にしても、視界はすぐに雨で覆われた。
『無理はしないでください』
「はい。日高さんも、現地で無茶はしないでくださいね」
『しません』
「櫻井さんから頼まれています」
『私より櫻井さんの言葉を信じるんですか』
「日高さんは、ご自分のことになると信用がありませんから」
樹里が横目で神谷を見る。
神谷は前を向いたままだった。
口調は柔らかいが、冗談だけで言っているわけではない。
『……気をつけます』
「お願いします」
車は速度を落としながら、雨に煙る道路を進んでいった。
同じ頃、Roseでも、美園が店先から空を見上げていた。
夕方を迎える前から、軒先を叩く雨音が大きくなっている。
道路の側溝には水が勢いよく流れ、走り去る車が歩道へまで水を跳ね上げていた。
『今日は、開けない方がよさそうだね』
予約客のうち、数組からはすでにキャンセルの連絡が入っている。
残る客にも美園から電話をかけ、日を改めてもらった。
この天候で酒を飲ませ、帰宅させる方が危険だった。
入口の扉へ臨時休業の札をかけ、美園が店内へ戻る。
その直後、扉が外から開いた。
「美園さん」
折り畳んだ傘を手に、佐藤が入ってきた。
肩も髪も濡れている。
『佐藤くん?』
「すみません。もう閉めますよね」
『見れば分かるでしょ。それより、どうして来たの?』
「雨が酷くなってきたので」
『それは来る理由じゃなくて、帰る理由だよ』
「美園さんが1人だと思ったから」
美園は、何も言えなくなった。
佐藤は気まずそうに視線を逸らし、濡れた傘を入口の傘立てへ入れる。
「何か手伝えることがあればと思って」
『店は開けないよ』
「はい」
『片づけも、ほとんど終わってる』
「そうですか」
『だから、今から帰りなさい』
「美園さんも帰るなら、一緒に帰ります」
『私は雨が弱くなるまで待つつもり』
「では、僕も待ちます」
『どうしてそうなるの』
「美園さんを1人にしたくないので」
真っ直ぐすぎる答えだった。
美園は呆れたように息を吐く。
以前なら、適当な言葉であしらっていただろう。
しかし今は、その言葉を軽く受け流せなかった。
『風邪をひくよ。タオルを持ってくるから、座ってて』
「ありがとうございます」
『あと、そんなところに立ってると床が濡れる』
「すみません」
佐藤が慌てて足元を見る。
美園は小さく笑い、店の奥へ姿を消した。
タオルを受け取った佐藤が髪を拭いている間に、美園はコーヒーを淹れた。
客へ出すためではない。
2人で雨が弱まるのを待つためのものだった。
「お酒ではないんですね」
『この雨の中で酔わせたら、帰せなくなるでしょ』
「僕は、帰れなくても構いませんけど」
『そういうことを簡単に言わないの』
「簡単には言っていません」
美園の手が止まる。
佐藤は冗談を言っている顔ではなかった。
『……コーヒー、冷めるよ』
「はい」
美園は佐藤と向き合わず、カウンターの内側で自分のカップを持ち上げた。
店内には、雨の音だけが響いている。
まだ営業時間にもなっていないRoseで、2人きりだった。
一方、樹里と神谷は旧宮本ビルへ到着していた。
1階の店舗責任者から鍵を借り、階段を上る。
古い建物のため、エレベーターはない。
3階へ近づくにつれ、雨が窓や壁を叩く音が強くなった。
「日高さん、足元に気をつけてください」
『神谷さんも』
問題の部屋へ入ると、窓際の床に水が広がっていた。
窓枠の上部から、雨水が途切れることなく流れ落ちている。
『窓そのものではなく、外壁との接合部から入っていますね』
「風で何かが外れたのかもしれません」
神谷が窓へ近づこうとする。
『開けないでください』
「分かっています。室内から見るだけです」
樹里は被害箇所を撮影し、建物の所有者と業者へ送るための記録を取る。
神谷は置かれていた荷物を窓際から離し、店舗責任者から借りたバケツと吸水用の布を並べた。
応急処置を終え、隣の部屋にも異常がないか確認する。
そのときだった。
外で大きな金属音が鳴った。
『何の音ですか』
「下から聞こえました」
2人は廊下へ戻った。
階段の踊り場にある窓の外で、建物脇に設置されていた案内板が激しく揺れている。
固定していた金具の一部が外れ、風に煽られて壁へ何度も打ちつけられていた。
このまま落下すれば、下の歩道へ落ちる可能性がある。
『下へ行きましょう』
「はい」
2人は急いで階段を下りた。
1階へ着くと、神谷が店舗責任者へ声をかける。
「危険なので、案内板の近くには誰も出さないでください。歩道側も人を通さないようにします」
「分かりました」
『警察と消防へ連絡します。私たちで触るのは危険です』
樹里がスマートフォンを取り出した、その瞬間だった。
風に煽られた案内板の一部が大きく外れた。
金属片が、入口脇のガラスへ衝突する。
激しい音とともに、ガラスへ亀裂が走った。
「日高さん!」
神谷が樹里の腕を引いた。
次の瞬間、割れたガラスの一部が店内側へ崩れ落ちる。
神谷は樹里を庇うように身体を入れた。
鈍い音が重なり、床へ破片が散らばった。
『神谷さん』
「大丈夫です。動かないでください」
神谷は樹里を抱えるようにして、ガラスから距離を取った。
樹里に怪我はない。
だが神谷のスーツの袖が裂け、その下から赤いものが滲んでいた。
『腕を見せてください』
「大したことはありません」
『見せてください』
低くなった樹里の声に、神谷が口を閉じる。
袖をまくると、前腕に細い傷が走っていた。
深くはない。
だが血は止まっていなかった。
『これのどこが大したことないんですか』
「日高さんに当たらなくてよかったです」
『今は、そういう話をしていません』
「怒っていますか?」
『怒っています』
樹里は鞄からハンカチを取り出し、傷口へ当てた。
『押さえていてください』
「日高さんのハンカチが汚れます」
『神谷さん』
「……押さえます」
店舗責任者が救急箱を持ってくる。
樹里は傷を確認し、ひとまずガーゼで覆った。
神谷は痛みを顔に出さなかった。
それが余計に、樹里を苛立たせた。
自分を庇ったことではない。
怪我を軽く扱おうとしたことに腹が立っていた。
その姿が、どこか昔の自分と重なった。
警察と消防が到着し、周辺の安全確認が始まる。
業者との連絡や所有者への報告も済ませ、2人がようやく建物を出られた頃には、夜になっていた。
雨は弱まるどころか、さらに激しくなっている。
スマートフォンには、鉄道各社から運転見合わせの通知が並んでいた。
「電車、止まりましたね」
神谷が画面を見ながら言う。
『道路も混んでいます。会社へ戻るのは難しそうですね』
「日高さんを先に送ります」
『その腕で運転させられません』
「運転には支障ありません」
『ありませんではなく、させません』
樹里は周囲を見回した。
タクシー乗り場には長い列ができ、配車アプリも車を捕まえられない。
近隣のホテルへ問い合わせても、帰宅できなくなった人たちで埋まり始めていた。
「僕は車で待機します。雨が弱まれば――」
『駄目です』
「ですが」
『ここからなら、私の部屋が一番近いです』
言ってから、樹里は黙った。
神谷も、すぐには答えなかった。
雨が車の屋根を激しく叩いている。
『誤解しないでください。応急処置だけでは心配ですし、その状態で運転させられないだけです』
「分かっています」
『それに、雨が弱まるまでです』
「はい」
『……何ですか』
「何も言っていません」
『今、笑いましたか』
「笑っていません」
『笑いました』
「すみません」
神谷は謝りながらも、わずかに口元を緩めていた。
樹里は窓の外へ顔を向ける。
濡れた道路に、街の明かりが滲んでいる。
同じ頃、Roseでは美園のスマートフォンにも、電車の運転見合わせを知らせる通知が届いていた。
『佐藤くん』
「はい」
『電車、止まったみたい』
「そうですか」
佐藤は驚きもせずに答えた。
美園が疑わしそうに目を細める。
『少しは困った顔をしたら?』
「困っています」
『全然そう見えないけど』
「美園さんといられるので」
『……本当に、そういうことを平気で言うようになったね』
「嫌でしたか?」
美園は答えなかった。
外では雨が降り続いている。
店の入口には、臨時休業の札がかかっている。
今夜、客が来ることはない。
樹里は、怪我をした神谷を自分の部屋へ連れて帰ることを決めた。
美園は、帰る場所を失った佐藤とRoseに残ることになった。
同じ雨が、離れた場所にいる4人の帰り道を閉ざしていく。
けれどその夜、閉ざされた道の先で何が起こるのかを、まだ誰も知らなかった。




