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119話「幸せです」

冬の風が、河川敷を静かに吹き抜けた。


 一ノ宮の問いだけが、その場に残っている。


「今のお前は、昔のお前を捨ててまで手に入れる価値のある場所にいるのか」


 陽菜は何も言わなかった。


 美園も、樹里から目を逸らさない。


 2人とも、答えようとはしなかった。


 これは樹里が、自分の言葉で答えなければならない問いだった。


 樹里は一度、ゆっくりと息を吐いた。


『幸せです』


 一ノ宮の眉が、わずかに動く。


「……そうかよ」


『はい』


「随分、簡単に言うんだな」


『難しく答える必要がないので』


 一ノ宮は樹里を見つめた。


 その目の奥から、迷いや嘘を探すように。


「じゃあ、今までの全部は何だったんだ」


 樹里は答えなかった。


「あの頃のお前は、どこへ行った。あれだけの人間を従えて、誰にも頭を下げず、何が相手でも正面から潰してきた女は」


『どこにも行っていない』


「だったら、なんでそんな格好してんだよ」


 一ノ宮の視線が、樹里のコートから、足元のパンプスへと落ちた。


「会社員の真似をして、頭を下げて、他人に合わせて。あの頃のお前なら、そんな生き方を選ぶはずがない」


『特攻服を脱いだだけです』


 樹里の声は、静かだった。


『私まで捨てたつもりはありません』


 陽菜が、わずかに目を見開いた。


 美園はただ、樹里を見つめている。


『今でも、間違っていると思えば相手が誰でも意見します。守ると決めた人間が傷つけられれば、黙っているつもりもありません』


「なら、昔と何が違う」


『やり方です』


 樹里は迷わず答えた。


『昔の私は、力で黙らせることしか知らなかった。自分だけで決めて、自分だけで背負うことが強さだと思っていた』


「実際、強かっただろ」


『いいえ』


 樹里の返事に、一ノ宮の顔から薄い笑みが消えた。


『私は、弱かった』


「……何?」


『人に頼ることができなかった。大切な人間に、本当のことを話すこともできなかった。守っているつもりで、勝手に選び、勝手に消えた』


 陽菜が唇を噛む。


 美園の指先が、コートの袖をわずかに握った。


『私は逃げた。陽菜からも、美園からも、自分の過去からも』


 樹里は、その事実を飾らなかった。


 誰かのためだったとは言わない。


 仕方がなかったとも言わない。


『そこは否定しない』


「だったら、やっぱり今の生活は逃げた先じゃねえか」


『始まりは、そうだったかもしれない』


 一ノ宮の目が細くなる。


『ですが、今は違います』


「何がだよ」


『自分で選んでいる』


 樹里は、一ノ宮から目を逸らさなかった。


『仕事も、そこで出会った人たちも、今の生活も。誰かに与えられたものではありません。隠れるための場所でもない』


「過去を捨てて手に入れたくせに」


『捨てていない』


 樹里の声が、ほんのわずかに強くなった。


『傷つけた人もいます。間違えたこともあります。忘れたくても、忘れてはいけないものもある』


 風に揺れた髪を、樹里は耳へかけた。


『それでも、陽菜や美園と走った時間まで、なかったことにするつもりはありません』


「だったら、なんでこいつらを置いて消えた」


 陽菜が一歩を踏み出しかける。


 だが、美園がその腕へ触れた。


 止めるためではない。


 今は樹里に任せようと、伝えるためだった。


『怖かったからです』


 一ノ宮は黙った。


『失うことが怖かった。2人を巻き込むことも、自分のせいで傷つけることも怖かった。だから、相談することもせずに逃げた』


「今さら戻って、許されたってことか」


『簡単に許されたとは思っていません』


 樹里は、隣に立つ2人を見なかった。


 見なくても、そこにいることが分かっている。


『今も償いの途中です』


『別に、償ってもらってるつもりはないけど』


 陽菜が、堪えきれずに口を挟んだ。


 美園が小さく笑う。


『私も』


『黙っていろ』


『はいはい』


 陽菜は不満そうに頬を膨らませながらも、それ以上は言わなかった。


 一ノ宮は、そんな3人を眺めていた。


 かつてのRose girlsにはなかった空気だった。


 総長の言葉は絶対だった。


 樹里が決めれば、誰も異を唱えなかった。


 陽菜と美園だけは違ったのかもしれない。


 だが当時の一ノ宮は、その違いを見ようともしなかった。


「俺は、お前が誰にも頼らずに立ってると思ってた」


『そう見せていましたから』


「誰にも守られない代わりに、誰にも縛られない。だから綺麗だった」


 樹里は静かに首を振った。


『私は最初から、1人ではありませんでした』


 一ノ宮の視線が、陽菜と美園へ動く。


『あなたが見ていたのは、私が1人で立っていた部分だけです』


「じゃあ、俺が見ていたお前は、最初からいなかったのか」


『いました』


 樹里は否定しなかった。


『ただ、それが私のすべてではなかった』


 一ノ宮は何も言わない。


『あなたは、あなたが見たい私だけを見ていた』


 容赦のない言葉だった。


 しかし、責める響きはなかった。


 ただ事実を、事実として告げている。


 一ノ宮は乾いた笑いを漏らした。


「随分、喋るようになったな」


『そうかもしれません』


「昔のお前なら、こんな面倒な話をする前に殴ってただろ」


『今日は、2人に殴るなと言われていますので』


『そこは自分の意思って言いなよ』


 陽菜の呆れた声に、美園が口元を緩める。


『でも、守ってるだけ進歩したんじゃない?』


『聞こえている』


 一ノ宮が、声を上げて笑った。


 それは初めて、相手を嘲るものではない笑いだった。


「本当につまらなくなったな、お前」


『そうですか』


「昔なら、もっと面白い返しをした」


『今の私を面白いと思っていただく必要はありません』


「容赦ねえな」


 一ノ宮はポケットへ両手を入れ、川の方を向いた。


 水面が冬の日差しを反射している。


「もう、戻る気はないんだな」


『ありません』


「俺と来る気も」


『ありません』


「即答かよ」


『考える必要がないので』


 一ノ宮は再び笑った。


 しばらく川を見つめたあと、背中を向けたまま言う。


「会社にも、あの店にも近づかねえよ」


 陽菜の表情が険しくなる。


『信用できない』


「だろうな」


 一ノ宮は振り返らなかった。


「だが、もう確かめるものがなくなった」


『最初から何もなかった』


「お前は黙ってろ、副総長」


『今はただの会社員ですけど』


「そういうところは変わってねえな」


『あたしは何も変える気ないから』


 一ノ宮は片手を上げた。


 そのまま、河川敷の道を歩き始める。


「じゃあな、総長」


『私はもう、総長ではありません』


 一ノ宮の足が止まる。


「最後くらい、呼ばせろ」


 樹里は答えなかった。


 一ノ宮も、返事を待たなかった。


 やがてその背中は遠ざかり、土手へ続く階段の向こうへ消えていった。


 冬の河川敷に、3人だけが残された。


 樹里は、一ノ宮が消えた場所を見つめている。


『……終わった?』


 陽菜が尋ねた。


『おそらく』


『おそらく、か』


 美園は小さく息を吐いた。


『警戒は続けた方がいいね』


『ああ』


 樹里が歩き出そうとする。


 だが、その足がわずかに揺れた。


 陽菜と美園が、同時に気づく。


『総長』


『大丈夫だ』


『何も言ってないじゃん』


『顔に書いてある』


 陽菜が樹里の右隣へ立つ。


 美園も、左隣へ並んだ。


 支えようとはしない。


 樹里が自分の足で立てることを、2人とも知っている。


 ただ、手が届く距離にいる。


『……怖かった?』


 美園が尋ねる。


 樹里は少しだけ考えた。


『ああ』


 以前なら、決して口にしなかった答えだった。


『一ノ宮が、ではない。過去の自分に戻されるような気がしていた』


『戻るわけないじゃん』


 陽菜が即座に言う。


『総長が戻ろうとしても、あたしが引っ張って帰るし』


『私も手伝うよ』


『戻るつもりはない』


『知ってる』


 陽菜は笑った。


 それから、少しだけ照れくさそうに樹里の顔を覗き込む。


『総長、幸せなんだ』


 樹里は目を細めた。


『ああ』


『そっか』


 陽菜の声が、わずかに震えた。


『あたしも』


 美園が、その言葉へ重ねる。


『私もだよ』


 3人の間を、冷たい風が通り過ぎる。


 それでも、不思議と寒くはなかった。


『帰ろうか』


 美園が言った。


『Roseに?』


『他にどこがあるの』


『昼間から飲ませてくれる?』


『駄目』


『一杯だけ』


『駄目』


『総長からも言ってよ』


『私もコーヒーでいい』


『裏切り者』


 陽菜の不満そうな声が、河川敷に響いた。


 3人は並んで歩き出した。


 誰かが先を歩くこともない。


 誰かが後ろに残ることもない。


 同じ速さで、同じ場所へ帰っていく。


 Roseに戻ると、美園は宣言どおり、3人分のコーヒーを淹れた。


 陽菜は最後まで酒がいいと文句を言っていたが、カップを渡されると素直に口をつける。


『苦い』


『砂糖、そこにあるよ』


『美園さんが入れて』


『自分でやりなさい』


『今日のあたし、頑張ったのに』


『何を?』


『一ノ宮を殴らなかった』


『最低限だ』


 樹里の言葉に、美園が笑う。


 陽菜は納得がいかないようだったが、角砂糖を2つ落とした。


 カップの中で、小さな音が鳴る。


 樹里はその音を聞きながら、温かいコーヒーへ口をつけた。


 過去は消えていない。


 消すこともできない。


 それでも、過去の誰かが望んだ姿のまま、生き続ける必要はなかった。


 樹里は一ノ宮の前に、昔の自分を置いてきたわけではない。


 誰かの中で止まったままの、自分の影を置いてきた。


 そして今の自分は、2人と一緒に帰ってきた。


 それでよかった。

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