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117話「昔のお前」

終業時刻を過ぎ、営業部から少しずつ人が減り始めていた。


 樹里は翌日の資料を確認し、机の引き出しへ戻す。


 パソコンを閉じたところで、神谷が声をかけてきた。


「日高さん、例の見積書は確認できましたか」


『はい。修正したものを共有フォルダへ入れてあります』


「ありがとうございます。明日の朝、私も確認します」


『よろしくお願いします』


「今日はもう上がりますか」


『はい。お先に失礼します』


「お疲れさまでした」


 いつもと変わらない会話だった。


 樹里は鞄を持ち、周囲へ挨拶をして営業部を出る。


 陽菜は中井と食事へ行くと言っていた。


 美園からは、佐藤がRoseへ来るらしいとLINEが届いている。


 凛も今日はRoseの手伝いがない。


 誰もが、それぞれの日常へ帰っていく。


 樹里も駅へ向かうつもりだった。


 会社を出て、数分歩く。


 大通りへ出る手前の交差点で信号を待っていると、背後から声がした。


「見つけた」


 樹里の身体が止まる。


 聞き覚えのある声だった。


 振り返る。


 一ノ宮が、少し離れた場所に立っていた。


 Roseを訪れたときと同じ、目立たない服装。


 それでも人混みの中で、その目だけは昔と変わっていなかった。


『一ノ宮』


「久しぶりだな、樹里」


『美園から、話は聞きました』


「相変わらず早いな。俺が帰ってすぐに連絡したのか」


『何の用ですか』


 一ノ宮が笑う。


「その喋り方、似合わないな」


『今は、これが普通です』


「俺にまで敬語を使うのか」


『今の私にとって、あなたは親しい相手ではありません』


「昔も親しかった覚えはないけどな」


『でしたら、問題ないでしょう』


 信号が青に変わる。


 周囲にいた人々が、一斉に横断歩道を渡り始める。


 だが樹里は動かなかった。


 一ノ宮へ背を向ければ、そのまま会社の方へ向かうかもしれない。


 それだけは避けたかった。


『ここで話すことではありません。場所を変えます』


「会社の人間に聞かれたくないか」


『会社は関係ありません』


「随分、大事にしてるんだな」


 樹里の目が僅かに細くなる。


 その反応を見て、一ノ宮は満足そうに笑った。


 2人は大通りを離れ、人通りの少ない道へ移動した。


 完全に誰もいない場所ではない。


 近くには店があり、通行人の姿もある。


 樹里は足を止め、一ノ宮へ向き直った。


『改めて伺います。何の用ですか』


「お前に会いに来た」


『それは聞きました』


「なら、少しくらい喜べよ。4年ぶりだぞ」


『あなたに会いたいと思ったことはありません』


「そういうところは変わってないな」


 一ノ宮は懐かしむように樹里を見る。


 その視線に、樹里は不快感を覚えた。


 今の自分を見ているのではない。


 樹里の中に、過去の姿を探している。


「噂を聞いたときは、信じられなかった」


『何の噂ですか』


「Rose girlsの総長が、会社員になってるって話だ」


 一ノ宮が、樹里の服装を見る。


「毎日決まった時間に会社へ行って、上司に頭を下げて、昔のことを知らない連中と笑ってる」


『それの何が問題ですか』


「問題だとは言ってない。ただ、本当にお前が選んだのかと思ってな」


『私が選んだ生活です』


「誰かに押しつけられたんじゃなく?」


『違います』


「逃げ込んだだけでもない?」


 樹里の表情が僅かに強張る。


 一ノ宮は、その変化を見逃さなかった。


「やっぱり、そこか」


『何がですか』


「お前は昔から、都合が悪くなると全部捨てる」


 樹里は答えなかった。


「仲間も、チームも、自分がいた場所も。全部捨てて、知らない人間の中へ逃げた」


『あなたに説明する必要はありません』


「俺は、お前のことを知ってる」


『黙れ』


 樹里の声から、敬語が消えた。


 一ノ宮の笑みが深くなる。


「その目だよ」


『何が』


「今のお前より、そっちの方が似合ってる」


 樹里は、すぐに呼吸を整えた。


 一ノ宮が求めているものが分かる。


 怒らせたい。


 今の樹里が偽物で、過去の樹里こそ本当の姿だと証明したい。


『挑発しても無駄です』


「無駄じゃない。今、一瞬戻った」


『戻っていません』


「俺は覚えてる。誰にも頭を下げず、誰の後ろにも立たなかったお前を」


 一ノ宮が一歩近づく。


「お前は、人に守られて満足する女じゃない。誰かに合わせて、小さく収まる女でもない」


『今の私が、誰かの後ろにいるように見えますか』


「見えるな」


『そうですか』


「腹が立たないのか」


『あなたの評価に興味がありません』


 樹里は、一ノ宮から目を逸らさない。


 怒りはある。


 過去を勝手に語られることへの不快感もある。


 それでも、その感情を相手の望む形では使わなかった。


「土曜日、昔の場所へ来い」


『お断りします』


「まだ場所も言ってない」


『どこであっても、あなたの指定した場所へ1人で行くつもりはありません』


 一ノ宮の眉が僅かに動く。


「1人で?」


『はい』


「お前が、誰かを連れてくるのか」


『何か問題がありますか』


「昔のお前なら、そんなことは言わなかった」


『今は違います』


 樹里の返事に迷いはなかった。


 一ノ宮はしばらく黙り、やがてポケットから1枚の紙を取り出した。


 電話番号だけが書かれている。


「気が変わったら連絡しろ」


『受け取る必要はありません』


「なら、俺から会いに行く」


 一ノ宮は紙を樹里の鞄へ差し込んだ。


「会社でも、あの店でもな」


 樹里の目が冷たくなる。


『会社とRoseには近づかないでください』


「そこが今のお前の弱点か」


『違います』


 樹里は一ノ宮の手首を掴んだ。


 力任せではない。


 だが、一ノ宮の動きを完全に止めるには充分な力だった。


『私に用があるなら、ほかの人間を巻き込むな』


 一ノ宮は掴まれた手首へ視線を落とす。


 そして、楽しそうに笑った。


「力も残ってる」


『試さないでください』


「やっぱり、お前は変わってないよ」


 樹里は手を離した。


『私は変わりました』


「なら、それを見せてみろ」


 一ノ宮は踵を返す。


「連絡、待ってるぞ。総長」


『その呼び方はやめろ』


 一ノ宮は返事をせず、そのまま人混みの中へ消えていった。


 樹里は、しばらく動かなかった。


 鞄へ差し込まれた紙を取り出す。


 握り潰しかけ、手を止める。


 以前の樹里なら、誰にも知らせず指定された場所へ向かっていただろう。


 陽菜と美園を巻き込まないため。


 会社へ迷惑をかけないため。


 すべて自分だけで終わらせるため。


 そう理由をつけて、1人で決めていた。


 樹里はスマートフォンを取り出した。


 3人のLINEを開く。


【一ノ宮に会った】


【今からRoseへ向かう】


 送信する。


 最初に既読をつけたのは陽菜だった。


【1人?】


【今どこ?】


 続けて、美園からも届く。


【私もRoseに戻る】


 樹里は居場所を送り、歩き始めた。


 連絡してから、まだ数秒しか経っていない。


 それでも胸の奥にあった重さが、僅かに変わっていた。


 問題が消えたわけではない。


 一ノ宮の言葉も、まだ残っている。


 だが、今度は2人が知っている。


 それだけで、1人で抱えていた頃とは違った。


 Roseへ着くと、店の入口には閉店の札が掛けられていた。


 美園が急遽、客を帰したのだろう。


 樹里が扉を開ける。


 陽菜はすでに来ていた。


『総長』


 樹里の姿を見るなり、近づいてくる。


『何かされた?』


『何もされていない』


『怪我は?』


『ない』


 陽菜は樹里の腕や顔を確認する。


 美園もカウンターの中から出てきた。


『どこで会ったの?』


『会社から駅へ向かう途中』


 美園の表情が厳しくなる。


『会社を知られてるんだ』


『おそらく』


『何て言われた?』


 樹里は、一ノ宮との会話を最初から話した。


 会社員になった今の生活を疑われたこと。


 昔の場所へ来るように言われたこと。


 1人では行かないと断ったこと。


 来なければ、会社かRoseへ会いに来ると言われたこと。


 話し終えるまで、陽菜も美園も口を挟まなかった。


『これを渡された』


 樹里は電話番号の書かれた紙を、カウンターへ置いた。


 陽菜が、その紙を睨む。


『あたしが電話する』


 手を伸ばしたところで、樹里が紙を押さえた。


『待て、陽菜』


『でも、会社にまで来るかもしれないんでしょ』


『だからこそ、勝手に動くな』


『総長を見張ってたんだよ』


『分かっている』


『分かってるなら――』


『3人で決める』


 樹里の言葉に、陽菜の動きが止まった。


『私も勝手に行かない。だから、陽菜も1人で動かないでくれ』


 陽菜は何かを言い返そうとして、口を閉じる。


 沙月のいる事務所へ、1人で向かったのは陽菜だ。


 あのときの自分と、今の樹里が重なる。


『……分かった』


 陽菜は紙から手を離した。


『ごめん』


『謝る必要はない』


 美園は電話番号を見つめながら、煙草へ火をつける。


『無視しても、また来ると思う』


『そうだな』


『でも、一ノ宮の条件をそのまま飲む必要もない』


 美園は煙を吐き、樹里を見る。


『会うなら、こっちが場所と条件を決めよう』


『私もそう考えていた』


『場所は、人目があるところ』


『一ノ宮は、昔の場所を指定するつもりだったようだ』


『だから行かない。あいつの思い出に付き合う必要ないよ』


 陽菜も頷く。


『3人で行く』


『ああ』


『武器も、ほかの人間も連れてくるなって言う』


『それでも来るなら、話は聞く』


 美園が続けた。


『来ないなら、それまで。会社やRoseへ来たら、今度は警察に相談する』


 かつてなら、警察という選択肢は最初からなかった。


 自分たちの問題は、自分たちの力で終わらせる。


 それが当然だと思っていた。


 今は違う。


 過去のやり方へ戻らず、現在の自分たちが選べる手段を使う。


『それでいい』


 樹里が答える。


 陽菜は、まだ納得しきれない顔をしていた。


『殴らなくていいの?』


『何で殴る前提なの』


 美園が呆れる。


『総長にあんなこと言ったんでしょ』


『手を出してきたら考える。でも、こっちからは駄目』


『美園さん、昔と随分変わったね』


『陽菜も変わりなよ』


『あたしは今でも必要ならやるよ』


『必要にしないために、今話してるの』


 陽菜は不満そうに口を閉じた。


 樹里は、2人の会話を聞いていた。


 一ノ宮は、昔の樹里を覚えていると言った。


 だが、昔の樹里の隣にいた2人も変わっている。


 何も変わらない人間などいない。


『遠藤さんには、話す?』


 美園が尋ねる。


『話さない』


 樹里はすぐに答えた。


『遠藤さんは、これ以上巻き込まない』


『うん。私もそれでいいと思う』


 陽菜も頷く。


『凛ちゃんには、今の日常にいてほしい』


 一ノ宮との対峙は、過去を知った凛の役目ではない。


 これは、かつて同じ場所を走っていた3人が終わらせるべきことだった。


 樹里は電話番号を自分のスマートフォンへ入力する。


 短い文章を打った。


【話は聞きます】


【ただし、場所と時間はこちらで決めます】


【私1人では行きません。陽菜と美園も一緒です】


【ほかの人間を連れてこないでください】


 送信する前に、2人へ画面を見せる。


『これでいいか』


『うん』


『送って』


 樹里は、2人の目の前で送信ボタンを押した。


 既読は、すぐについた。


 しばらくして、一ノ宮から返事が届く。


【3人揃ってか】


【懐かしいな】


 陽菜の表情が歪む。


『何が懐かしいだよ』


『挑発に乗らない』


 美園が制する。


 続けて、もう1通届いた。


【条件は飲む】


【昔のお前が、本当にいなくなったのか見せてもらう】


 樹里は画面を見つめる。


 一ノ宮は、今の樹里を認めるつもりで来るのではない。


 昔の姿が今も残っていることを確かめ、引きずり出そうとしている。


 それでも、樹里はもう1人ではない。


『総長』


 陽菜が呼ぶ。


『怖くない?』


 樹里はすぐには答えなかった。


 怖いのかもしれない。


 一ノ宮に会うことではない。


 過去の自分を目の前へ突きつけられることが。


 今の生活まで偽物だと言われ、自分自身が迷うことが。


『分からない』


 樹里は正直に答えた。


『だが、2人がいる』


 陽菜と美園を見る。


『だから、行ける』


 美園が静かに笑う。


『うん』


 陽菜も樹里の隣へ立った。


『今度は、3人で行こう』


『ああ』


『終わったら、3人で帰る』


 美園の言葉に、樹里と陽菜が頷く。


 かつてのように戦うためではない。


 過去へ戻るためでもない。


 今の自分たちを、過去の中へ置き去りにしないために。


 今度は3人で、一ノ宮と向き合う。

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