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116話「いつもの場所」

Roseを出たあとも、凛の耳には3人の言葉が残っていた。


 樹里はRose girlsの総長だった。


 陽菜は副総長。


 美園も、2人と一緒に走っていた。


 法律に反することをした。


 自分たちの手で、人を傷つけた。


 4年前、樹里は何も告げずに消え、Rose girlsは終わった。


 凛は自宅へ帰ってからも、すぐには眠れなかった。


 ベッドに入って目を閉じるたび、今まで見てきた3人の姿が浮かぶ。


 会社で黙々と仕事をする樹里。


 周囲を揶揄い、笑わせる陽菜。


 Roseで客の話を聞き、帰る場所を守っている美園。


 その姿に、樹里が話した過去を重ねようとする。


 だが、うまく重ならない。


 凛はスマートフォンを手に取った。


 検索画面を開き、Rose girlsと入力する。


 指が、検索ボタンの上で止まった。


 検索すれば、何かが出てくるかもしれない。


 当時を知る誰かの書き込み。


 噂。


 写真。


 3人が話さなかった出来事。


 それを読めば、もっと分かるのだろうか。


 凛は入力した文字を見つめたあと、すべて消した。


 誰が書いたかも分からない言葉で、3人を知ったつもりになりたくなかった。


 だからといって、今まで見てきた3人だけを信じればいいとも思えない。


 怖い。


 それは、嘘ではなかった。


 特に樹里が、


『私自身の手で傷つけた人間もいます』


 と言ったときの目が、頭から離れない。


 過去を誤魔化さず、正当化もしなかった。


 だからこそ、その言葉は重かった。


 スマートフォンが震える。


 青柳からのLINEだった。


【遅い時間ですが、まだ起きていますか】


 時計を見る。


 日付が変わる少し前だった。


【起きています】


 短く返す。


 すぐに、青柳から次のメッセージが届いた。


【先ほど、次の日曜日の水族館について調べていました】


【見たい展示などがあれば教えてください】


 いつもと変わらない言葉だった。


 今日、凛の中では大きなものが変わった。


 だが、青柳は何も知らない。


 会社の同僚たちも。


 Roseの客たちも。


 少し前までの自分も、何も知らなかった。


【少し、仕事が遅くなりました】


【水族館については、また明日連絡します】


 凛はそう返信した。


 話したいとは思わなかった。


 これは自分の秘密ではない。


 誰かに相談して楽になるために、口にしていいことでもない。


 青柳からは、短い返事が届いた。


【分かりました】


【無理をせず、ゆっくり休んでください】


 凛は礼だけを返し、スマートフォンを伏せた。


 眠りにつけたのは、それから随分あとだった。


 翌朝。


 凛が島川不動産へ出社すると、営業部にはすでに何人かの社員が来ていた。


 樹里は自分の席で資料を確認している。


 陽菜は給湯室から戻ってきたところだった。


 凛に気づき、その足がわずかに止まる。


『凛ちゃん、おはよう』


 いつもと同じ声を出そうとしている。


 それでも、表情には隠しきれない不安があった。


「おはようございます、陽菜さん」


 凛も、いつもと同じように返した。


 それだけで陽菜の表情が少し緩む。


 凛は自分の席へ向かい、鞄を置いた。


 パソコンを起動しようとしたところで、樹里が近づいてくる。


『おはようございます、遠藤さん』


「おはようございます、日高先輩」


 その呼び方に、樹里の目がわずかに動く。


 だが、何も言わなかった。


『昨日は遅くまで、申し訳ありませんでした』


「大丈夫です」


『眠れましたか』


「少しだけ」


『そうですか』


 樹里は、それ以上尋ねなかった。


 今までどおりにしてほしいとも、昨夜のことを忘れてほしいとも言わない。


『無理はしないでください』


「はい」


 樹里は自分の席へ戻った。


 凛は、その背中を見つめた。


 昨日までと何も変わらない。


 背筋を伸ばし、無駄な動きをせず、誰よりも早く仕事に取りかかっている。


 だが凛は、樹里の手へ何度も目を向けてしまった。


 資料をめくる指。


 ペンを持つ手。


 電話の受話器を取る手。


 その手が、誰かを傷つけた。


 そう考えるたび、胸の奥に硬いものが残る。


 午前中。


 管理物件に関する連絡が、凛の元へ入った。


 必要書類の到着が遅れていることに、相手は強く苛立っていた。


「申し訳ありません。現在、発送状況を確認しておりまして」


『確認すると言ったまま、昨日から何も連絡がないじゃないか』


 受話器の向こうから、荒い声が響く。


 凛の不手際ではない。


 担当者からの引き継ぎが遅れ、確認に時間がかかっている。


 それでも、電話を受けた凛が対応しなければならなかった。


「本日中には、必ず状況を――」


『昨日も同じことを聞いたんだよ』


 声がさらに大きくなる。


 周囲の社員が、凛の方を見る。


 凛は受話器を握り直した。


 そのとき、机の横に樹里が立った。


『遠藤さん』


「はい」


『代わります』


「ですが」


『状況は把握しています』


 樹里が手を差し出す。


 凛の視線が、その手に止まった。


 一瞬だけ、身体が動かなかった。


 樹里も気づいた。


 差し出していた手を、わずかに引こうとする。


 凛は受話器から手を離し、樹里へ渡した。


 指先が、ほんの少しだけ触れる。


 樹里は何も言わず、受話器を耳へ当てた。


『お電話を代わりました。日高と申します。このたびは、弊社からのご連絡が遅れ、申し訳ありません』


 樹里の声は落ち着いていた。


 相手が声を荒らげても、言葉を遮らない。


 言い訳もせず、まず不満を最後まで聞く。


『おっしゃるとおりです。確認中という言葉だけでは、いつまでお待ちいただくのか分かりません』


 事実を整理し、何時までに誰が確認し、どの手段で連絡するかを明確に伝える。


 やがて、受話器の向こうの声が少しずつ落ち着いていく。


『私から、午後2時までに一度ご連絡します。書類の到着が確認できていない場合も、その時点の状況を必ずお伝えします』


 樹里は相手の了承を得て、電話を切った。


 受話器を置く。


『遠藤さん、申し訳ありません。引き継ぎが不充分でした』


「日高先輩の責任ではありません」


『私も確認に入っていました。責任がないとは言えません』


 樹里は担当者を責めなかった。


 誰の失敗かを探す前に、何が足りなかったのかを確認する。


『発送元への確認は私がします。遠藤さんは、先方へ送る報告メールの準備をお願いできますか』


「はい」


『分からないところがあれば、聞いてください』


 樹里は自分の席へ戻る。


 凛は、もう一度その手を見た。


 同じ手だった。


 過去に誰かを傷つけた手であり、今は誰かの仕事を奪うのではなく、支えるために差し出された手。


 過去が消えたわけではない。


 今の行動が、過去を無かったことにするわけでもない。


 だが、人は1つの行為だけで作られているのでもない。


 凛は報告メールを作り始めた。


 正午を過ぎる頃には、書類の所在も確認できた。


 樹里は約束した時間より前に先方へ連絡し、問題を収めた。


 昼休み。


 陽菜は凛のそばへ来ようとして、何度も足を止めていた。


 凛がそれに気づく。


「陽菜さん」


『何?』


「先ほどから、何かありますか」


『ないよ』


「では、なぜ何度もこちらを見ているんですか」


『……話しかけていいのかなと思って』


「仕事中は、今までと同じで構いません」


『仕事中だけ?』


「今は、それ以上のことはまだ分かりません」


 凛は正直に答えた。


 陽菜の表情が僅かに曇る。


 それでも、すぐに頷いた。


『分かった』


「今日の昼食は、どうするんですか」


『凛ちゃんと柚希ちゃんを誘おうと思ってた』


「では、行きましょう」


『いいの?』


「昼食へ行くのに、何か問題がありますか」


『ない』


 陽菜の返事は早かった。


『柚希ちゃん呼んでくる』


 嬉しそうに柚希の席へ向かう。


 凛は、その背中を見送った。


 今までどおりではない。


 もう、何も知らなかった頃には戻れない。


 それでも、すべてを一度に変える必要もないと思った。


 終業時刻を迎えた。


 凛は自分の机を片づけ、鞄を持つ。


 今夜は、Roseを手伝う予定になっている。


 約束したのは、一ノ宮が来る前だ。


 美園から、来なくてもいいというLINEは届いていない。


 凛からも、休むとは伝えていなかった。


 会社を出て、Roseへ向かう。


 歩いている間も、本当に行くべきなのか迷っていた。


 顔を合わせれば、昨日の続きを話さなければならないかもしれない。


 美園の背中にある薔薇を、今までと同じ目で見られるかも分からない。


 それでも凛は、足を止めなかった。


 Roseの前へ着く。


 まだ看板の灯りはついていない。


 凛は一度息を整え、扉を開けた。


「こんばんは」


 開店準備をしていた美園が顔を上げる。


 凛の姿を見たまま、動きを止めた。


『……来てくれたんだ』


「シフトを休むとは言っていません」


『そうだけど』


「遅刻もしていません」


『うん。時間どおり』


 美園は何かを言おうとして、やめた。


 いつも凛が使っているエプロンは、カウンターの上に置かれていた。


 来ないかもしれないと思いながら、それでも用意していたのだろう。


 凛はエプロンを手に取り、腰へ巻いた。


「開店準備は、どこまで終わっていますか」


『グラスは出した。あとは氷と、おしぼり』


「では、私がおしぼりを準備します」


『凛ちゃん』


「はい」


『無理してない?』


 凛の手が止まる。


「分かりません」


 美園は黙って、続きを待った。


「昨日聞いたことを、もう気にしていないとは言えません」


『うん』


「怖くないとも言えません」


『うん』


「まだ、考えています」


 凛は美園を見る。


「でも、考えることと、ここへ来ないことは別です」


 美園の目が、僅かに揺れる。


「私は今日、ここで働くと約束していました」


『そっか』


「それに」


 凛はカウンターの上へ視線を落とす。


「昨日知ったことだけで、今まで私が見てきた美園さんまで、知らなかったことにはしたくありません」


 美園はすぐには答えなかった。


 煙草へ手を伸ばすことも、笑って誤魔化すこともしない。


『ありがとう』


「まだ、答えを出したわけではありません」


『分かってるよ』


「今までどおりにできるかも、分かりません」


『それでも来てくれた』


「はい」


『今日は、それで充分』


 美園はそれ以上何も求めなかった。


 凛も過去について尋ねなかった。


 2人は、開店準備へ戻る。


 凛がおしぼりを揃え、美園が氷を用意する。


 開店時刻になると、最初の客が入ってきた。


「凛ちゃん、今日もいるんだ」


「こんばんは」


「いつものお願い」


「水割りですね」


 凛はボトルを手に取った。


 美園が隣でグラスを用意する。


 目が合う。


 どちらからともなく、わずかに笑った。


 その夜もRoseは開いた。


 客が来て、酒を飲み、笑いながら帰っていく。


 美園が酒を作り、凛がそれを運ぶ。


 昨日までと、同じように。


 昨日までとは、少し違うまま。


 翌朝。


 凛は作成した資料を持ち、樹里の席へ向かった。


「日高先輩」


 樹里が顔を上げる。


『はい』


「昨日の案件について、報告書をまとめました。確認をお願いします」


 凛は資料を差し出した。


 樹里は一瞬だけ、その手を見る。


 そして、両手で受け取った。


『ありがとうございます。確認します』


「修正があれば教えてください」


『分かりました』


 凛は自分の席へ戻る。


 樹里は、受け取った資料へ視線を落とした。


 いつもの呼び方。


 いつもの仕事。


 それは、何も知らなかった頃へ戻ったという意味ではない。


 知ったうえで、凛がもう一度ここへ立つことを選んだ。


 樹里は資料を持つ手へ、わずかに力を込めた。


 今度は、自分たちがその信頼を裏切らない番だった。

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