『星を見る道具』
休日の昼下がり。
山の上にある小さな展望公園で、高瀬明雄はベンチに腰を下ろしていた。
駐車場には、白いセローが一台。
ヘルメットをベンチの脇に置き、明雄は鞄から小さな双眼鏡を取り出した。
スーパーワイドビノ36。
黒い本体を手に、明雄は遠くの山並みを眺めていた。
「高瀬さん?」
不意に声をかけられ、明雄が振り返る。
「……神谷さん」
そこに神谷愛子が立っていた。
どうやら愛子も、この展望公園へ来たらしい。
「やっぱり高瀬さんだ」
「こんなところで会うとは思いませんでした」
「私もです」
愛子は笑いながら近づいてくる。
そして、明雄が手にしているものに目を留めた。
「それ、なんですか?」
明雄は手元を見る。
「ああ、これですか?」
「はい」
「双眼鏡です」
愛子は少し首を傾げた。
「なんだか普通の双眼鏡と違いません?」
「そうですね」
明雄は双眼鏡を愛子に見せる。
「スーパーワイドビノ36っていうんです」
「スーパーワイドビノ……?」
「はい。倍率はそれほど高くないんですが、見える範囲がすごく広いんです」
「へえ」
愛子は興味深そうに眺める。
「覗いてみますか?」
「いいんですか?」
「どうぞ」
明雄から双眼鏡を受け取り、愛子は遠くの山へ向けた。
「……わあ」
「どうですか?」
「すごい」
愛子は双眼鏡を目から離さない。
「遠くが大きく見えるっていうより、景色が広がって見えます」
「それが面白いところなんです」
「なんだか不思議ですね」
愛子はしばらく景色を眺めてから、双眼鏡を下ろした。
「高瀬さん、こういうの持ってたんですね」
「はい」
「バイクに乗って、双眼鏡も持ってきて……」
愛子は駐車場に停めてあるセローを見る。
「もしかして、こういうところによく来るんですか?」
「たまに来ます」
「何を見るんです?」
「景色とか、鳥とかです」
「鳥も?」
「見つけると面白いですよ」
明雄はそう言って笑った。
愛子は手の中のスーパーワイドビノ36を眺める。
「これ、最近買ったんですか?」
「そうなんですよ」
「どうして双眼鏡を買おうと思ったんです?」
明雄は少し考えてから答えた。
「仕事帰りに、星がすごく綺麗だったんです。それで、星を見てみたくなって」
「なるほど」
愛子は手の中の双眼鏡を見る。
「バイクも、ずっと同じのに乗ってますよね」
「まあ、そうですね」
「カメラも古いのを使ってるって言ってましたよね」
「そうですね」
愛子は少し笑った。
「この双眼鏡も長く付き合うことになるんでしょうね」
明雄は手の中のスーパーワイドビノ36を見る。
「そうかもしれませんね」
山の上を、涼しい風が吹き抜けていく。
愛子は再び双眼鏡を覗いた。
「これで星も見えるんですか?」
「もちろんです」
「星を見るなら、望遠鏡のほうがいいんじゃないですか?」
「一つの星を大きく見るなら、そうですね」
明雄は空を見上げた。
「でも、星空を広く見るなら、こういう双眼鏡も面白いですよ」
「星空を広く?」
「はい。星を一つだけ見るんじゃなくて、その周りまで一緒に見るんです」
「……なるほど」
愛子も空を見上げる。
昼の空には、まだ星は見えない。
それでも、さっき見た広い視野を思い出すと、夜の空が少し気になった。
「一度、見てみたいです」
「星、ですか?」
「はい」
愛子は少し照れたように笑った。
「この双眼鏡で見る星空」
明雄は愛子を見る。
「じゃあ、今度行きましょうか」
「本当ですか?」
「はい」
「どこに行くんです?」
「暗いところなら、どこでもいいですよ」
「じゃあ……」
愛子は少し考えてから言った。
「高瀬さんのお勧めの場所に連れていってください」
「分かりました」
明雄はスーパーワイドビノ36を鞄にしまった。
その横で愛子はもう一度、青い空を見上げる。
まだ星の見えない昼の空。
けれど愛子には、その向こうにある夜空が、少しだけ楽しみになっていた。




