『満天』
夜。
仕事を終えた明雄は、転勤先での新しい生活にも、少しずつ慣れ始めていた。
帰り道。
明雄はふとバイクを停めた。
街の明かりが少ない場所だった。
エンジンを切ると、辺りは静かになった。
風の音と、遠くで鳴く虫の声が聞こえる。
明雄はヘルメットを脱ぎ、空を見上げた。
「……」
星が見えた。
ひとつ、ふたつではない。
空いっぱいに、星が広がっていた。
しばらく、そのまま見上げていた。
転勤する前に暮らしていた場所では、こんなにたくさんの星を見ることはなかった。
街の明かりがあって、夜空を見上げても、見える星は限られていた。
けれど、ここでは違う。
暗い空の中に、小さな光がいくつも浮かんでいる。
明雄は、星の名前をほとんど知らない。
星座にも詳しくない。
それでも、見ているだけでよかった。
「……ここには、ここでの良さがあるんだな」
明雄は小さく呟いた。
転勤してから、以前の場所とは違うことばかりが目につくこともあった。
仕事も変わった。
周りにいる人も変わった。
帰る道も、見える景色も変わった。
けれど、こうして空を見上げてみると、ここにはここにしかないものがある。
明雄は、もう一度空を見上げた。
星を見ているうちに、ふと思った。
もう少し近くで見たら、どんなふうに見えるんだろう。
今は小さな光にしか見えない星も、何か違って見えるかもしれない。
「……双眼鏡があったら、もう少し見えるのかな」
そう呟いて、明雄は少し考えた。
天体望遠鏡ほど大げさなものじゃなくていい。
ただ、この空をもう少し近くで見てみたい。
そう思った。
「双眼鏡、買ってみるか」
明雄は空を見上げたまま、そう呟いた。
しばらくして、ヘルメットを被る。
エンジンをかける。
バイクの音が、静かな夜に響いた。
走り出す前に、明雄はもう一度だけ空を見上げた。
満天の星が、静かに輝いていた。




