『辞令』
朝、いつものように出勤した明雄は、いつもと変わらない施設の玄関を通った。
職員に挨拶をし、事務室へ向かう。
それも、今日まではいつも通りだった。
午前の仕事が一段落した頃、明雄は上司から呼ばれた。
会議室に入ると、机の上に一枚の封筒が置かれていた。
「高瀬さん。辞令です」
明雄は封筒を受け取った。
中身を確認する。
別の地区にある施設。
施設長。
栄転だった。
「……そうですか」
思わず、そんな言葉が出た。
驚きはあった。
けれど、意外ではなかった。
これまでの仕事を考えれば、いつかそういう話が来ることは分かっていた。
「来月からになります。引き継ぎについては、また改めて話しましょう」
「分かりました」
明雄は頭を下げ、会議室を出た。
廊下を歩きながら、手の中の辞令を見た。
施設長。
普通に考えれば、喜ぶべきことだった。
会社員としても、これまでの仕事を評価された結果なのだろう。
それなのに。
胸の奥には、妙な寂しさがあった。
***
事務室に戻ると、愛子が机に向かっていた。
施設長として、今日もいくつもの書類に目を通している。
明雄は自分の席に座った。
しばらく仕事をしていたが、ふと顔を上げる。
目の前には、いつもの光景があった。
愛子が職員に声をかける。
誰かが相談に来る。
愛子が考える。
明雄が横から意見を出す。
時には、考えが食い違うこともあった。
愛子の仕事の進め方が、自分の考えとは少し違うと思うこともある。
けれど、それで困ったことはなかった。
意見が違えば話せばいい。
話した上で、施設長として愛子が決める。
その決定を、明雄は副施設長として支える。
それだけのことだった。
むしろ、自分とは違う考え方をする愛子を見て、感心することも多かった。
自分ならこうする。
そう思ったことを、愛子は別のやり方で解決する。
そのたびに、
――なるほど。
と、思うことがあった。
そんな毎日が、明雄は嫌いではなかった。
いや。
かなり好きだった。
忙しい日もある。
面倒なこともある。
意見がぶつかることもある。
それでも、職員たちと一緒に働き、愛子を支えながら施設を動かしていく。
それが楽しかった。
だから。
正直に言えば、このままがよかった。
この施設で。
この人たちと。
もう少し、この仕事をしていたかった。
***
昼休み。
明雄は休憩室で一人、コーヒーを飲んでいた。
ポケットの中には、先ほどの辞令が入っている。
何度も考えた。
断ることはできるのだろうか。
もちろん、簡単ではない。
会社からの業務命令だ。
しかも、昇進を伴う転勤だった。
自分一人の気持ちだけで決めていい話ではない。
それに。
明雄には、もう一つ気になることがあった。
若い職員たちのことだった。
もし自分が、
「今の職場が気に入っているから」
という理由で転勤を断ったら。
それを見た若い職員たちは、どう思うだろう。
仕事が嫌だからではない。
待遇が悪いからでもない。
ただ、今の場所が楽しいから。
そんな理由で業務命令を断る姿を見せることになる。
それが、会社員として若い職員たちにどんなメッセージを残すのか。
それが少し気になった。
明雄はコーヒーを一口飲んだ。
「……仕方ないか」
小さく呟いた。
諦めたというより、納得したという方が近かった。
今の場所に残りたい。
それは本当だ。
けれど、会社から任された仕事を引き受ける。
それも、自分が若い頃から続けてきた会社員としての仕事だった。
***
午後。
明雄は愛子のところへ行った。
「神谷さん」
「はい?」
「ちょっと話があります」
愛子が顔を上げる。
明雄は少しだけ間を置いた。
「転勤になりました」
「……え?」
愛子の手が止まった。
「別の地区の施設です。来月から、施設長になります」
愛子はしばらく何も言わなかった。
やがて、
「そうですか」
とだけ言った。
明雄は頷いた。
「はい」
「……栄転ですね」
「そうみたいです」
愛子は少し笑った。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
そこで会話が途切れた。
明雄も、愛子も、何を言えばいいのか分からなかった。
しばらくして、愛子が書類に目を落とした。
「引き継ぎ、大変ですね」
「そうですね」
「私も手伝います」
「お願いします」
それだけだった。
明雄は自分の席へ戻った。
いつものように仕事をする。
愛子も仕事を続ける。
事務室には、いつもの時間が流れていた。
けれど。
明雄には、その景色が少しだけ違って見えた。
あと一か月。
そう思うと、今まで何気なく見ていたものまで、少し大切に思えた。
職員たちの声。
電話の音。
コピー機の音。
窓から入ってくる午後の光。
そして、少し離れた机で仕事をしている愛子。
明雄はそれを見ながら、静かに息を吐いた。
寂しい。
それは、確かだった。
けれど、後悔はなかった。
愛子の下で働けたことも。
意見が違うことがあっても、一緒に仕事をしてきたことも。
この施設で過ごした時間も。
全部、自分にとって大切なものだった。
***
その日の帰り際。
いつものように事務室を出ようとした明雄に、愛子が声をかけた。
「高瀬さん」
「はい?」
「……これからも、一緒にツーリングに行きましょうね」
明雄は少し驚いて、愛子を見る。
愛子は、いつものように穏やかな顔をしていた。
「施設が変わっても、ツーリングは別ですから」
「そうですね」
明雄は笑った。
「また行きましょう」
「はい」
少し間を置いて、愛子が言った。
「じゃあ、またLINEします」
「分かりました」
それだけの短いやり取りだった。
けれど。
明雄は、なんとなく胸のあたりが軽くなるのを感じた。
さっきまで、今の施設を離れることばかり考えていた。
寂しいと思っていた。
それは今も変わらない。
でも、愛子のひと言で少し気持ちが軽くなった。
また一緒に走ればいい。
帰り道。
明雄は玄関を出ると、一度だけ振り返った。
見慣れた建物。
来月からは、ここで働くことはなくなる。
それでも。
また一緒に走る日が来る。
そう思うと、不思議と寂しさばかりではなかった。
明雄はそのまま歩き出した。




