『記憶の鍵』
オリンパスペンEFを使うようになって、しばらく経った。
明雄は出かけるときにはペンEFを持ち歩くようになっていた。
いつも撮るわけではない。
撮らない日もある。
撮っても二枚か三枚。
多くても、六枚くらい。
それで十分だった。
その日、明雄は朝からセローを走らせていた。
目的地は海だった。
少し早く家を出た。
まだ街の空気が冷たく、東の空が薄く明るくなっている。
信号待ちで、明雄は空を見上げた。
雲の向こうから朝の光が広がっている。
明雄はセローを路肩に寄せエンジンを切る。
鞄からペンEFを取り出した。
空に向けて、一枚。
カメラをしまい、再び走り出す。
***
途中で、神谷愛子と合流した。
赤いSRV250が、白いセローの横に並ぶ。
「おはようございます」
「おはよう」
二人はそれ以上多くを話さず、海へ向かった。
朝の道を二台のバイクが走っていく。
愛子は以前よりも、ずいぶん自然にバイクを走らせるようになっていた。
明雄は少し前を走りながら、ときどきミラーを見る。
赤いSRV250がついてくる。
それを確認すると、また前を向く。
***
海に着いた。
広い海が目の前に広がっている。
朝の光を受けて、水面が細かく輝いていた。
愛子がヘルメットを脱ぐ。
「気持ちいいですね」
「うん」
二人はしばらく海を眺めた。
明雄はペンEFを取り出した。
海を一枚。
それから、少し離れたところに立っている愛子を見る。
海を見ている後ろ姿。
明雄は一枚だけシャッターを切った。
「……何撮ったんですか?」
振り返った愛子が聞く。
「海」
「本当に?」
「うん」
愛子は少し怪しそうな顔をした。
明雄は何も言わなかった。
***
昼近くになり、二人は海の見える小さな店に入った。
食事を終えて外に出る。
愛子が店の前で伸びをした。
「今日は来てよかったなあ」
その顔が、いつもより少し子どもっぽく見えた。
明雄はペンEFを取り出した。
「神谷さん」
「はい?」
「ちょっとそのまま」
「え?」
カシャッ。
一枚。
愛子が目を丸くする。
「撮った?」
「うん」
「今の、絶対変な顔でしたよ」
「そうでもないよ」
「見せてください」
「フィルムだから、今は見られない」
「ああ、そうだった」
愛子は笑った。
その笑顔を見て、明雄も笑った。
カメラを鞄に戻す。
それ以上は撮らなかった。
***
帰る時間になった。
海を離れ、二台のバイクは来た道を戻っていく。
夕方。
途中で休憩のために停まった。
西の空が赤く染まっている。
遠くに海が見えた。
朝とは違う海だった。
明雄はセローを降りた。
愛子も隣にバイクを停める。
二人ともヘルメットを脱いだ。
「朝とは全然違いますね」
愛子が言った。
「そうだね」
明雄は空を見た。
赤い光が海に伸びている。
ペンEFを取り出した。
夕日に照らされた海を一枚。
それで終わった。
「今日は何枚撮りました?」
愛子が聞いた。
明雄は少し考えた。
「……五枚かな」
「結構撮りましたね」
「そう?」
「いつももっと少ないイメージでした」
明雄は笑った。
「今日は一日一緒だったから」
愛子はその言葉を聞いて、少しだけ嬉しそうに笑った。
***
家に帰った夜。
明雄は机の上にペンEFを置いた。
今日撮った写真は五枚。
朝の空。
海。
海を眺める愛子の後ろ姿。
店の前で笑う愛子。
夕日の海。
明雄は、まだ現像された写真を見ていない。
朝の冷たい空気。
セローのエンジン音。
赤いSRV250。
海の匂い。
愛子の笑顔。
夕方の光。
机の上のペンEFを眺める。
五枚しか撮っていない。
それでも、その五枚があれば、今日という一日を思い出せそうな気がした。
明雄は、それ以上考えなかった。
カメラを机の引き出しにしまう。
窓の外を見る。
夜空には、雲がゆっくり流れていた。
明雄は少しだけ眺めてから、部屋の明かりを消した。
***
数日後。
愛子は自分のスマートフォンに残っている写真を眺めていた。
最近、ツーリングの途中で写真を撮ることが増えた。
海。
空。
バイク。
何気ない道。
以前なら、そのまま通り過ぎていた景色だった。
ふと、先日の海で明雄が撮っていたことを思い出す。
「……どんな写真だったんだろう」
愛子は小さく呟いた。
そして、次の休日。
赤いSRV250で出かけることにした。
今度は、自分でも少し写真を撮ってみようと思った。




