『朝活』
休日の朝、神谷愛子はバイクのエンジンをかけた。
初めてのツーリングで見た景色や、風を感じながら走る楽しさが、まだ身体のどこかに残っている。
愛子はヘルメットを被り、静かな朝の道へ走り出していった。
***
翌日の昼休み。
明雄が休憩室でコーヒーを飲んでいると、愛子が入ってきた。
「高瀬さん、昨日、走ってきたんですよ」
開口一番だった。
「バイクで?」
「はい。SRVで」
愛子は嬉しそうに笑った。
「一人で?」
「そうなんです」
「どこまで行ったの?」
「海です」
答える声が、少し弾んでいた。
「海へのツーリングって、ずっと憧れてたんです。それで最初のツーリングで海に連れて行ってもらって……」
そこで一度言葉を切り、昨日のことを思い出すように笑った。
「昨日も、海が見えてきたとき、なんだか嬉しくなっちゃって」
愛子は昨日見た景色を思い浮かべるように話し続ける。
「バイクを停めて、しばらく海を見てたんです。波の音を聞いてたら、時間が経つのを忘れそうになって」
「うん」
「帰るのがちょっと惜しくなりました」
明雄は黙って頷いた。
愛子はそんな明雄の様子を見ながら、さらに話を続ける。
「それで帰り道に、今度は違う道を走ってみたんです」
「うん」
「そしたら、また面白いところを見つけて」
愛子の話はなかなか終わらなかった。
明雄はコーヒーを飲みながら、時折「そうか」「うん」と相槌を打つ。
それだけで、愛子には十分だった。
楽しかったことを誰かに話すことも、また楽しかった。
「……今度は高瀬さんにも見せたいな」
愛子が、ふとそう言った。
明雄が顔を上げる。
愛子が笑った。
「また一緒に行きませんか?」
***
まだ空が暗い、早朝だった。
待ち合わせ場所には、赤いSRV250が停まっていた。
愛子がヘルメットを脱いだ。
「おはようございます」
「おはよう」
二人はそれだけ言葉を交わした。
明雄はセローを停め、愛子の隣に並べた。
二台のバイクが、まだ眠っている街の片隅に並んでいる。
しばらくして、二人はヘルメットを被った。
エンジンをかける。
低い鼓動が、静かな朝に響いた。
街灯の下を抜ける。店のシャッターはまだ閉まっている。交差点にも、人影はない。
夜と朝の境目のような時間だった。
明雄は前を走るSRV250の赤いテールランプを見ていた。
愛子は時々、ミラーを確認する。
後ろにセローがいる。
それだけで、少し嬉しかった。
やがて空が少しずつ明るくなってきた。
海へ近づくにつれ、空の色が変わっていく。
濃い青が、薄い青へ。
その下に、水平線が浮かび上がった。
海が見えた。
愛子は少しだけ速度を落とした。明雄もそれに合わせる。
二台は海沿いの道をゆっくり走った。
目的地に着くと、愛子がバイクを停めた。
明雄も隣に停める。
二人はヘルメットを脱いだ。
海は静かだった。
波の向こうに、まだ太陽は見えない。
二人は並んで海を見た。
しばらく、何も話さなかった。
水平線が少しずつ明るくなる。
やがて、その一部が淡い色に染まった。
「あ……」
愛子が小さく声を漏らした。
水平線から、太陽が顔を出した。
海面に光が伸びていく。
波が、その光を細かく揺らしている。
愛子は黙って見つめていた。
明雄も何も言わなかった。
ただ、二人で日の出を見ていた。
しばらくして、愛子が言った。
「来てよかったです」
「ああ」
それだけだった。
太陽が少し高くなる。
朝の海に、いつもの一日が始まろうとしていた。
「帰りましょうか」
「そうだな」
二人はヘルメットを被った。
今度は明雄が先に走り出した。
その後ろを愛子がついていく。
朝の光の中を、二台のバイクが走っていった。




