『海辺の足湯』
高瀬明雄と神谷愛子は、同じ会社で働く同僚である。
仕事で関わる中、二人はツーリングをきっかけに、さまざまな風景を一緒に眺めるようになる。
星や海、山や季節の移ろい。
過ぎていく時間は未来へと続いていく。
ひと月ぶりに、高瀬明雄が出張から戻ってきた。
久しぶりの職場は、出発する前と何も変わっていないように見えた。
けれど、一人だけ気になる人物がいた。
神谷愛子。
明雄は、出張へ出る前に、愛子から仕事のことで悩んでいると聞いていた。
そのときも、明雄は特別なことを言ったわけではない。
「そうか」
「大変だな」
そんなふうに話を聞いただけだった。
そして一か月。
戻ってきた明雄は、廊下で愛子と顔を合わせた。
「おはようございます」
「おはよう、神谷さん」
いつもの挨拶。
けれど、明雄には少し元気がないように見えた。
「……まだ、仕事のこと大変?」
愛子は少し驚いた顔をした。
「覚えてたんですか?」
「一か月前に聞いたから」
「そうでしたね」
愛子は苦笑した。
「まあ……まだ、ちょっと」
それ以上は話さなかった。
明雄も、それ以上は聞かなかった。
その日の帰り、明雄は駐車場で愛子の赤いSRV250を見かけた。
そういえば、と明雄は思った。
『このバイクを買って、もう六年くらいになる。
けれど、ほとんど乗っていなかった』
以前、何気ない世間話の中で、愛子はそんな話をしていた。
免許を取ったはいいけれど、実際に乗るのは怖かったこと。
それでも、本当はツーリングに憧れていること。
「いつか、ちゃんとツーリングしてみたいんですよね」
確か、そんなことを言っていた。
明雄は何となく、それを覚えていた。
「神谷さん」
愛子が振り返る。
「はい?」
「今度の休み、ツーリング行かない?」
「……私が?」
「うん」
愛子は赤いSRV250を見る。
「でも、私……あんまり乗ってないですよ」
「知ってる。ゆっくり走ればいい」
明雄は淡々と言った。
「遠くまで行く必要もないし。疲れたら休めばいい」
「……」
「前にツーリングしてみたいって言ってたじゃん」
愛子が少し目を丸くした。
「そんなことまで覚えてるんですか?」
「何となく」
愛子はしばらく黙っていた。
そして、赤いSRV250を見ながら小さく笑った。
「……行ってみようかな」
「じゃあ決まり」
***
休日。
二台のバイクは、海へ向かって走っていた。
愛子は緊張していた。
久しぶりの長い距離。
発進するだけでも少し慎重になる。
けれど、前を走る明雄は急がなかった。
ミラーで時々、後ろを確認している。
愛子が遅れていれば、速度を上げない。
信号で追いつけば、そのまま何事もなかったように走り出す。
街を抜ける。
山を越える。
そして、海が見えてきた。
愛子はヘルメットの中で、思わず笑った。
ずっと憧れていた。
バイクで海まで走ること。
自分にはできないと思っていたこと。
それが今、できている。
信号で並んだとき、愛子が言った。
「……なんか、楽しいですね」
明雄は笑った。
「よかった」
それだけだった。
***
目的地は、海辺にある小さなカフェだった。
店の横には足湯があり、海を眺めながらゆっくりできる。
二人は飲み物を手に、足湯へ入った。
しばらくはバイクの話や、道中のことなど、他愛のない話をしていた。
海から風が吹いてくる。
静かな時間だった。
やがて、愛子がぽつりと言った。
「……高瀬さん」
「ん?」
「仕事のことなんですけど」
明雄は海を見たまま、黙っていた。
「一か月前に話したじゃないですか」
「うん」
「まだ、ちょっと引きずってて」
「うん」
愛子は湯の中に足を入れたまま、話し始めた。
自分の判断に自信が持てないこと。
周囲の期待に応えられていないように感じること。
何かを決めた後になって、
「あれでよかったのかな」
と思ってしまうこと。
明雄は黙って聞いていた。
「……私、向いてないのかなって」
「そう思うくらい、大変だったんだな」
「はい」
それだけだった。
明雄は、解決策を言わなかった。
「大丈夫」とも言わなかった。
「こうすればいい」とも言わなかった。
ただ、聞いていた。
愛子が話す。
明雄が聞く。
それだけ。
やがて愛子は、今まで誰にも言わなかったことまで、少しずつ話していた。
そして、話し終えたときには、海の色が変わり始めていた。
「……すみません」
「何が?」
「いっぱい話しちゃって」
「いいよ」
「高瀬さん、せっかくのツーリングなのに」
「俺は別にいいけど」
愛子は少し笑った。
「高瀬さんって、こういうとき何も言わないんですね」
「言ったほうがよかった?」
「……いえ」
愛子は、また海を見た。
***
夕方。
海はオレンジ色に染まっていた。
愛子は足湯から上がり、海を眺めた。
「……なんか、少し軽くなりました」
「うん」
「答えが出たわけじゃないんですけどね」
「答えは、自分で出すしかないんじゃない?」
「そうですね」
愛子は少し笑った。
「でも、聞いてもらえてよかったです」
明雄は小さく頷いた。
「うん、ならよかった」
それ以上は言わなかった。
二人はバイクのところへ戻った。
愛子がヘルメットを被る。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「何で高瀬さんがお礼言うんですか」
「付き合ってもらったから」
「じゃあ、お互い様ですね」
「そうだな」
エンジンがかかる。
愛子の赤いSRV250の音が海辺に響いた。
明雄も続いてエンジンをかける。
愛子が先に走り出した。
少し遅れて、明雄も走り出す。
二台のバイクは、夕暮れの海沿いの道を並んで走っていった。
仕事の悩みが消えたわけではない。
明日になれば、また考えなければならない。
それでも。
話したことで、少しだけ軽くなった。
それだけで、今日は十分だった。
二人は何も約束しなかった。
何か特別なことが起きたわけでもない。
ただ、海を見て、足湯に浸かって、話をして。
そして帰る。
夕暮れの道を、二台のバイクが静かに帰っていった。




