『淡墨桜』
春の休日。
高瀬明雄は、白いセローで待ち合わせ場所へ向かった。
少し遅れて、神谷愛子が赤いSRV250でやってくる。
「おはようございます」
「おはようございます」
二人は並んで走り始めた。
街を抜ける。
建物が少なくなるにつれて、道は山の中へ入っていった。
春の風が、ヘルメットの隙間から入り込んでくる。
明雄の前を、山あいの道が続いている。
愛子はその後ろをついていく。
やがて、川沿いの道になった。
水の音が、次第に近くなる。
しばらくして、二人は山の中でバイクを停めた。
その先に、砂防堰堤があった。
石をまとったような堰堤が、山の斜面に沿うように続いている。
上から流れてきた水が、白くなって落ちていた。
「滝みたいですね」
愛子が言う。
「そうですね」
近くまで行くと、水音が大きくなる。
苔のついた石。
濡れた岩肌。
その間を、水が絶えず流れている。
二人はしばらく、その景色を眺めていた。
ふと、愛子が堰堤の脇を見る。
人が通れるほどの細い通路が、奥へ続いていた。
「行けるみたいです」
二人で入ってみる。
薄暗い通路を進むと、やがて水の音が頭上から降ってきた。
その先に、水のカーテンがあった。
堰堤を流れ落ちる水を、裏側から見ることができる。
水越しに、山の緑が揺れている。
陽の光が水滴に当たり、細かな光になっていた。
愛子が立ち止まる。
「きれい……」
明雄も、水の向こうを見ていた。
しばらくして、二人は通路を抜けた。
振り返る。
さっきまで見ていた堰堤が、反対側から見えている。
表から見るよりも、その奥行きがよく分かった。
「面白いですね」
「はい」
***
バイクのところへ戻り、再び走り出す。
山あいの道をしばらく進むと、木々の間から空が広く見えてきた。
川沿いの道を抜け、少しずつ景色が開けていく。
やがて、道の駅が見えてきた。
二人は駐車場にバイクを停めた。
桜のある場所まで、歩いていく。
その先に、大きな桜が立っている。
二人は足を止めた。
太い幹。
長く伸びた枝。
淡い色の花。
淡墨桜。
長い年月を重ねてきた桜が、静かに立っていた。
幹は大きくねじれ、いくつもの太い枝が空へ向かって伸びている。
古い樹皮には深い皺が刻まれていた。
それでも枝先には、春を待っていたように花が咲いている。
淡い花が重なるように広がり、その向こうに春の空が見えていた。
風が吹く。
枝がゆっくりと揺れ、花のかたまりがわずかに動く。
木漏れ日が花の間を通り、地面に淡い影を落としている。
遠くから聞こえていた車の音も、ここでは少し遠く感じられた。
二人は何も言わず、桜を見上げていた。
時間だけが、ゆっくりと過ぎていく。
ときおり、花びらが一枚落ちる。
風に乗って、二人の前を横切っていく。
愛子がそれを目で追った。
花びらは足元に落ち、静かに止まった。
愛子は近くにあった説明板に目を向けた。
「……樹齢、千五百年以上だそうです」
明雄も説明板を見る。
「千五百年……」
二人はもう一度、桜を見上げた。
太い幹。
空へ伸びる枝。
淡い花。
その姿は、さっきまでとは少し違って見えた。
「そんなに昔から、ここにいるんですね」
愛子が静かに言う。
明雄はしばらく桜を見ていた。
「ずっとここで、人の営みを見てきたんでしょうね」
風が吹く。
枝がゆっくりと揺れた。
二人は何も言わず、また桜を見上げた。
大きな枝の向こうに、白い雲がゆっくり流れている。
桜は風に揺れながら、それでも何も変わらないようにそこに立っていた。
二人はそのまま、しばらく桜を眺めていた。
やがて、桜のそばのベンチに腰を下ろした。
風が、枝を揺らしている。
愛子が言った。
「そういえば、この前の休みにひとりで桜を見に行きました」
「そうなんですか」
「電車で」
明雄が少し顔を向ける。
「僕もです」
愛子が笑う。
「どこへ行ったんですか?」
「桜の名所になっている公園です」
「……私もです」
「もしかしたら」
愛子が桜を見上げる。
「入口のところに、桜が並んでいました」
「ありましたね」
「川沿いにも」
「ありました」
「屋台も」
「焼きそば、食べました」
愛子が少し笑った。
「私もです」
「近くにいたんですね」
「そうですね」
二人は少し笑った。
目の前では、淡墨桜の枝が風に揺れている。
やがて、二人は道の駅へ戻った。
売店で団子を買う。
ベンチに並んで座り、桜を眺めながら食べた。
「今日は二人で花見ですね」
「そうですね」
春の風が、ゆっくりと吹いている。
花びらがひとつ、団子の包み紙のそばに落ちた。
愛子がそれを拾い上げる。
明雄は桜を見ていた。
***
やがて二人は帰路についた。
明雄が先を走り、愛子が続く。
山を下りるにつれて、空が広くなっていく。
道路脇の桜が、流れるように後ろへ消えていく。
街が近づいてきた。
分かれ道で、二人はバイクを止めた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「また走りましょう」
「はい」
白いセローと赤いSRV250が、それぞれの道へ走り出した。
春の夕方。
二台のエンジン音が、少しずつ遠ざかっていった。




