『星と海』
夕暮れの山道を、白いセローがゆっくりと登っていく。
春の名残を含んだ風が、ヘルメットの隙間から入り込む。
明雄は急がなかった。
カーブをひとつ曲がるたび、街の明かりが少しずつ遠ざかっていく。
やがて、前にも後ろにも、ほかの車の灯りがなくなった。
道の両側には黒い木々。
その向こうに、暮れ残った空が細く見えている。
しばらくして、道が開けた。
小さな広場。
そこから先には何もない。
明雄はセローを停めた。
エンジンを切る。
最後にマフラーの熱が小さく揺らめき、やがて消えた。
静かだった。
風が木の葉を撫でる。
遠くで虫が鳴いている。
それだけだった。
セローから降り、少し離れた場所に腰を下ろす。
まだ空には薄明るさが残っていた。
西の空がゆっくりと藍色へ沈んでいく。
一本の木の枝が、その空を黒く横切っている。
やがて、最初の星が見えた。
ひとつ。
しばらくして、もうひとつ。
暗闇が深くなるにつれて、星は次々と姿を現した。
明雄は空を見上げたまま動かなかった。
星と星の間には、深い闇がある。
その闇の奥から、さらに遠い光が浮かび上がる。
何千年も、何万年も前に放たれた光。
長い時間を越えて、今ここへ届いている。
スーパーワイドビノ36を空へ向け、覗いた先で星がさらに増える。
ひとつの光の向こうに、いくつもの光がある。
さらにその向こうにも。
果てがない。
今、目の前で瞬いている光も、その光が放たれた頃には、まだ今の自分は生まれていなかった。
この山も、
この道も、
この場所も、
まだ違う姿をしていたのかもしれない。
それでも光は、長い時間を越えて、今ここに届いている。
双眼鏡を下ろし、肉眼で空を見上げる。
遠い星々を見ていると、自分が過ごしてきた時間さえ、ひとつの流れの中にあるように思えた。
生まれて、
育ち、
働き、
やがて歳月を重ねていく。
その間にも、
季節は巡り、
人が生まれ、
人が去り、
また新しい人が歩き始める。
遠い過去から現在へ、
そしてまだ見えない未来へ、
静かに続いている。
そんなことを思いながら、再び双眼鏡を空へ向けた。
遠い過去から届いた光が、静かに夜を満たしている。
その夜、明雄にとって空は、果てのない時の流れそのものだった。
---
その頃、別の場所では、赤いSRV250が海へ向かう道を走っていた。
神谷愛子だった。
夕暮れの海沿い。
低くなった陽が、道路の先を淡く照らしている。
愛子は急がなかった。
海が近づくにつれて、潮の匂いが強くなる。
やがて、海を見渡せる小さな場所にSRVを停めた。
エンジンを切る。
波の音が残った。
ヘルメットを脱ぎ、海を眺めた。
まだ空には夕暮れの色が残っている。
やがてそれも消え、海と空の境目が暗くなっていく。
愛子は何もせず、ただ海を見ていた。
波が寄せてくる。
足元で砕け、静かに戻っていく。
また次の波が来る。
そのとき、暗い海の中に淡い光が浮かんだ。
ひとつ。
またひとつ。
波の向こうにも、小さな光が現れる。
やがて、暗い海のあちこちに光が浮かんでいた。
青白い光が、波に揺られている。
寄せる波の中にも、遠く離れた沖にも、小さな光がいくつも瞬いている。
その数は、少しずつ増えていった。
海面に浮かぶ無数の光が、波に揺られながら静かに動いている。
いくつもの光が寄せては消え、消えたところに、また新しい光が現れる。
波が淡く輝いていた。
この海では、何億年もの昔から、数えきれない生命が生まれてきた。
小さなものが生まれ、育ち、消えていった。
消えたもののあとに、また新しいものが生まれた。
海から生まれ、海を離れ、姿を変えながら、生命は長い流れをつないできた。
愛子は、波の音を聞いていた。
遠い昔の生命も、今この海にいる生命も、同じ流れの中にある。
けれど、今、目の前にある波は、今しかない。
足元を濡らす水。
頬を撫でる風。
潮の匂い。
胸の奥で静かに続く呼吸。
そのひとつひとつが、確かに今ここにある。
愛子は海を見つめていた。
生命は、ずっと続いている。
その長い流れの中に、今という一瞬がある。
波が寄せる。
戻っていく。
また次の波が来る。
海は何も語らない。
ただ、生きているものを包み、過ぎていくものを受け止め、次の波を静かに送り出している。
夜光虫は波間に淡く輝き続けていた。
---
星と海。
二人は別々の場所で、同じ夜を過ごしていた。
明雄は星を見上げ、遠い過去から届く光の先に、まだ見えない未来を感じていた。
愛子は海を見つめ、連綿と続く生命の流れの中にある、今を感じていた。
山ではそよ風が木々を渡り、
海では波が静かに寄せては返す。
星はさらに高くなり、
夜の海面には、夜光虫が淡く揺れている。
どれほど時間が過ぎたのか、
二人には分からない。
やがて、東の空がほんの少し薄くなった。
山の上で、星がひとつ消える。
またひとつ。
海の向こうにも、朝の気配が滲み始める。
明雄は立ち上がった。
身体についた草を払い、セローへ戻る。
振り返る。
まだいくつかの星が残っている。
しばらく、その空を見上げていた。
やがてヘルメットをかぶる。
キーを差し込む。
静かな山に、セローのエンジン音が響いた。
白い車体が、朝霧の中へ溶け込むように消えていく。
同じ頃、海辺でもSRV250のエンジンが目を覚ます。
赤い車体が、朝焼けの中へ溶け込むように消えていく。
山には、誰もいなくなった。
海にも、誰もいない。
ただ空がある。
ただ海がある。
そして静寂だけが残った。




