↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/20

『星と海』

夕暮れの山道を、白いセローがゆっくりと登っていく。


春の名残を含んだ風が、ヘルメットの隙間から入り込む。


明雄は急がなかった。


カーブをひとつ曲がるたび、街の明かりが少しずつ遠ざかっていく。


やがて、前にも後ろにも、ほかの車の灯りがなくなった。


道の両側には黒い木々。

その向こうに、暮れ残った空が細く見えている。


しばらくして、道が開けた。


小さな広場。

そこから先には何もない。


明雄はセローを停めた。

エンジンを切る。


最後にマフラーの熱が小さく揺らめき、やがて消えた。


静かだった。


風が木の葉を撫でる。

遠くで虫が鳴いている。


それだけだった。


セローから降り、少し離れた場所に腰を下ろす。


まだ空には薄明るさが残っていた。

西の空がゆっくりと藍色へ沈んでいく。


一本の木の枝が、その空を黒く横切っている。


やがて、最初の星が見えた。


ひとつ。

しばらくして、もうひとつ。


暗闇が深くなるにつれて、星は次々と姿を現した。


明雄は空を見上げたまま動かなかった。


星と星の間には、深い闇がある。

その闇の奥から、さらに遠い光が浮かび上がる。


何千年も、何万年も前に放たれた光。

長い時間を越えて、今ここへ届いている。


スーパーワイドビノ36を空へ向け、覗いた先で星がさらに増える。


ひとつの光の向こうに、いくつもの光がある。

さらにその向こうにも。


果てがない。


今、目の前で瞬いている光も、その光が放たれた頃には、まだ今の自分は生まれていなかった。


この山も、

この道も、

この場所も、

まだ違う姿をしていたのかもしれない。


それでも光は、長い時間を越えて、今ここに届いている。


双眼鏡を下ろし、肉眼で空を見上げる。


遠い星々を見ていると、自分が過ごしてきた時間さえ、ひとつの流れの中にあるように思えた。


生まれて、

育ち、

働き、

やがて歳月を重ねていく。


その間にも、

季節は巡り、

人が生まれ、

人が去り、

また新しい人が歩き始める。


遠い過去から現在へ、

そしてまだ見えない未来へ、

静かに続いている。


そんなことを思いながら、再び双眼鏡を空へ向けた。


遠い過去から届いた光が、静かに夜を満たしている。


その夜、明雄にとって空は、果てのない時の流れそのものだった。



---


その頃、別の場所では、赤いSRV250が海へ向かう道を走っていた。


神谷愛子だった。


夕暮れの海沿い。

低くなった陽が、道路の先を淡く照らしている。


愛子は急がなかった。


海が近づくにつれて、潮の匂いが強くなる。


やがて、海を見渡せる小さな場所にSRVを停めた。

エンジンを切る。


波の音が残った。


ヘルメットを脱ぎ、海を眺めた。


まだ空には夕暮れの色が残っている。

やがてそれも消え、海と空の境目が暗くなっていく。


愛子は何もせず、ただ海を見ていた。


波が寄せてくる。

足元で砕け、静かに戻っていく。


また次の波が来る。


そのとき、暗い海の中に淡い光が浮かんだ。


ひとつ。

またひとつ。


波の向こうにも、小さな光が現れる。


やがて、暗い海のあちこちに光が浮かんでいた。


青白い光が、波に揺られている。


寄せる波の中にも、遠く離れた沖にも、小さな光がいくつも瞬いている。


その数は、少しずつ増えていった。


海面に浮かぶ無数の光が、波に揺られながら静かに動いている。


いくつもの光が寄せては消え、消えたところに、また新しい光が現れる。


波が淡く輝いていた。


この海では、何億年もの昔から、数えきれない生命が生まれてきた。


小さなものが生まれ、育ち、消えていった。


消えたもののあとに、また新しいものが生まれた。


海から生まれ、海を離れ、姿を変えながら、生命は長い流れをつないできた。


愛子は、波の音を聞いていた。


遠い昔の生命も、今この海にいる生命も、同じ流れの中にある。


けれど、今、目の前にある波は、今しかない。


足元を濡らす水。

頬を撫でる風。

潮の匂い。


胸の奥で静かに続く呼吸。


そのひとつひとつが、確かに今ここにある。


愛子は海を見つめていた。


生命は、ずっと続いている。


その長い流れの中に、今という一瞬がある。


波が寄せる。

戻っていく。

また次の波が来る。


海は何も語らない。


ただ、生きているものを包み、過ぎていくものを受け止め、次の波を静かに送り出している。


夜光虫は波間に淡く輝き続けていた。



---


星と海。


二人は別々の場所で、同じ夜を過ごしていた。


明雄は星を見上げ、遠い過去から届く光の先に、まだ見えない未来を感じていた。


愛子は海を見つめ、連綿と続く生命の流れの中にある、今を感じていた。


山ではそよ風が木々を渡り、

海では波が静かに寄せては返す。


星はさらに高くなり、

夜の海面には、夜光虫が淡く揺れている。


どれほど時間が過ぎたのか、

二人には分からない。


やがて、東の空がほんの少し薄くなった。


山の上で、星がひとつ消える。

またひとつ。


海の向こうにも、朝の気配が滲み始める。


明雄は立ち上がった。


身体についた草を払い、セローへ戻る。


振り返る。


まだいくつかの星が残っている。


しばらく、その空を見上げていた。


やがてヘルメットをかぶる。

キーを差し込む。


静かな山に、セローのエンジン音が響いた。


白い車体が、朝霧の中へ溶け込むように消えていく。


同じ頃、海辺でもSRV250のエンジンが目を覚ます。


赤い車体が、朝焼けの中へ溶け込むように消えていく。


山には、誰もいなくなった。


海にも、誰もいない。


ただ空がある。

ただ海がある。


そして静寂だけが残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。