『氷瀑』
休日の朝。
高瀬明雄は、白いセローのエンジンをかけた。
冬の朝は冷たかった。
吐く息が白い。
明雄は厚手のジャケットの襟を整え、ヘルメットを被った。
今日の目的地は、山の奥にある滝だった。
冬になると、その滝は凍る。
氷瀑。
以前、写真でその姿を見たことがあった。
けれど、写真で見るのと、実際にその場所へ行くのとでは、きっと違う。
そう思った。
セローは静かな街を抜け、山道へ入っていった。
道路脇には、ところどころ雪が残っている。
日陰になると、路面も白く凍っていた。
明雄は速度を落とした。
急ぐ必要はない。
冬の山道を、ゆっくりと進んでいく。
やがて、山の中にある小さな駐車場に着いた。
バイクを停め、エンジンを切る。
周囲には、ほとんど人の気配がなかった。
明雄はカメラの入った鞄を持ち、歩き始めた。
雪の残る遊歩道を進む。
靴の下で、凍った雪が小さく鳴った。
しばらく歩くと、木々の向こうから水の音が聞こえてきた。
音は小さかった。
冬の山の静けさの中では、それだけがはっきりと聞こえた。
やがて木々が開けた。
その先に、滝があった。
明雄は足を止めた。
滝の流れは、ほとんど凍っていた。
岩肌を覆うように、白く大きな氷の塊が連なっている。
その一部からだけ、細い水が流れ落ちていた。
完全に止まったわけではない。
水は流れながら、凍っていた。
明雄はしばらく何もせず、滝を眺めていた。
静かだった。
夏なら、もっと大きな音を立てて流れているのだろう。
けれど今は、時間まで凍りついたように見えた。
明雄は鞄からペンEFを取り出した。
滝を見る。
構図を決める。
シャッターを一度切った。
小さな音が、静かな山の中に響いた。
たった一枚。
それだけだった。
氷瀑をもう一度眺める。
細い水の流れだけが、静かに動いていた。
明雄はしばらくその場に立っていた。
やがて、ゆっくりと来た道を戻った。
駐車場まで戻ると、自動販売機が一台あった。
明雄は財布を取り出し、缶コーヒーを一本買った。
取り出し口から出てきた缶を、両手で包む。
冷えた指先に、缶の温かさが伝わってきた。
しばらく手を温めてから、プルタブを開ける。
一口飲む。
温かいコーヒーが、冷えた身体にゆっくりと染みていった。
明雄は缶を持ったまま、先ほどまでいた山の方を眺めた。
木々の向こうに、氷瀑がある。
もう一度、見に行くことはしなかった。
ただ、冬の山で飲む缶コーヒーが、今日は妙にうまかった。




