『秋の湯』
休日の朝。
高瀬明雄は、白いセローのエンジンをかけた。
空はよく晴れていた。
夏の頃とは違い、走り始めると少しひんやりした風がジャケットの隙間から入り込んでくる。
明雄はそのまま、山の方へ向かった。
街を離れるにつれて、道沿いの木々が少しずつ色づいていく。
まだ緑の葉も多い。
その中に、黄色や赤が混じっていた。
山道に入る。
カーブをひとつ曲がるたび、景色が変わる。
紅葉した木々が目に入るたび、明雄は速度を少し落とした。
やがて、山の上へ続く道が見えてきた。
その先に、古い寺があった。
境内の脇にある駐車場へセローを停める。
ヘルメットを外したところで、明雄は財布を取り出した。
中に、一枚の温泉チケットが入っていた。
愛子からもらったものだった。
「よかったら使ってください」
そう言われて、そのまま財布に入れていた。
明雄はチケットを確認し、財布をしまった。
参拝を済ませたあと、境内を歩く。
山の上は、街よりも風が冷たかった。
境内から見える山々も、ところどころ赤や黄色に色づいている。
明雄は足を止めた。
しばらく、その景色を眺めた。
それから、温泉へ向かった。
御霊泉。
受付でチケットを渡す。
湯船に身体を沈める。
「……ふう」
思わず声が出た。
窓の外には、色づいた山が見えていた。
赤く染まった木々。
黄色くなった木々。
その向こうには、まだ緑の残る山が続いている。
明雄は湯に浸かったまま、しばらくその景色を眺めていた。
何かを考えるわけでもなかった。
ただ、気持ちがゆっくりほどけていく。
風呂から上がると、食事をすることにした。
窓際の席に座り、温かい食事を頼む。
運ばれてきた料理から、湯気が立っていた。
明雄はゆっくり箸を動かした。
窓の外では、風に揺れた葉が何枚か落ちていく。
食事を終える。
時計を見ると、まだ帰るには早かった。
明雄は外へ出た。
建物の脇にあるベンチに腰を下ろす。
少し冷たくなった風が、頬を撫でていく。
明雄は空を見上げた。
高いところに、薄い雲が流れていた。
秋だった。
少し前まで、夏だった。
そんな当たり前のことを、改めて感じた。
やがて明雄は立ち上がり、セローのところへ戻った。
ヘルメットを被る。
エンジンをかける。
山を下り始める。
夕方の光が、紅葉した木々の間から差し込んでいた。
赤や黄色の葉が、後ろへ流れていく。
街へ近づくにつれて、木々の色は少しずつ薄くなっていった。
やがて、見慣れた道に出る。
明雄はそのまま家へ向かった。
特別なことは何もなかった。
ただ、愛子からもらった温泉チケットを使って、秋の山を走り、温泉に入り、食事をした。
それだけだった。
けれど、家に着いたとき、明雄は少しだけ満足していた。
白いセローのエンジンを切る。
静かになった駐車場に、秋の風が通り抜けていった。




