『手入れ』
休日の朝。
高瀬明雄は、いつもより少し遅く起きた。
窓を開けると、静かな風が部屋に入ってきた。
明雄はコーヒーを淹れ、テーブルにカップを置いた。
その隣には、黒いオリンパスペンEFとスーパーワイドビノ36が並んでいた。
明雄はペンEFを手に取った。
柔らかな布で、ゆっくりと表面を拭いていく。
レンズを拭き、本体についた小さな埃を取り除く。
明雄はカメラをテーブルに置いた。
そして、机の脇に置いてあった写真を手に取った。
ビーナスラインで撮った写真だった。
高原の道。
遠くまで続く空。
明雄は、しばらく写真を眺めていた。
白いセローで走った道。
カーブを曲がるたびに変わっていった景色。
高原を渡っていた風。
緑の高原を、赤いSRV250が軽やかに走り抜けていく。
その姿を追うように、明雄の記憶の中にあの日の風景が広がっていった。
***
コーヒーを一口飲む。
それから、スーパーワイドビノ36を手に取った。
黒い本体を布で拭き、レンズを丁寧に磨いていく。
あの日、ワイドビノの向こうに見えた富士山。
肉眼では小さく見えていた山が、双眼鏡を覗くと少し近く感じられた。
山の形がはっきりと見えた。
その横で、愛子が富士山を眺めていた。
風に髪を揺らしながら、静かに遠くを見つめていた横顔。
明雄は手を止めた。
しばらく何もせず、ワイドビノを眺める。
そして、またゆっくりと布を動かした。
手入れを終えたワイドビノを、ペンEFの隣に置く。
二つの道具が、静かに並んでいる。
窓から入ってきた風が、カーテンをわずかに揺らしていた。
その風には、ほんの少しだけ、秋の気配が混じっていた。




