『ビーナスライン』
夏の終わり。
休日の朝、高瀬明雄は白いセローのエンジンをかけた。
まだ街の空気には、朝の静けさが残っている。
今日は一泊二日のツーリングだった。
行き先は、ビーナスライン。
神谷愛子と二人で、高原を走る予定になっていた。
待ち合わせの場所へ向かう。
しばらくすると、遠くから赤いSRV250がやってきた。
愛子がバイクを停め、ヘルメットを脱ぐ。
「おはようございます」
「おはようございます」
「一泊のツーリングは初めてですね」
「そうですね」
「いつものツーリングと、ちょっと違う感じがします」
「そうかもしれませんね」
二人は準備を整えると、出発した。
***
街を抜ける。
建物が少なくなり、田畑が増えていく。
やがて道は山へ向かって伸び始めた。
朝の風が、少しずつ変わっていく。
平地ではまだ夏の暑さが残っていたが、標高が上がるにつれて、風は涼しくなっていった。
二台のバイクは、一定の距離を保ちながら走っていく。
今日の目的地は、まだ遠い。
二人は山へ向かう道を、淡々と走り続けた。
***
途中の道の駅で休憩した。
二人は飲み物を買い、駐車場の端で休んだ。
愛子が遠くの山を眺めながら言った。
「今、半分くらいまで来ましたかね」
「たぶん、そのくらいですね」
ここまで来ても、まだ目的地は遠い。
二人は飲み物を飲み終えると、またバイクに乗った。
***
午後。
山道はさらに高くなっていった。
木々の間から見える景色が、少しずつ広がっていく。
カーブを曲がるたび、遠くの山が見える。
二台のバイクは、ゆっくりと山を登っていった。
途中で何度か休憩をした。
特別な観光をするわけではない。
ただ走って、止まって、景色を見る。
それだけだった。
走る時間が長くなるほど、街の音は遠ざかっていった。
代わりに聞こえてくるのは、エンジンの音と風の音だけだった。
やがて、今日の宿泊先が近づいてきた。
高原の中にあるホテルだった。
***
ホテルの駐車場にバイクを停める。
ヘルメットを脱ぐと、山の風が吹いていた。
明雄は両腕を上げて、背伸びをした。
腰を伸ばす。
一日走った身体に、少し疲れが残っていた。
愛子も背伸びをして、腰を伸ばした。
「ふぅ……今日はよく走りましたね」
「ええ」
街よりもずっと涼しい。
愛子が空を見上げる。
夕暮れの空に、薄い雲が流れていた。
二人は荷物を持ってホテルへ入った。
***
部屋に荷物を置き、少し休んでから食事に向かった。
ホテルの食事処で、二人は向かい合って座っていた。
テーブルには、山の料理が並んでいる。
「いただきます」
二人は箸を取った。
一日走ったあとの食事は、いつもより美味しく感じた。
明雄はビールを一口飲んだ。
「美味しいですね」
「本当ですね」
愛子の前にもビールが置かれている。
二人は時々言葉を交わしながら、ゆっくりと食事を続けた。
愛子はビールを一口飲んだ。
「なんだか、いいですね」
「何がですか?」
「こうして遠くまで来て、バイクに乗って、ご飯を食べて……」
愛子は笑った。
「今、すごく楽しいです」
「そうですね」
明雄も笑った。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
昼間に走った高原も、今は静かな夜の中にある。
***
食事のあと、二人はホテルの外に出た。
高原の夜は静かだった。
昼間に走った道も、今は暗闇の中に沈んでいる。
遠くに小さな明かりが見える。
風が、昼間より冷たくなっていた。
愛子はしばらく何も言わず、その景色を見ていた。
「静かですね」
「そうですね」
二人は並んで立っていた。
星がいくつか見えている。
しばらく星を見上げてから、二人はホテルへ戻った。
それぞれの部屋へ向かう。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
***
明雄は部屋の窓から、夜の高原を少しだけ眺めた。
今日走った道。
高原の風。
夕暮れの空。
そして愛子の笑顔。
明日は、どんな一日になるだろう。
そんなことを思いながら、静かにカーテンを閉じた。
愛子も部屋に戻り、窓の外を眺めた。
今日走った道。
高原の風。
夕暮れの空。
そして、食事をしながら笑った時間。
どれも、まだ身体の中に残っている。
愛子は小さく笑った。
明日もきっと楽しい。
そう思いながら、ベッドに横になった。
一泊二日のツーリング。
その一日目が終わろうとしていた。
***
翌朝。
ホテルの外へ出ると、空は青かった。
朝の高原には、ひんやりとした風が流れている。
駐車場には、二台のバイクが並んでいた。
白いセロー。
赤いSRV250。
二人は荷物を積み、エンジンをかけた。
昨日とは違う朝の道を、二台のバイクが走り始める。
***
ビーナスライン。
高原の中を、一本の道が伸びている。
左右には緑の草原が広がっていた。
遠くには山々が連なっている。
愛子の赤いSRV250が、先を走っている。
緑の高原の中を、赤い車体が軽やかに走っていく。
明雄は、その後ろ姿をしばらく眺めていた。
緑の高原の中を走る、赤いSRV250。
緑と赤のコントラストが、綺麗だと思った。
その景色が、なぜか心に残った。
高原の風が、二人の間を抜けていく。
明雄は、再び前を向いた。
カーブを曲がる。
また次のカーブへ。
道の先には、青い空が広がっている。
愛子は走りながら、何度も左右の景色を見た。
「気持ちいいですね」
少し離れたところから、愛子の声が届く。
明雄は前を向いたまま、走り続けた。
二台のバイクは、高原の道を進んでいった。
しばらく走ったところで、二人は富士見台展望台に立ち寄った。
バイクを停め、展望台へ向かう。
そこからは、遠くまで山々が見渡せた。
そして、その向こう。
富士山が見えた。
愛子が足を止めた。
「……富士山」
明雄も立ち止まる。
雲の上に、山頂が見えている。
遠い。
けれど、はっきりと分かる。
二人はしばらく黙って眺めていた。
「ここから見えるんですね」
「そうですね」
愛子は富士山から目を離さなかった。
「大きいですね」
明雄は頷いた。
「ええ」
しばらくして、明雄が言った。
「こんな遠くまで来たんですね」
「そうですね」
愛子は笑った。
二人はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、遠くにある富士山を見ていた。
展望台を後にする。
再び二台のバイクにまたがった。
エンジンがかかる。
高原の風が、ヘルメットの隙間から入り込んできた。
ビーナスラインを走る。
さっき見た富士山は、もう見えない。
それでも、二人の中には残っていた。
道は少しずつ下っていく。
高原の景色が後ろへ流れていく。
やがて山を下り、帰りの道へ入った。
***
午後。
街へ近づくにつれて、気温が上がっていった。
高原の涼しい風が、少しずつ遠ざかっていく。
途中の休憩場所で、二人は最後の休憩をした。
愛子が飲み物を飲みながら言った。
「楽しかったですね」
「ええ」
「また行きましょう」
明雄は頷いた。
「そうですね」
二人はバイクに戻った。
しばらく走ると、帰り道の分岐がやってきた。
ここからは、それぞれの道になる。
愛子が手を上げる。
明雄も手を上げた。
赤いSRV250が先に走り出す。
少し遅れて、白いセローも走り出した。
二台の距離が、少しずつ離れていく。
***
愛子は前を向いて走った。
しばらくして、ふと一年前のことを思い出した。
海辺の足湯。
あの日、高瀬さんが誘ってくれた。
あのときの自分は、悩み、迷っていた。
どうしていいのか分からず、一歩を踏み出すことができずにいた。
けれど、あの日、背中を押してもらった。
そして、一歩を踏み出すことができた。
そこから始まったツーリング。
見たことのなかった景色。
感じたことのなかった風。
そして今日。
自分は、こんな遠くまでバイクで来ている。
あのとき誘ってくれて、よかった。
愛子は、少しだけ笑った。
***
少し離れたところを、白いセローが走っていた。
明雄もまた、走りながら思っていた。
自分ひとりだったら、こんな遠くまで来ることはなかった。
神谷さんが誘ってくれたから、ここまで来ようと思った。
海辺の足湯から始まった時間。
星を見た夜。
海を眺めた日。
そして今日の高原。
明雄は、そんなことを思いながら前を向いた。
***
赤いSRV250と白いセローは、それぞれの道を走っていく。
一年前の海辺から始まった道は、いつの間にかこんな遠くまで続いていた。
そしてこれからも、二人はそれぞれの道を走っていく。
明雄は静かにアクセルを開けた。




