同じ景色
夏が来た。
窓の外では朝から蝉が鳴いている。
「一花、帯が曲がってる!」
軽トラの助手席に座ろうとした瞬間、お母さんがすっと手を伸ばした。
「あ、ほんとだ」
「もう。動くからよ」
背中をくるりと回される。
きゅっと帯を締め直される感覚に、一花は小さく肩をすくめた。
今年も結局お母さんに直してもらう。
「はい、これで大丈夫」
「ありがと」
「早く行かないと、また遅れるわよ」
一花は助手席へ腰を下ろした。
シートベルトを引き寄せる。
金具がカチリとなった瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
同じ道を通って。
同じ空を見上げて。
毎年変わらない夏が始まる。
一花は、そっと息を吐いた。
「一花ー!」
先に来ていた美咲が大きく手を振る。
その隣には悠斗たちもいた。
「遅い!」
「ごめん、帯が……」
「わかる。帯むずすぎない?」
そんな話をしながら歩き出す。
屋台の光が並び、人の流れがゆっくり会場へ向かっていた。
ふいに、美咲が身を乗り出すように言う。
「そういえば、悠斗、東京の推薦決まったんだって!」
「えっほんと?」
一花が驚くと、悠斗は少し照れくさそうに笑った。
「まあな」
誇らしげな声に、周りが一気にざわつく。
「すご!」
「おめでとうー。悠斗が東京かぁ」
「なんか信じられない」
「うるさいって」
悠斗が笑いながら頭をかく。
「美咲は専門学校だっけ?」
「リハビリのやつだろ」
「理学療法士ね」
また笑いが起きる。
進路の話。
将来の話。
少し前まで遠かったものが、急に現実になり始めている。
一花はその輪の中で、気づけばまたスマホを見ていた。
通知はない。
前より返信が遅い。
忙しいって、分かっている。
「一花だって東京の大学だもんね」
声をかけられ、はっと顔を上げる。
「え。……うん。まだはっきりと決まってないけど」
そう言いながらスマホを握り直した。
東京。
その言葉を聞くだけで、胸の奥が少しだけざわつく。
「今年は来ないのかな」
美咲が、ふと思い出したように言う。
「何が?」
「湊くん」
一花の指先が少し止まる。
悠斗が「ああ」とうなずいた。
「お父さん、こっちの仕事終わったんだっけ?」
「受験もあるしな」
その言葉のあと、誰もすぐには何も言わなかった。
一花は返事をしない。
屋台の灯り。
人の声。
遠くで上がる歓声。
花火会場のざわめきだけが、少し遠く聞こえていた。
帰宅して部屋に入ると、一花はベッドへ倒れ込むように座った。
足が重い。
ふくろはぎがじんじんする。
浴衣を着て歩き回った疲れが、今になって一気に押し寄せてきた。
白い天井を見上げる。
何も浮かばない。
大好きだったはずの花火なのに、ほとんど覚えていない。
きっと綺麗だった。
でも、一花はただ眺めているだけだった。
スマホを開く。
閉じる。
また開く。
また閉じる。
通知画面には何も増えていない。
一花はスマホを伏せ、小さく息を吐いた。
去年。
ここにいた。
花火の夜。
同じ花火。
同じ景色。
でも、去年とは違った。
「待ってる」
言うつもりじゃなかった。
思い出そうとしなくても、勝手に浮かんでくる。
夏の虫の音だけが静かに聞こえていた。
一花は顔を布団の中へ埋める。
スマホは、何も変わらないままだった。
夏休みも終わりに近づいた金曜日の朝だった。
「おばあちゃん、ごめん。遅れた」
一花は少し息を切らしながらカフェの扉を開けた。
「夜遅くまで勉強してたら風邪ひくよ」
祖母はそう言いながら、店先をほうきで掃いている。
「大丈夫だよ。ごめんごめん」
「受験生は大変だなぁ。あんまり無理しないんだよ」
祖母は小さくため息をついた。
一花は奥に入りロッカーの前でエプロンをつける。
鏡に映った自分の顔は、思っていたより疲れて見えた。
金曜日は観光客も多い。
夏休みの終わりが近いせいか、最近は特に店が混む。
よし、と小さく息を入れて、カウンターへ戻った。
注文を聞いて、飲み物を運んで、片付けて。
忙しく動いている間は、余計なことを考えなくてすむ。
でも。
ドアが開くたび。
期待してしまう。
来るはずないって、分かっているのに。
その時だった。
ブブ、とスマホが小さく震えた。
慌ててエプロンのポケットから取り出した。
ーー湊くん。
その名前を見た瞬間、一花の指が止まった。
「稽古、忙しい」
たった1行。
それだけなのに。
一花はしばらく、画面から目を離せなかった。
嬉しいのか、安心なのか、自分でもよく分からないまま。
返信もできないまま、ただ、指先だけが画面に触れたままだった。
十月。
最後の春高県予選だった。
去年泣きながら先輩を見送った場所。
今年は、自分たちが見送られる側になった。
何度も繰り返したレシーブ。
声が枯れるまで続いた練習。
足が動かなくなっても追いかけ続けたボール。
全部この日のためだった。
声を出す。
繋ぐ。
飛ぶ。
一本を落とすたび、声が少しずつ小さくなる。
それでも、誰も止まらなかった。
この瞬間が終われば、もう次はない。
笛が鳴った。
終わった。
相手コートから歓声が上がる。
誰かが泣いている。
誰かが床を見ている。
一花はコートに座り込んだまま、すぐには動けなかった。
息がうまく整わなかった。
届かなかった。
高校のバレーが、終わった。
手の中に残っている感触だけが、まだ現実みたいだった。
少し遅れて、その事実だけが胸に落ちていった。
一花は机の前に座り直し、パンフレットを手に取った。
色のついた写真と、丁寧な説明文が静かに並んでいた。
「どこにしよう」
小さく呟いて、スマホを手に取る。
大学情報サイトを開く。
少し見て、閉じる。
また別の大学を開く。
どこも、ちゃんとした理由があるように見えた。
それでも、決め手にはならなかった。
共通テストが近づいている。
カレンダーだけが前へ進んでいく。
一花はスマホを開いたまま、机に伏せた。
「……分かんない」
誰もいない部屋に、その声だけが落ちる。
決めなきゃいけないのに。
前みたいに、すぐ答えは出なかった。
部屋は静かだった。
時計の針の音が、やけに近くに感じた。
一花は机に伏せたまま、目を閉じた。




