表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/10

距離

 秋の風は、夏より軽かった。

 体育館の空気は、いつもと違った。

 先輩の声が飛ぶ。

 いつもより強く聞こえた。

 先輩たちが最後のウォーミングアップをしていた。

 10月中旬。

 春高県予選。

 三年生にとって最後の大会だった。

 一花たちはボール拾いやドリンクの準備をしながら、少し離れた場所からコートを見ていた。

 先輩たちが監督のところへ集まる。

 監督が低い声で何かを話していた。

 真剣な横顔。

 うなずく姿。

「佐々木!」

「はい!」

「ボトルお願い!」

「はい!」

 一花は慌てて立ち上がり、コートサイドへ走った。

 審判の笛が高く響く。

 試合が始まった。

「ナイス!」

「ドンマイ!」

「切り替え!」

 声と歓声が体育館中を揺らしていく。

 一本決まるたび、ベンチも応援席も立ち上がった。

 逆に決められるたび、空気が重く沈む。

 流れが行ったり来たりするたびに、心まで一緒に揺れていた。

 二十二。

 二十三。

 スコアが増えるたび、空気が鋭くなる。

 あと一本。

 一花は無意識にタオルを強く握っていた。

 隣では誰かが祈るみたいに両手を組んでいる。

 お願い。

 あと少し。

 最後のボールが床に落ちた瞬間、世界が一拍遅れて静かになった。

 次の瞬間、相手コートから大きな歓声が上がる。

 こちら側は、誰もすぐには動けなかった。

 負けた。

 その言葉を口にする人はいなかった。

 でも、スコアボードだけがはっきりと現実を示していた。

 遅れて泣き声が聞こえた。

 美咲だった。

 肩を震わせながらも、うつむいている。

 一花は泣けなかった。

 ただ、ぼんやり先輩たちを見ていた。

 泣いている人。

 笑っている人。

「ごめん」

「ありがと」

「次、頼んだからね」

 いろんな声が体育館に残っていた。

 終わったんだ。

 その実感だけが、ゆっくり胸の奥へ落ちていく。


 帰り道には、少し冷たい風が吹いていた。

「三年生……」

 隣で美咲が小さくつぶやく。

「終わっちゃったね」

「うん」

「春には卒業かぁ」

「早いね」

「あっという間だったね」

 沈黙が落ちる。

 さっきまで体育館にいた先輩たち。

 でも、次の練習からは、もう今までと同じじゃない。

 一花は足元を見ながら歩いた。

 アスファルトの上に、細長い街灯の影が伸びている。


 その時、スマホが小さく震えた。

 画面を見る。

 湊くん。

「今帰り」

 短い。

 一花は少しだけ笑う。

「うん、今帰ってる」

 送信。

 すぐに既読がついた。

「試合どうだった」

 一花の指が止まる。

 なんて返そう。

 負けた。

 悔しかった。

 でもーー。

「負けたよ。けど最高の試合だった」

 送信すると、少しして返信が来た。

「そっか」

「お疲れ」

「よかった」

 短い言葉。

 なのに、不思議と胸があたたかくなった。

 県予選の日を覚えていてくれた。

 それだけで、少し救われる。

 三年生たちは少しずつ学校に来なくなった。

 受験。

 推薦。

 進路。

 放課後の体育館から、知っている声が減っていく。

 三年生のいないコートは、前より少し広く感じた。

 最初は寂しかった。

 けれど二年生を中心に、新しいチームは少しずつ動き始めていた。

 気づけば、体育館にまた声が戻っていた。

 時間は止まらない。

 どれだけ寂しくても、ちゃんと前へ進んでいく。

 冬は、あっという間に近づいていた。



 三月。

 卒業式の日。

 校門の脇には、まだ少し雪が残っていた。

 踏まれた雪は灰色に汚れていて、春になりきれないまま取り残されているみたいだった。

 式が終わり、体育館から校庭へ向かう途中、一花は制服の袖をぎゅっと握った。

 吐く息はまだ白い。

 空だけが、少しだけ春に近づいていた。

 卒業証書の筒を抱えた先輩たちが、あちこちで写真を撮っていた。

 笑い声。

 泣き声。

 シャッター音。

 色んな音が冷たい空気の中に混ざっていく。

 泣きながら笑っている人がいた。

 最後まで泣かない人もいた。

 けれど、その全員がもう”先輩”じゃなくなっていく。

 一花は少し離れた場所からバレー部の三年生たちを見つめていた。

 卒業する。

 たったそれだけなのに。

 どうしてこんなに遠くへ行ってしまう気がするんだろう。


「一花ー!」

 呼ばれて顔を上げる。

 先輩たちが手を振っていた。

 一花と美咲は慌てて駆け寄る。

「頑張ってね」

「応援してるから」

 先輩たちは笑っていた。

 泣きそうなくらい優しい顔で。

「先輩、卒業おめでとうございます!」

 隣で美咲が声を詰まらせる。

 途中から言葉にならなくなって、とうとう泣き出してしまった。

「ちょ、泣きすぎ」

 先輩が笑いながら頭を撫でる。

 その光景を見た瞬間、一花の胸の奥が急に熱くなった。

 ああ、終わるんだ。

 気づけば、一花も泣いてた。

 涙が止まらなかった。



 新しいクラスの席に座っても、まだ落ち着かなかった。

 窓際の後ろから二番目。

 担任が変わり、隣の席の顔ぶれも変わった。

 クラス替えの直後特有の、落ち着かないざわめきが教室を漂っている。

「もう三年か」

 前の方で誰かがつぶやいた。

 その言葉に、教室のあちこちで小さな笑いが起きる。

 一花は机に頬杖をつきながら、窓の外を見た。

 春の光がグラウンドに落ちている。

 新入生だろうか。

 まだ制服の着慣れてない一年生たちが歩いていた。


 その時、教室のドアが開く。

 担任が分厚いプリントの束を抱えて入ってきた。

「はい、静かにー」

 ぱん、と教卓に紙が置かれる。

「進路希望調査だ」

 先生はそう言うと、前の列から紙を配り始めた。

 一花の机にも、一枚の紙が置かれる。

 進路希望調査票。 

 第一希望。

 第二希望。

 志望校。

 白い記入欄だけが妙に目につく。

 一花はしばらく、何も書けずにいた。

 シャーペンの先だけが紙の上で止まっている。

 先生が教室をゆっくり回り始める。

 一人ずつ紙をのぞき込み、短く声をかけていく。

「佐々木」

「はい」

 顔を上げる。

「進路は」

「……」

「決まったか」

 ペンを持つ手が止まる。

 東京。

 その言葉が、静かに頭へ浮かんだ。

 電車。

 人混み。

 高いビル。

 そして。

 眼鏡。

 夏祭りの夜。

 少し低い声。

 何気ない会話。

 去年の夏が、まだ心の奥に残っていた。

 一花は小さく息を吸う。

「東京の大学に行きたいです」

 口に出した瞬間、自分の声が少しだけ遠く聞こえた。

 先生が「そうか」と短くうなずく。

「ちゃんと調べとけよ。三年は早いからな」

「はい」

 先生が次の席へ向かう。

 一花はもう一度、進路希望の紙を見つめた。

 文字にしようとして、少しだけためらう。

 でも、そのままペンを握り直した。

 その夏だけが、まだ消えずにいた。



 六月。

 インターハイ県予選が始まった。

 初めて県予選のコートに立った。

 朝の体育館は、独特の匂いがした。

 試合の日だけ漂う緊張が、コートの上に薄く積もっている。

 一花はアップをしながら、何度も手のひらをユニフォームで拭いた。

 緊張で、汗が止まらない。

 去年はベンチにいた。

 歓声にかき消されないように。

 先輩たちへ届くように。

 叫ぶことしかできなかった。

 でも今年は違う。

 背番号をつけて、コートに立っている。

 

 審判の笛が鳴る。

 一花はゆっくり息を吸った。

 その瞬間、景色が変わる。

 近い。

 ネットの高さ。

 相手の表情。

 全部が、去年より近かった。

「ナイス!」

「一本!」

 声が飛び交う。

 床を蹴る音が響く。

 走る。

 飛ぶ。

 繋ぐ。

 また走る。

 汗が止まらなかった。

 腕が熱い。

 足が重い。

 呼吸がうまくできない。

 それでも、次の一本だけは落としたくなかった。

「上げる。それだけ……!」

 ボールだけを見る。

 床すれすれで腕を差し出す。

 衝撃が骨まで響いた。

 ラリーが続くたび、息が苦しくなる。

 歓声も。

 相手の声。

 仲間の声も。

 全部混ざって、世界が音で揺れていた。

 けれど結果は、最後に容赦なく決まる。

 最後のボールが落ちた瞬間。

 東北大会。

 届かなかった。

 インターハイ。

 今年も遠かった。

 試合が終わったあと、誰もすぐには言葉を出せなかった。

 一花は膝に手をついたまま、何度も呼吸を繰り返した。

 監督が選手たちの前に立つ。

 一人ひとりの顔を静かに見た。

「下向くな」

 低い声だった。

「まだ終わりじゃない。春高がある」

 一花は肩で息をしながら監督の顔を見上げた。

 額から汗が落ちる。

 苦しい。

 悔しい。

 でも、まだ終わっていない。

 その言葉だけが、ずっと残った。


 帰りのバスは、最初はほとんど静かだった。

 疲労が全身に残っている。

「腕、もう動かないんだけど」

 後ろの席で誰かが言った。

 その瞬間、小さな笑いが起きる。

「わかる」

「肩終わった」

「足つりそう」

 少しずつ、声が戻っていく。

「次は絶対勝つ」

「もっとレシーブ上げる」

「筋トレ増やそ」

「それは嫌」

 また笑いが起きた。

 一花は窓にもたれながら、その声をぼんやり聞いていた。

 さっきまでいた体育館が、バスの窓の向こうで少しずつ小さくなっていく。

 六月の空は、もう夏の色をしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ