距離
秋の風は、夏より軽かった。
体育館の空気は、いつもと違った。
先輩の声が飛ぶ。
いつもより強く聞こえた。
先輩たちが最後のウォーミングアップをしていた。
10月中旬。
春高県予選。
三年生にとって最後の大会だった。
一花たちはボール拾いやドリンクの準備をしながら、少し離れた場所からコートを見ていた。
先輩たちが監督のところへ集まる。
監督が低い声で何かを話していた。
真剣な横顔。
うなずく姿。
「佐々木!」
「はい!」
「ボトルお願い!」
「はい!」
一花は慌てて立ち上がり、コートサイドへ走った。
審判の笛が高く響く。
試合が始まった。
「ナイス!」
「ドンマイ!」
「切り替え!」
声と歓声が体育館中を揺らしていく。
一本決まるたび、ベンチも応援席も立ち上がった。
逆に決められるたび、空気が重く沈む。
流れが行ったり来たりするたびに、心まで一緒に揺れていた。
二十二。
二十三。
スコアが増えるたび、空気が鋭くなる。
あと一本。
一花は無意識にタオルを強く握っていた。
隣では誰かが祈るみたいに両手を組んでいる。
お願い。
あと少し。
最後のボールが床に落ちた瞬間、世界が一拍遅れて静かになった。
次の瞬間、相手コートから大きな歓声が上がる。
こちら側は、誰もすぐには動けなかった。
負けた。
その言葉を口にする人はいなかった。
でも、スコアボードだけがはっきりと現実を示していた。
遅れて泣き声が聞こえた。
美咲だった。
肩を震わせながらも、うつむいている。
一花は泣けなかった。
ただ、ぼんやり先輩たちを見ていた。
泣いている人。
笑っている人。
「ごめん」
「ありがと」
「次、頼んだからね」
いろんな声が体育館に残っていた。
終わったんだ。
その実感だけが、ゆっくり胸の奥へ落ちていく。
帰り道には、少し冷たい風が吹いていた。
「三年生……」
隣で美咲が小さくつぶやく。
「終わっちゃったね」
「うん」
「春には卒業かぁ」
「早いね」
「あっという間だったね」
沈黙が落ちる。
さっきまで体育館にいた先輩たち。
でも、次の練習からは、もう今までと同じじゃない。
一花は足元を見ながら歩いた。
アスファルトの上に、細長い街灯の影が伸びている。
その時、スマホが小さく震えた。
画面を見る。
湊くん。
「今帰り」
短い。
一花は少しだけ笑う。
「うん、今帰ってる」
送信。
すぐに既読がついた。
「試合どうだった」
一花の指が止まる。
なんて返そう。
負けた。
悔しかった。
でもーー。
「負けたよ。けど最高の試合だった」
送信すると、少しして返信が来た。
「そっか」
「お疲れ」
「よかった」
短い言葉。
なのに、不思議と胸があたたかくなった。
県予選の日を覚えていてくれた。
それだけで、少し救われる。
三年生たちは少しずつ学校に来なくなった。
受験。
推薦。
進路。
放課後の体育館から、知っている声が減っていく。
三年生のいないコートは、前より少し広く感じた。
最初は寂しかった。
けれど二年生を中心に、新しいチームは少しずつ動き始めていた。
気づけば、体育館にまた声が戻っていた。
時間は止まらない。
どれだけ寂しくても、ちゃんと前へ進んでいく。
冬は、あっという間に近づいていた。
三月。
卒業式の日。
校門の脇には、まだ少し雪が残っていた。
踏まれた雪は灰色に汚れていて、春になりきれないまま取り残されているみたいだった。
式が終わり、体育館から校庭へ向かう途中、一花は制服の袖をぎゅっと握った。
吐く息はまだ白い。
空だけが、少しだけ春に近づいていた。
卒業証書の筒を抱えた先輩たちが、あちこちで写真を撮っていた。
笑い声。
泣き声。
シャッター音。
色んな音が冷たい空気の中に混ざっていく。
泣きながら笑っている人がいた。
最後まで泣かない人もいた。
けれど、その全員がもう”先輩”じゃなくなっていく。
一花は少し離れた場所からバレー部の三年生たちを見つめていた。
卒業する。
たったそれだけなのに。
どうしてこんなに遠くへ行ってしまう気がするんだろう。
「一花ー!」
呼ばれて顔を上げる。
先輩たちが手を振っていた。
一花と美咲は慌てて駆け寄る。
「頑張ってね」
「応援してるから」
先輩たちは笑っていた。
泣きそうなくらい優しい顔で。
「先輩、卒業おめでとうございます!」
隣で美咲が声を詰まらせる。
途中から言葉にならなくなって、とうとう泣き出してしまった。
「ちょ、泣きすぎ」
先輩が笑いながら頭を撫でる。
その光景を見た瞬間、一花の胸の奥が急に熱くなった。
ああ、終わるんだ。
気づけば、一花も泣いてた。
涙が止まらなかった。
新しいクラスの席に座っても、まだ落ち着かなかった。
窓際の後ろから二番目。
担任が変わり、隣の席の顔ぶれも変わった。
クラス替えの直後特有の、落ち着かないざわめきが教室を漂っている。
「もう三年か」
前の方で誰かがつぶやいた。
その言葉に、教室のあちこちで小さな笑いが起きる。
一花は机に頬杖をつきながら、窓の外を見た。
春の光がグラウンドに落ちている。
新入生だろうか。
まだ制服の着慣れてない一年生たちが歩いていた。
その時、教室のドアが開く。
担任が分厚いプリントの束を抱えて入ってきた。
「はい、静かにー」
ぱん、と教卓に紙が置かれる。
「進路希望調査だ」
先生はそう言うと、前の列から紙を配り始めた。
一花の机にも、一枚の紙が置かれる。
進路希望調査票。
第一希望。
第二希望。
志望校。
白い記入欄だけが妙に目につく。
一花はしばらく、何も書けずにいた。
シャーペンの先だけが紙の上で止まっている。
先生が教室をゆっくり回り始める。
一人ずつ紙をのぞき込み、短く声をかけていく。
「佐々木」
「はい」
顔を上げる。
「進路は」
「……」
「決まったか」
ペンを持つ手が止まる。
東京。
その言葉が、静かに頭へ浮かんだ。
電車。
人混み。
高いビル。
そして。
眼鏡。
夏祭りの夜。
少し低い声。
何気ない会話。
去年の夏が、まだ心の奥に残っていた。
一花は小さく息を吸う。
「東京の大学に行きたいです」
口に出した瞬間、自分の声が少しだけ遠く聞こえた。
先生が「そうか」と短くうなずく。
「ちゃんと調べとけよ。三年は早いからな」
「はい」
先生が次の席へ向かう。
一花はもう一度、進路希望の紙を見つめた。
文字にしようとして、少しだけためらう。
でも、そのままペンを握り直した。
その夏だけが、まだ消えずにいた。
六月。
インターハイ県予選が始まった。
初めて県予選のコートに立った。
朝の体育館は、独特の匂いがした。
試合の日だけ漂う緊張が、コートの上に薄く積もっている。
一花はアップをしながら、何度も手のひらをユニフォームで拭いた。
緊張で、汗が止まらない。
去年はベンチにいた。
歓声にかき消されないように。
先輩たちへ届くように。
叫ぶことしかできなかった。
でも今年は違う。
背番号をつけて、コートに立っている。
審判の笛が鳴る。
一花はゆっくり息を吸った。
その瞬間、景色が変わる。
近い。
ネットの高さ。
相手の表情。
全部が、去年より近かった。
「ナイス!」
「一本!」
声が飛び交う。
床を蹴る音が響く。
走る。
飛ぶ。
繋ぐ。
また走る。
汗が止まらなかった。
腕が熱い。
足が重い。
呼吸がうまくできない。
それでも、次の一本だけは落としたくなかった。
「上げる。それだけ……!」
ボールだけを見る。
床すれすれで腕を差し出す。
衝撃が骨まで響いた。
ラリーが続くたび、息が苦しくなる。
歓声も。
相手の声。
仲間の声も。
全部混ざって、世界が音で揺れていた。
けれど結果は、最後に容赦なく決まる。
最後のボールが落ちた瞬間。
東北大会。
届かなかった。
インターハイ。
今年も遠かった。
試合が終わったあと、誰もすぐには言葉を出せなかった。
一花は膝に手をついたまま、何度も呼吸を繰り返した。
監督が選手たちの前に立つ。
一人ひとりの顔を静かに見た。
「下向くな」
低い声だった。
「まだ終わりじゃない。春高がある」
一花は肩で息をしながら監督の顔を見上げた。
額から汗が落ちる。
苦しい。
悔しい。
でも、まだ終わっていない。
その言葉だけが、ずっと残った。
帰りのバスは、最初はほとんど静かだった。
疲労が全身に残っている。
「腕、もう動かないんだけど」
後ろの席で誰かが言った。
その瞬間、小さな笑いが起きる。
「わかる」
「肩終わった」
「足つりそう」
少しずつ、声が戻っていく。
「次は絶対勝つ」
「もっとレシーブ上げる」
「筋トレ増やそ」
「それは嫌」
また笑いが起きた。
一花は窓にもたれながら、その声をぼんやり聞いていた。
さっきまでいた体育館が、バスの窓の向こうで少しずつ小さくなっていく。
六月の空は、もう夏の色をしていた。




