待ってる
夏休みの日曜。
十五時を過ぎた頃。
「一花ー」
厨房の方から祖母の声が飛んでくる。
「向こうのテーブル拭いといて」
「はーい」
布巾を手に取りながら返事をする。
店内はすでに落ち着いていて、片づけもほとんど終わっていた。
エアコンの低い音だけが残っている。
昼の忙しさが嘘みたいに、静かだった。
スマホが震えた。
湊くん。
「今から行っていい?カフェ」
一瞬、意味を飲み込むのに時間がかかる。
「え、今から来るの」
思わず座り直す。
うれしい。
その気持ちのあとに、少し遅れて胸の奥がきゅっと縮む。
「いいよ」
「今お店にいる」
すぐに打って送る。
「十五分後くらいに着く」
短い返事が返ってきた。
テーブルを拭きながら、何度も入口を見る。
まだ来ないと分かっていても、視線がそちらへ向いてしまう。
ガラス越しに、人影が見えた。
ドアが開く。
眼鏡。
肩にかけたバッグ。
湊くん。
――来た。
「こっち来る時、羽田で見つけて」
小さな箱が差し出された。
「東京ひよこ」と書かれた淡い黄色の包装。
祖母がそれを見て、ふっと笑う。
「かわいいねぇ」
「抹茶に合うかなって」
「いいわねぇ」
祖母は箱を軽く持ち直し、もう一度眺める。
「美味しそうだねぇ」
その一言で、店の空気が少しだけやわらぐ。
「湊くん、茶道部なんだよ」
一花の声が軽く揺れる。
「へえ」
祖母が小さく目を丸くした。
湊が少し視線を落とし、それから言った。
「もし」
「茶碗とか、お借りできたら」
一拍。
「お茶、点ててもいいですか」
祖母の視線が一花に向く。
「ちょっと待ってて」
祖母はそう言って、奥へと消える。
「湊くん。……びっくりした」
一花が小さく言う。
「ごめん」
「でも」
言葉を探すように、視線が少し揺れる。
「帰る前に」
そこで一度止まって、続ける。
「寄れてよかった」
「どうぞ、先にお菓子を」
湊が小皿に乗ったひよこの菓子を差し出す。
その横で、湯気が静かに揺れていた。
茶筅が音を立てる。
シャッ。
シャッ。
規則的な音だけが、静かな店内に広がる。
さっきまで話していた湊とは、少し違って見えた。
茶碗を持つ指先。
視線。
ひとつひとつの動き。
静かで、無駄がない。
また知らなかった湊を見つけた気がして、一花はなんとなく落ち着かなくなる。
抹茶の香りが、ふわりと広がった。
「どうぞ。おばあちゃんから」
湊が両手で茶碗を差し出す。
「ありがとう」
祖母は軽く頭を下げ、茶碗を受け取った。
静かに茶碗を回す。
ゆっくり、一口。
「ごちそうさま」
そっと茶碗を置いて、やわらかく笑う。
「落ち着くねぇ」
その言葉に、湊は少しだけ視線を落とした。
「暑い日が続くから」
短く間を置く。
「少しでも落ち着けたら」
言い終わってから、湊は一花の方を見る。
「どうぞ。お薄です」
「あ……ありがとうございます」
少し緊張しながら茶碗を受け取る。
祖母の真似をして、ぎこちなく茶碗を回した。
合ってたかな。
変じゃなかったかな。
気になるのに、湊の方を見れない。
抹茶をひと口飲む。
少し苦い。
でも、そのあとに甘さが残った。
「ごちそうさまでした……」
小さく言うと、向かい側で湊がほんの少しだけ笑った気がした。
「茶道って面白いかい?」
祖母が湊に聞く。
湊は少し考えてから、小さくうなずいた。
「街の中でも」
言葉を探すみたいに、一度視線を落とす。
「落ち着ける場所を作るって考え方があって」
「落ち着ける場所かい」
「はい」
湊が窓の外へ目を向ける。
「ここ、少し似てるなって」
一花もつられるように外を見る。
山。
川。
夕方の空。
ずっと当たり前すぎて、特別だなんて考えたこともなかった。
なのに今日は、少しだけ違って見える。
午後の日差しを受けて、川がきらきら光っていた。
向かい側では、湊が静かにその景色を眺めている。
ただそれだけなのに。
見慣れた景色が、少しだけ大事なものみたいに思えた。
「湊、そろそろ行かないと」
湊の父が、時計を見ながら言った。
その一言で、急に現実に戻される。
「あ……」
空港。
東京。
今日、帰る。
分かっていたはずなのに、胸の奥が急に苦しくなる。
何か言わなきゃ、と思う。
でも、何を言えばいいか分からなかった。
外に出ると、夏の空気がむっと肌にまとわりつく。
車のエンジンがかかった。
開いた窓から、湊の父が手を振る。
「気をつけて」
祖母が穏やかに言った。
車がゆっくりと動き出す。
その瞬間だった。
「待ってる!」
気づけば、声が出ていた。
自分でも何を言っているのか分からない。
「ここで待ってる!」
車の中の湊が、こちらを見る。
聞こえたのか。
聞こえなかったのか。
分からない。
でも、少しだけ笑った気がした。
それから湊は、携帯を軽く持ち上げて見せる。
それだけだった。
車が坂を下っていく。
少しずつ。
少しずつ小さくなって。
やがて、見えなくなった。




