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星が近い夜

 午後の日差しはまだ強かった。

 汗はとうに引いたはずなのに、背中だけがずっと熱を持っている。

 Tシャツが肌に貼りつく。

 それが妙に気になって、何度も呼吸を整えた。

 一花はスマホを見た。

 十四時五分。

「やば……」

 小さくつぶやいて、ペダルを強く踏み込む。

 待たせてる。

 たぶん。

 いや、絶対。

 視線の端で、通知が光った。

「着いた」

 短い一言。

 湊らしい、と一瞬で思う。

 追加のレシーブ練習が長引いた。

 腕がまだ重い。

 ハンドルを握る指先に、さっきまでの感覚が残っている。

 さっきの声まで、妙にはっきり思い出せた。

「佐々木!」

 鋭い声に、反射で顔を上げる。

「はい!」

「今日どうした」

「え」

「足止まってるぞ」

 一瞬、言葉が詰まった。

「……すみません」

「らしくないぞ」

「……はい。すみません」

 それ以上、何も言えなかった。

 横で、美咲が小さく笑う気配がする。

「今日なんか変」

「普通だよ」

 即答した声が、少しだけ強すぎた気がした。

「朝からずっと変なんだけど」

 違う、と言いかけてやめる。

 ……たぶん。

 頭の中で、言葉だけが宙に浮く。

 暑いだけだ。

 そう思おうとして、うまくいかない。

 髪、変じゃないかな。

 顔、疲れて見えないかな。

 そんなことを、今さら気にしている自分に気づく。

 視線を落としたまま、一花はペダルを軽く踏み直した。

 

 子ども館の建物が見えた。

 少しだけ息を吐く。

 間に合った。

 たぶん。

 駐輪場へ滑り込むように自転車を止める。

 急いで鍵をかけた拍子に、肩の部活バッグがずれ落ちそうになる。

 慌てて掛け直して、入口の方を見る。

 ーーいた。

 すぐに分かった。

 白い壁の前。

 スマホを見ている横顔。

 少し長めの前髪と、光を反射する眼鏡。

 見つけた瞬間、胸の奥が小さく跳ねる。

 こっちに気づいたのか、湊が顔を上げた。

「あ」 

 目が合う。

 その一瞬だけ、さっきまでの暑さを忘れた気がした。

「ごめん。遅れて」

 自分でも驚くくらい、先に言葉が出る。

「追加練習があって」

「うん」

 短い返事。

「結構待った?」

「少しだけ」

 たぶん。

 少しじゃない。

 でも、湊はそれ以上何も言わなかった。

 それが逆に、少し調子を狂わせる。

「これ」

 湊が二枚のチケットを見せる。

『Cosmic Cruise』

 ーー十五時開演。

 時計を見る。

 十四時五十五分。

 五分前。

「やば」

「うん」

「急がないと」

「行こう」

 二人で同時に歩き出す。

 少しだけ早足になる。

 入口から階段を駆け上がった瞬間、ひんやりした空気が身体を包んだ。

 思わず、小さく息をつく。

 さっきまで体育館にいたのが、嘘みたいだった。


 照明が、少しずつ落ちていく。

 さっきまで聞こえていたざわめきも、ゆっくり遠ざかっていった。

 椅子へ深く腰を沈める。

 背もたれを少し倒すと、視界が自然と天井へ向く。

 プラネタリウムなんて、小学校の時以来だった。

 でも。

 こんなだっただろうか。

 隣を見る。

 暗くて、輪郭はぼんやりとしか見えない。

 それでも、隣にいることだけは、ちゃんと分かった。


「Cosmic Cruise」

 静かなナレーションが流れ始める。

 次の瞬間、天井いっぱいに星が広がった。

 小さな光。

 淡い青。

 白く瞬く線。

 星が流れる。

 銀河が広がる。

 宇宙は思っていたより、ずっと大きかった。

 何万光年。

 何億光年。

 数字が大きすぎて、途中からうまく想像できなくなる。

 その映像は静かに前へ進んでいく。

 身体が少しだけ浮くような感覚がした。

 本当に宇宙の中に入っていくみたいだった。

 怖いような。

 安心するような。

 夢を見ているみたいな、不思議な感覚。

「宇宙ってなんだろう」

 小さい頃、図書室で借りた星の本を何度も開いた。

 意味も分からないまま、難しい写真を眺めていた。

 夜になると、ベランダから空を見上げたりして。

 結局、何も分からなかったけど。

 でも、もっと知りたいと思った。

 あの頃の気持ちを少しだけ思い出す。

「宇宙って広すぎる……」

 思わず、小さくつぶやいた瞬間だった。

 一本の光が、夜空を横切る。

「あ……」

 声が漏れる。

 流れ星。

 ほんの一瞬。

 だけど、確かに見えた。

「今の見えた?」

 隣から、小さな声がした。

 その時。

 肘が、少しだけ触れる。

「……ごめん」

「……ううん」

 ほんの少し。 

 触れただけ。

 なのに。

 急に落ち着かなくなる。

 なんで。

 暗くて、よかった。


 照明が少しずつ戻っていく。

 暗かった天井が白くなり、星の光がひとつずつ消えていった。

 椅子が動く音。

 小さな話し声。

 現実の音が、少しずつ戻ってくる。

 前の席の子どもが「すごかった」と嬉しそうに立ち上がっていた。

 一花はまだ少しだけ天井を見上げたまま動けなかった。

 さっきまで広がっていた宇宙が、まだ目の奥に残っている気がする。

「……なんか、すごかった」

 思わず漏れた声に、隣で小さく笑う気配がした。

「思ってたより、全然すごかった!」

 自分でも少し子どもっぽい言い方だと思ったけど、止められなかった。

「わかる」

 湊の短い返事に、なんだか少し安心する。

 椅子から立ち上がる。

 その瞬間、少しだけ足元がふわついた。

 暗い場所から急に明るい場所へ戻ったせいかもしれない。

 それとも、まだ感覚が宇宙に置いていかれているせいか。

 全部がまだ、頭の中に残っていた。


「小学校以来かも」

「ここ?」

「うん」

「いつ」

「四年生とか。学校の課外授業で」

「覚えてない?」

「なんとなくしか」

 話しながら、展示室の方へ歩いていく。 

 壁際には人工衛星の模型。

 天井近くにはロケットの模型が吊られていた。

 白い照明に照らされた機体は、思っていたよりずっと大きい。

「これ……」

 一花は足を止める。

「本当に宇宙に行ったの?」

 思わず見上げたまま聞くと、湊が小さくうなずいた。

「行ったやつもある」

 近くで見ると、金属の質感まで本物みたいだった。

「湊くん、宇宙好きなんだね」

「そうかも」

 間を空けずに返事が返ってくる。

 その速さが、少し意外だった。

「いつから?」

「ちゃんとは分かんない」

 湊は少し考えるみたいに、模型へ視線を向ける。

「父さんがこっち来るようになってからかな」

「ロケットの仕事なんだよね」

 一花が展示されていた〈はやぶさ〉の模型を指差す。

「うん」

「すご」

「全然」

「全然じゃない」

 一花がそう言うと、湊が少しだけ視線を逸らした。

「父さんの話、聞くようになって」

 湊が静かに続ける。

「宇宙って」

 そこで少し言葉を探すみたいに間が空いた。

「知らないことばっかりなんだよ」

「うん」

「それが面白い。分からないから知りたくなる」

 前を歩いていた小さな子どもが、ロケットを指差してはしゃいでいる。

「あと」

「うん?」

「自分が作ったものが宇宙に行くのが、なんかかっこいい」

 その言い方が、少しだけ子どもみたいだった。

 でも。

 たぶん今の湊は、本気でそう思っている。

 一花には、それがちゃんと伝わってきた。


 子ども館を出ると、外は少しだけ暑さが落ち着いていた。

 それでも、まだ夏の夕方だった。

「帰ろっか?」

「うん」

 一花は駐輪場へ向かう。

 自転車を引き出して、何気なくサドルへ手をかけた。

 でも。

 少し考えて、そのまま乗るのをやめる。

「乗らないの?」

「湊くん、歩きでしょ」

「そ」

 短い返事。

 一花は自転車を押したまま、隣に並ぶ。

 タイヤがアスファルトを転がる音が、静かな道に小さく響いていた。

「今日の部活大変だった?」

「なんで」

「遅かったから」

「あー……追加練習があって」

 一花は軽く腕を伸ばす。

「ほら。腕パンパン」

 湊が少し目を細めた。

 そのタイミングで、川の方から風が吹く。

 熱を含んだ風だったけど、さっきよりは少しだけやさしい。

「湊くんは、部活何やってるの」

「茶道」

「茶道って、シャッシャッてやるやつ?」

 一花が適当に手をくるくる回す。

「シャッシャッじゃない」

 湊が少し口を緩めた。

「文化祭近いから忙しくなる、部長だし」

「そうなんだ」

「母さんの影響だけどね」

 少し前を向いたまま、湊が言う。

「続くとは思わなかったし。覚えることも多いし」

「でも、続いてるんだよね」

 その言葉のあと、少しだけ沈黙が落ちる。

 でも、不思議と嫌じゃなかった。

 遠くの空が、少しずつ赤く染まり始めていた。

「秋田って、いいよな」

 湊が前を見たまま言う。

 一花は、少しだけ歩く速さを緩めた。

「何もないよ」

「ある」

 すぐ返ってくる。

「それ東京でしょ」

「いや、空とか、風とか、山とか、川とか」

「何それ、自然しか言ってないけど」

 思わず笑う。

 湊も少しだけ笑った。

「あと」

「ん?」

「きみこいカフェも、いいよな」

 咄嗟に返事が出なかった。

「……え」

「山の上で静かだし、なんか秘密にしたくなる」

 心臓が急にうるさくなる。

 言葉がうまく出てこない。

 夕方の風だけが、二人の間を静かに通り抜けていった。


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