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能代港の花火

 十八時少し前。

「そろそろ行こうか」

 父が車の鍵を手に取った。

「うん」

 玄関を出ると、西日がまだ強かった。

 アスファルトには昼の熱が残っていて、少し歩くだけでも汗がにじむ。

 風は吹いているのに、空気は蒸していた。

 土曜日の住宅街は静かだった。

 遠くで蝉の声だけが響いている。

 父のアパートの前に停めてあった車へ乗り込み、シートベルトを締める。

 エンジンがかかり、少し遅れて冷房の風が流れ出した。

 車はゆっくりと走り始める。

「混むぞ」

 父が言った。

「まだ言ってる」

「本当に混むからな」

 思わず笑ってしまう。

 父は今日だけで、もう何度同じことを言っただろう。

 でも、たぶん本当なんだろう。

 アクロス能代の駐車場には、すでにたくさんの車が集まっていた。

 浴衣姿の人も目立つ。

 家族連れ。

 友達同士。

 小さな子どもの手を引いた人たち。

 みんな、同じ場所へ向かっていた。

 夏の夜。

 花火が打ち上がる港へ。

「早く出て正解だったな」

 父が満足そうに言う。

「まだ全然明るいけど」

「だから今のうちなんだよ」

 また少し笑った。

 シャトルバスへ乗り込む。

 思っていたより人が多い。

 バスが走るたび、外の景色が少しずつ夕暮れの色へ変わっていった。

「来年は見られなくなるな」

 父が窓の外を見たまま言った。

「何が?」

「この花火」

「ああ……単身赴任、終わるから」

 来年の春で、父の単身赴任は終わる。

 夏になれば、また秋田へ来る。

 来年も。

 その次も。

 なんとなく、そんなふうに思っていた。

 でも。

 終わるんだ。



 一花は、流れていく景色をぼんやり見ていた。

 花火会場へ向かう車が、道路に少しずつ増えていく。

 窓から差し込む西日の光が頬に当たり、一花は少しだけ顔を引いた。

「下駄、足大丈夫か」

 運転しながら父が言う。

「大丈夫。今年はお母さんに柔らかめの下駄、買ってもらったの」

「転ぶなよ」

「転ばないってば」

「ほんとか?」

「ほんとにって」

 思わず笑った。

 家を出る前は、少しだけ時間がかかった。

 今年は自分で浴衣を着る。

 そう決めていた。

 でも、帯だけはやっぱり難しくて、最後だけ手伝ってもらった。

 鏡の前で何度も向き直して、ようやく形になった浴衣姿を思い出す。

 能代駅に着くと、父は駅前のロータリーに軽トラを寄せた。

「気をつけて行くんだぞ」

 父が言う。

「うん」

「帰り遅くなるなよ、また迎えに来っから」

「わかってるって」

 軽トラを降りる。

 父が軽く手を上げた。

 一花も小さく手を振り返す。

 浴衣の裾をそっと整えた。

 駅前は思っていた以上に人が多い。

「一花ー!」

 声に振り返る。

 浴衣姿の美咲が、人混みの向こうで手を振っていた。

 髪もハーフアップにしていて、いつもより大人っぽい。

「遅いよ」

「遅れてないよ」

「浴衣いいじゃん、薄ピンクの帯、紺に映えてる」

「ありがと。美咲のラベンダー色もめっちゃかわいい。髪もいい感じ」

「でしょ?」

 美咲が嬉しそうに笑う。

「悠斗、もう来てるよ」

「早」

「相変わらず」

「バス並ぼうよ、悠斗たち、もうあっちにいるから」

 人の流れに合わせるようにして、シャトルバスの列へ向かった。

 美咲が隣で楽しそうに何か話している。

 少し先では、悠斗が手を振っていた。

 たぶん、今年もいつも通りだ。

 みんなで花火を見て。

 笑って。

 そんな夏の夜になるはずだった。

 なのに。

 今日は少しだけ落ち着かない。

 理由は、自分でもよく分からない。

 ーー湊くん。

 まだ、わからないって言ってた。



 バスを降りた瞬間、潮風が吹いた。

 海の匂いがする。

 思っていたより風は冷たくて、Tシャツの袖の隙間から入り込んだ空気に、少しだけ肩をすくめた。

 遠くへ目を向ける。

 海の上に洋上風車が並んでいた。

 ゆっくりと回る白い羽。

 夕方の青さがまだ残る空。

 その向こう、白神山地の方へ、夜が静かに近づいてきていた。

 人の流れに合わせながら、指定席へ向かう。

 花火の打ち上げまでは、まだ少し時間がある。

 人は多かった。

 でも、東京とは少し違う。

 誰も急いでいない。

 押し合うこともなく、みんなゆっくり歩いている。

 普段は車ばかりで、人をこんなに見ることなんてない。

 ーーどこからこんなに集まってくるんだろう。

 ふと、そんなこと思った。

 みんな、この場所で。

 同じ夏の夜を待っている。

 少し前。

 斜め前の席に、紺色の浴衣姿が見えた。

 薄いピンクの帯が、港の灯りの中で小さく目を引く。

 一瞬、息が止まった。

 一花だった。

 友達と楽しそうに話している。

 笑った横顔が、風に揺れる髪の向こうに見えた。

 隣には知らない顔もある。

 祖母が言っていた。

 毎年同じメンバーで来ているって。

 一花も来ることは知っていた。

 でも。

 こんなに早く見つけるとは思っていなかった。

 見つけた瞬間、目が離せなくなった。


 肩に手を置かれた。

「湊」

 父の声だった。

「ん」

「父さんの話、聞いてるか?」

「聞いてるよ」

「聞いてないな」

 父が苦笑する。

 たしかに、ほとんど耳に入っていなかった。

 気がつけば、さっきよりも空はさらに暗くなっている。

 空いていた席も、少しずつ埋まり始めていた。

 花火まで、もう少し。

 一花が立ち上がる。

「何食べようかな。お腹空いてるから焼きそばにしようかな。迷うー!」

「屋台といったら絶対チョコバナナでしょ」

「絶対並んでるって。並ぶの無理!」

 賑やかな声が、風に乗って聞こえてきた。

「少し向こう見てくる」

 父にそう言う。

「迷子になるなよ」

「ならないでしょ」

 席を立った。

 花火が始まる前だからか、どこの屋台も人で溢れている。

 焼きそば。

 お好み焼き。

 もちもちポテト。

 かき氷。

 イカの丸焼き。

 醤油の焦げる匂いがして、潮風に混じって漂っていた。


「長……」

 思わず声が漏れる。

 チョコバナナの屋台には、想像以上の列ができていた。

 最後尾に、浴衣が見える。

 見覚えのある、薄いピンクの帯。

 足が止まった。

 一花だった。

 一人で並んでいる。

 どこか落ち着かないように、時々周囲を見回していた。

 友達の姿は見えない。

 たぶん別の屋台へ行ったんだだろう。

 港から吹く風に、浴衣の帯がふわりと揺れる。

 一瞬迷って。

 それでも、湊は一花の後ろへ並んだ。

 一花が少し背伸びするように前を見る。

 それから遠くの屋台の方へ視線を向けた。

 誰か探しているみたいに、きょろきょろしている。

 その時。

 ふいに、一花がこちらを向いた。

 目が合う。

 少しだけ間が空いて。

 一花の目が、驚いたように大きくなった。

「あっ……湊くん」

「来てたんだ」

 一花の表情が、少しだけやわらぐ。

「うん」

「……来ないと思ってた。まだわからないって言ってたし」

「来るか迷ったけど」

「でも来てる」

「でも来た」

 潮風が、二人の間を静かに通り抜けていく。

「湊くんもチョコバナナ?」

「うん」

「やっぱり人気あるよね。まだまだ先長い」

「ディズニーに来たかと思った」

 思わず口から出た。

 一花がこちらを見る。

「何それ」

 笑う。

「チョコバナナで二十分待ち」

「たしかに」

「夢の国じゃないんだけど」

 一花が吹き出した。

「ふふっ」

 昨日、きみこいカフェで話した時より。

 今の距離の方が、ずっと近かった。


 まもなく花火開始のアナウンスが流れた。

「一花ー、早くー!焼きそばゲットしたよー!」

「超並んでるじゃん!」

 賑やかな声が、港の風に乗って聞こえてくる。

「先、席に戻るからねー!一花も早く!」

「え」

「始まる始まる!」

 美咲たちは笑いながら、人混みの向こうへ消えていった。

 一花が少し困ったようにその背中を見送る。

「……なんか、ごめん」

「いや。別に何も」

 二人きりになる。

 前を見る。

 チョコバナナの列は、まだ思ったより長かった。

 その時。

 夜空に大きな音が響いた。

 次の瞬間。

 空気が揺れる。

 思わず肩が跳ねた。

 胸の奥まで響くような重低音。

 いや。

 音というより体ごと震えた感覚に近かった。

 白い光が、夜空へまっすぐ打ち上がる。

「きゃー!」

「綺麗!」

 歓声と拍手が広がった。

 夜空に、花が次々と咲いていく。

 白。

 青。

 赤。

 港の風が吹く。

 一花が空を見上げた。

 花火の光が、その横顔を照らしている。

 白く光ったかと思えば、次の瞬間には青く染まり、赤い光が頬をかすめる。

 光が変わるたび、表情も変わって見えた。

 目が離せなかった。

 長かった列が、ようやく進む。

「次の方ー!」

 一花が前へ出た。

「チョコバナナ六本ください」

「六本?」

 思わず声が出る。

 一花が少し笑った。

「美咲たちの分も」

「あとで絶対、食べたいって言うと思う」

「言いそう」

「……絶対言う。だから」

 店の人が、次々とチョコバナナを袋へ入れていく。

「はい、どうぞー!ありがとうございましたー!」

 一花が袋を受け取る。

 それから。

 少しだけ袋の中を見る。

 何か考えるみたいに、ほんの少し間が空いた。

「……これ」

 一本。

 一花が、チョコバナナをこちらへ差し出した。

「え」

「チョコバナナ」

「いや……」

「……一緒に並んだし」

 港の風が、二人の間を吹き抜ける。

 花火の音が、少し遅れて空から落ちてきた。

「ありがとう」

「うん」

「じゃ、またね」

「うん、また」

 一花が少し急ぐように、友達の方へ走っていく。

 薄暗い人の流れの中。

 薄いピンクの帯だけが、しばらく見えていた。

 少しして。

 それも、人混みの中へ消えていった。


 気がつけば、空はもう真っ暗になっていた。

 花火が始まった頃には、まだ青紫色だった空。

 それがいつの間にか、完全な夜へ変わっている。

 夜空いっぱいに次々と花火が打ち上がった。

 休む間もない。

 光が港の端から端まで埋め尽くしていく。

 海面近くまで火花が流れ落ち、空と港がひとつにつながったみたいだった。

 ドドドドドッーー。

 重なる爆音。

 胸の奥まで響く。

 いや。

 胸だけじゃない。

 体そのものが揺れていた。

 三尺玉。

 港に反響した音が、遅れてもう一度押し寄せてくる。

 空気まで震えている気がした。

 止まらない。

 終わらない。

 全部を出し切るみたいに、夜空が光で埋め尽くされていく。

 フィナーレ。

 歓声。

 拍手。

 どこかで誰かが叫んでいる。

 もう、一花がどこにいるのかも分からなかった。


 いつの間にか、周囲の人たちが立ち始めていた。

「湊」

 肩を軽く揺さぶられる。

 父だった。

「帰るぞ」

「……あ」

 まだ耳の奥がぼんやりしている。

 さっきまで夜空を埋めていた光が、嘘みたいに消えていた。

 出口へ向かう人の流れ。

 みんな同じ方向へ歩いていく。

 笑い声。

 拍手の余韻。

 暗い港。

 その向こうから、賑やかな声が聞こえた。

 足が止まる。

 人の流れの先。

 薄いピンクの帯が見えた。

 一花だった。

 気づいた時には。

「一花!」

 声を上げていた。

 人が多い。

 聞こえないかもしれない。

 それでも。

 もう一度。

 「一花!」

 一花が足を止める。

 少しして。

 ゆっくりと、振り返った。

「……湊くん」

「チョコバナナ」

「え……」

「お礼」

「え?」

「ちゃんとしないと」

 一花が、少し困ったみたいにこちらを見る。

「……別に大丈夫だよ」

「よくない」

 きっぱり言うと、一花は少しだけ目を丸くした。

 そのまま、言葉が途切れる。

 人の流れが周囲をゆっくり動いていく。

 港の夜風が吹いた。

「だから」

 少しだけ黙る。

 喉の奥が、変に乾いていた。

「……連絡先」

「え」

「知らないと」

 一瞬。

 一花がはっとしたような顔になる。

「……あ」

 少し慌てた様子で、浴衣の袖からスマホを取り出した。

「一花ー!」

 遠くから美咲の声が飛んでくる。

「早くー!」

 出口へ向かう人の流れが、さらに動き始めた。

「ご、ごめん」

「いや」

 一花が急ぐように画面を開く。

 名前。

 連絡先。

 指が少し慌ただしく動いていた。

 花火のあとの熱気なのか、緊張なのか、わからない。

「……できた」

「うん」

「じゃ」

「うん」

 少しだけ間が空く。

「……また」

「うん。また」

 一花が、人の流れへ戻るように駆けていく。

 薄いピンクの帯が、暗い人波の向こうで揺れた。

 少しして。

 その姿も見えなくなる。

 港の上には、まだ花火の煙が薄く残っていた。


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