東京から来た夏
終業式が終わる空気は、どこの学校でも少し似ているのかもしれない。
「それでは、よい夏休みを」
担任の声が教室に響く。
椅子を引く音。誰かの笑い声。鞄を閉じる音。
「花火どうする」
「海行きたい」
「課題やばくない?」
「補習ある人いる?」
少しずつ教室が騒がしくなっていく。
夏休みが始まる。
それだけで、空気が少し変わる。
窓の外には、東京の夏空が広がっていた。
照り返す日差し。
並んだ住宅街。
絶えず走り続ける車。
校門の外を、人の流れが途切れることはない。
東京は止まらない。
みんな、どこへ向かっているんだろう。
「湊」
名前を呼ばれて振り返る。
凛だった。
茶道部の副部長。
湊とは一年の頃から同じ部活だった。
「今日だったよね」
「うん」
「秋田」
「うん」
凛が少し眉を上げる。
「涼しそう」
「暑いよ」
「でも東京よりはマシでしょ」
「どうだろ」
湊は少し笑った。
「副部長、忙しくなるね」
「誰のせい」
「心当たりない」
「ある」
凛が呆れたように笑う。
「ちゃんと戻ってきてよ」
「戻るよ」
「絶対?」
「絶対」
凛はそれを聞いて、小さく息をついた。
湊は鞄を肩にかけ、教室を出る。
廊下の向こうから、夏休み前特有のざわめきが聞こえていた。
もう夏だった。
羽田空港は今日も人で溢れていた。
旅行へ向かう人。
帰省する人。
スーツ姿のまま急ぎ足で通り過ぎていく人。
みんな、それぞれの場所へ向かっている。
アナウンスが流れる。
キャリーケースが床を転がる音。誰かの笑い声。重なる足音。
人の多さに、少しだけ疲れる。
湊はイヤホンを耳につけ、音楽を流した。
その瞬間だけ、周りの音が遠くなる。
ガラス越しの滑走路が、夏の光に白く霞んで見えた。
秋田へ向かうのは、去年の夏以来だった。
父が能代へ単身赴任になって三年。
夏になると秋田へ来るようになった。
最初の頃は、父が家にいない生活が少し不思議だった。
家族が別々の場所で暮らしていることにも、なかなか慣れなかった。
でも。
今はもう、それが当たり前になっていた。
飛行機へ乗り込む。
窓側の席だった。
大館能代行きの飛行機は小さい。
通路を数歩歩けば、もう自分の席に着く。
シートベルトを締める。
少しして機体がゆっくり滑走路を走り始めた。
体がわずかに座席へ押しつけられる。
ビルが小さくなる。
道路が細くなる。
やがて雲が近づいてきた。
この瞬間は、少し好きだった。
母がよく言っていた。
「湊って、空見るの好きだよね」
「かも」
「なんで」
「なんとなく」
あの頃はうまく答えられなかった。
でも今なら少しだけわかる気がする。
空を見ていると、落ち着く。
遠くまで続く空を見ていると、今いる場所だけが全部じゃないと思える。
そんな気がした。
飛行機が雲を抜ける。
窓の外に白い光が広がった。
青い空。
静かな雲の上。
しばらくして、機内アナウンスが流れる。
「まもなく着陸いたします」
窓の下に景色が見え始めた。
山が見える。
川が流れている。
その間を埋めるみたいに田んぼが続く。
去年の夏と同じ景色だった。
「湊」
到着ロビーに父が立っていた。
「久しぶり」
「久しぶり」
少し日に焼けていた。
前より少し痩せた気もした。
「暑いな」
「東京も暑い」
「こっちも暑いぞ」
車へ乗り込む。
エンジンがかかる。
空港を出て、車がゆっくり走り始めた。
窓を少し開ける。
風が入ってくる。
草の匂いがした。
東京ではあまり感じない匂いだった。
秋田に来た。
毎年、同じことを思う。
「学校はどうだ」
「普通」
「部活は」
「普通」
「勉強は」
「普通」
「普通しか言わないね」
「だいたい普通だから」
父が少し笑う。
「母さんは元気か」
「元気」
「そうか」
少しだけ間が空いた。
でも気まずくはなかった。
「寄っていくか」
「どこに」
「きみこいカフェ。お腹空いただろう」
その言葉に、少しだけ胸の奥が動いた。
車が止まる。
見慣れた建物だった。
三年前から、夏になるたび訪れている場所。
少しだけ懐かしい。
ドアを開ける。
入口の鈴が鳴った。
「いらっしゃいま――」
振り返った一花の声が止まる。
制服姿。
見覚えはある。
でも。
少しだけ雰囲気が違って見えた。
「あ……」
思わず声が漏れた。
目が合う。
一瞬。
本当に一瞬だけ。時間が止まった気がした。
「こんにちは」
父が言った。
「お」
カウンターの向こうで、祖母が顔を上げた。
「今年も来たね」
「こんにちは」
湊も小さく頭を下げた。
「大きくなったねぇ」
「毎年言う」
「毎年大きくなるもの」
父が少し笑った。
祖母も笑う。
店の中には、いつもの時間が流れていた。
窓の外では、風に揺れる緑が光っていた。
三度目の夏を迎える場所。
今年も同じ夏が始まる。
そう思った。




