夏休みが始まる
目覚ましが鳴った記憶はあった。
止めた気もする。
それが夢だったのか現実だったのか、一花にはもうわからなかった。
「……え」
薄く目を開けた瞬間、嫌な予感がした。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、やけに高い。
枕元の時計を見る。
六時五分。
一瞬、頭の中が真っ白になる。
「……うそ」
「うそ、うそ、うそ! ほんとに!?」
布団を跳ね飛ばして飛び起きた。
今日は朝練が七時からある。
六時三十四分の電車に乗らないと間に合わない。
今から制服を着て、顔を洗って、髪を直して、駅まで走る。
「……あーもう!」
完全にまずい。
窓を開けると、朝の風が一気に入り込んだ。
白いカーテンが揺れ、机のプリントが床へ落ちる。
「最悪……」
拾う余裕はない。
窓の外には田んぼが広がっていた。
風に稲が波のように揺れる、その向こうを米代川が流れる。
さらに遠くに白神山地。
子どもの頃から見てきた景色だ。
当たり前すぎて意識したこともない。
ーーこの町を出る。
東京。無理なら仙台でもいい。
もっと遠くへ。
ずっと前から、そう思っていた。
「一花ー。起きてるー?」
一階から祖母の声が聞こえた。
「起きてる!」
急いで制服に着替える。
シャツ、ベスト、リボン、スカート。
焦るほど手がうまく動かない。
「もう……!」
リボンが少し曲がる。
でも直す時間はない。
階段を駆け下り、洗面所へ飛び込む。
「しゃっこ……!」
夏なのに水はまだ冷たい。
顔を洗い、鏡を見ると髪が跳ねていた。
「なんで、こういう時に限って……」
水で押さえ、なんとか整える。
鏡越しに時計を見る。
六時十二分。
「やば……」
台所では祖母が味噌汁をよそっていた。
焼き魚。
納豆。
いつもの朝の匂い。
父はすでに出勤準備を終えている。
農協勤務の父は、休みでも田んぼに出る人だった。
祖父から受け継いだ田んぼを今も守っていた。
夏は草がすぐ伸びる。
窓の外から草刈り機の音が聞こえていた。
母は介護士だった。
今日は夜勤明けで、テーブルでぼんやりお茶を飲んでいる。
「電車、間に合うかー」
父が聞いた。
「……無理かも」
「何時だ」
「六時十二分」
短い沈黙のあと、父は言った。
「乗ってけ」
「ほんと?」
「早く」
「ありがと!」
軽トラの助手席に飛び込むと、シートが少しひんやりしていた。
エンジンがかかると、ガタガタと振動が足元から伝わった。
窓は少し開いていて、風が入るたびに草の匂いが流れ込んできた。
「夜更かしすんな」
「してない」
「目ぇ赤い」
「気のせい」
短いやりとりのあと、信号待ちで車が止まる。
父は前を見たまま口元をゆるめた。
一花もそれにつられて、肩の力が抜けた。
二ツ井駅へ着いた時、ホームの時計は六時三十二分を指していた。
「走れ、あと2分あっから」
「うん!」
階段を駆け上がる。
息が切れる。
朝なのにもう暑い。
ホームが見える。
六時三十四分の電車。
間に合って。
間に合って。
そう繰り返した瞬間、ドアの閉まる音がした。
「……はぁ……」
ぎりぎりだった。
本当に、ぎりぎり。
息を整えながら窓際に座ると、ようやく力が抜ける。
制服姿の高校生。眠そうな会社員。イヤホンのまま外を見ている人。
いつもの朝だった。
電車は二ツ井から能代へ向かって走り出す。
窓の外には田んぼが流れる。
川が見える。
遠くに山が重なっていた。
見慣れた景色だった。
嫌いじゃない。
でも。
ずっとここにいる自分は、なぜか想像できなかった。
東能代駅に着いたのは六時四十七分だった。
改札を抜け、自転車に飛び乗る。
その瞬間、風が正面からぶつかった。
「……今日、風強い……」
能代は風の町だ。
田んぼばかりの道は遮るものがなく、風がそのまま来る。
ペダルを踏むほど重くなる。
立ちこぎに変える。
息が上がる。
「きつ……」
それでも、ペダルを踏み続けた。
体育館へ入ると、ボールの音が響いていた。
「一花!」
同級生の美咲がボールを抱えたまま振り返った。
「遅いよー」
「寝坊した」
「珍しいじゃん」
「自分でも思う」
「斉藤先生、時計見てたよ」
「終わった……」
美咲が笑って、ボールを放る。
「ほら、一本入って」
「オッケー」
一花は急いでコートへ入った。
「一本!」
一花は床すれすれのボールへ飛び込んだ。
腕に当たったボールが高く上がる。
「ナイス!」
ボールがつながる。
誰かにつなぐ。
落とさない。
それが自分の役割だった。
「ラスト一本!」
斉藤先生の声が体育館に響いた。
汗が床に落ちる。
あちこちから荒い呼吸が聞こえる。
朝からの暑さは抜けていない。
「オッケー!」
「さっこーい!」
一花は構え、膝を落とし、ボールだけを見る。
飛び込む。
腕に当たったボールが上がる。
「こっち!」
美咲が手を上げる。
一花はその手の先へボールを返す。
三年の先輩が打ち込み、ボールが決まる。
「オッケー!」
声が重なり、プレーが終わる。
「終了!」
笛の音で空気がほどけた。
「暑……」
一花は床へ座り込んだ。
「今日やばいね」
「まだ七月だよ」
美咲がスポーツドリンクを一気に喉に流し込む。
「今年暑くない?」
「毎年言ってる」
「言ってる」
二人で笑った。
「佐々木!」
振り返ると斉藤先生が立っていた。
二年の担任で、女子バレー部の顧問。
厳しいけれど、ちゃんと見てくれる人だった。
「寝坊だな」
「……はい」
「珍しいな」
「すみません。」
「夏休み入るからって気抜くなよー」
「はい」
少し間を置いて、先生が続ける。
「あと、朝飯はちゃんと食え」
「……はい」
全部見られていた気がした。
「怒られた?」
「怒られた」
「顔」
「やめて」
美咲が笑う。
「最悪」
「だから食べないと」
「時間なかった」
「作ろっか?」
「大丈夫」
「次寝坊したら持ってく」
「……ほんとに大丈夫」
「おにぎり二個ね」
「多い」
「決まりね」
言い切って美咲が笑った。
終業式が終わり、教室に戻る。
扇風機が首を振りながら回っている。
窓は開いているのに、空気は重いままだった。
七月十八日。
夏休みの始まりの日。
先生の話はいつも同じだった。
事故、SNS、熱中症。
毎年聞く言葉。
それでも「夏休みが始まる」という事実だけで、教室の空気は少し浮ついていた。
「夏休み!」
「花火どうする?」
「海行きたい!」
教室が一気に騒がしくなる。
「一花」
振り返る。
悠斗だった。
小さい頃から、ずっと一緒だった。
中学に入った頃から急に背が伸びて、今では見上げることの方が多い。
「寝てたべ」
「寝てない」
「口開いてた」
「うそ」
「ほんと」
いつも通りのやり取り。
「今日店?」
「うん」
「そっか」
少し間が空く。
「花火」
「花火?」
「明日行く?」
「行くと思う」
「そ」
それだけ言って、悠斗は教室を出ていった。
「なにあれ」
隣で美咲が言った。
「幼なじみ」
「青春じゃん」
「違う」
「違わない」
違う。
そう言われるたび、なんとなく困る。
放課後、一花は制服のまま祖母の店へ向かった。
川沿いの道を歩く。
米代川の水が夕方の光を受けて揺れている。
風は朝より少しだけやわらかい。
祖母の店「きみこいカフェ」は、昔からそこにあった。
「ただいま」
「おがえり」
祖母が笑う。
「部活どうだった」
「暑かった」
「そりゃ夏だもの」
いつもの会話。
店の窓から外を見る。
青い空が広がっていた。
遠くの山の向こうへ、白い雲がゆっくり流れていく。
変わらない。
ずっと。
そう思っていた。
その時。
店のドアが開いた。
風が入る。
鈴が小さく鳴る。
「こんにちは」
初めて聞く声。
一花が振り向く。
眼鏡をかけた人。
前髪が少し長い。
視線の奥が読めない。
見覚えはない。
そう思った――はずだった。
「……あ」
祖母が笑う。
「今年も来てくれて」
ーー今年も?
夏休みが始まった。
本当に、今年の夏が動き出していた。




