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第十六話:新事務長に『深淵への誘い』について知らせておく

 八月になった。

 所蔵作品展は順調に行われている。

 鑑賞者は少ないけど。


 ベルトランド主任は忙しそうだ。

 概算要求ってやつの締め切りが今月らしい。

 美文館の来年度の予算要求案の作成をしているようだ。

「ああ、面倒くせえ」とブツクサ言いながらけっこう残業とかしている。


 おまけに、この時期は今年度の新会員を選出するために、現会員が推薦してきた芸術家の資料を作成しなくてはいけない。これが、けっこう面倒らしい。報道機関に発表するのでかなり正確な履歴を調べる必要がある。


 一応、絵画部門はドメニコ係長、彫刻部門はベルトランド主任、工芸部門はジュシファーさんが担当なのだが、あたしは忙しい主任を手伝うことになった。

 

 そして、亡くなったサルヴァトーレ事務長の代わりに、新事務長が就任してきた。

 ラウル・タルティーニさん。小柄で、髪の毛は白髪が多い。五十五才。故サルヴァトーレ事務長と同い年生まれだな。人事とはそういうものか。


 穏やかな感じで真面目な印象を受けた。

 ドメニコ係長はほっとした顔をしている。

 上から指示を出してくれる人が来て嬉しそうだ。


 さて、新事務長を迎えて新体制となったのだが、そんなところにルチオ教授からまた電話がかかってきた。


「やあ、ローラさん、元気かね。ルチオだ」

「はい、元気です。『深淵への誘い』の確認の件ですか」

「それもお願いしたいが、実は頼みがある。『深淵への誘い』の件を新事務長にも教えておいてくれないか。非常に危険な絵画であるってことを伝えておいてくれ」

「あれ、なんで新事務長が就任したって御存知なんですか」

「官報に載ってたぞ」


 そんなもんがあるのか。

 政府が出している国民に発表する公告などが載っている冊子らしいけど。


 しかし、ラウル新事務長にいきなり、この『深淵への誘い』はクトゥルフを描いているので危険ですなんて言って、頭がおかしいと思われないかしら。サルヴァトーレ前事務長は突然死だったから、引継ぎ書類なんて残してないだろうし。


 迷った末、あたしは早朝にラウル事務長を収蔵庫に案内して、『深淵への誘い』を見せた。

 梱包材の表面に『展示厳禁』と貼ってある。

 そして、『深淵への誘い』の件について説明した。


 作者のミケーレ先生が変死したこと。

 この絵画を鑑賞していた人が倒れたことがあること。

 サルヴァトーレ事務長も同様に倒れたことがあり、その後急逝したこと。

 そして、その原因はこの絵画に描いてあるクトゥルフのせいだとルチオ教授という人が言っているってこと。


 一笑に付されるかと思いきや、真面目に聞いてくれるラウル事務長。

「うーん、そのクトゥルフというのはよくわからないが、とにかくあまり縁起のいい作品ではないということかね」

「はい、だから展示とかするのは避けた方がいいと思われます」

「わかった。一応、事務長の業務関係書類にも書いておくよ」

「ありがとうございます」


「ただ、ローラさんはこの絵を見たことがあるんでしょう」

「ええ、何度も見ました」

「なにか体に異常とか出なかったの」

「いや、特にないですね」

「他の人も大勢見ているんだよね」

「そうですねえ、ただ、どうもルチオ教授に言わせると長時間見ないと効果が出ないんではと言ってました」


 少し考えた後、ラウル事務長が言った。

「まあ、触らぬ神に祟りなしとも言うから、とりあえず展示とかはやめたほうがいいかな」


 ふう、一応、ラウル事務長に伝えたし、ルチオ教授には怒られないで済むだろう。

 しかし、新事務長が相手だったのでちょっと緊張した。

 トイレに行きたくなった。

 

 一階のトイレで用を足した後、回廊に出ると反対側の貴賓室前でベルトランド主任がなにやら妙な機械を操作している。

 あれ、火が出ているぞ。

 何やってんのかなと近づいて聞いてみた。


「主任、それなんですか」

「ガスバーナーって言うんだ。高温の火を出すことが出来る」

「それで何をするつもりなんですか」

「回廊の石材を乾かすのさ」

「なんでそんな事するんですか」

「どうやら回廊に浸水しているようなんだ。本来、中庭に降った雨はいくつかある排水口から下水へ流れるはずなんだが、回廊にも染み込んでいってるようなんだよ。おかげで石材に染みが浮き上がってね」


「染みがどんどん広がっているんですか」

「いや、一部分だけだね。しかし、この回廊は欠陥工事じゃないかなあ。今、回廊全体の張替えを概算要求で出しているとこさ。ただ、悪いことに一番染みが浮き上がっているのが貴賓室の前なんだよなあ。国王陛下に失礼だって事になってな」

「けど、多少汚れていても国王陛下は気にしないのではないですか」

「多分、王様は全然気にしないだろうね。俺も気にしない。しかし、世の中には気にする人もいるってことさ」

「どなたですか」

「ラウル事務長だよ。新任で最初の授賞式が来年の三月にあるっていうんで張り切ってるみたい。ああ、面倒だなあ」


 相変わらずの面倒くさがり屋ですね、この主任は。

 主任がガスバーナーの火で石材を乾かしていく。

 おお、意外にもきれいになっていくではないか。


「ローラさんもやってみる」


 面白そうなのであたしもやってみた。あたしの頭くらいの丸い筒状の金属製の缶からホースが出ていて、先はピストルみたいな感じ。引き金みたいな部分を引くと火が出る。それを床の石材に当てるとどんどん乾いていって、綺麗に周りの石材と同じような色合いになっていく。


「じゃあ、ローラさん、俺は仕事に戻るから」


 主任が回廊を歩いて事務室へ戻って行く。


「ちょ、ちょっと主任、待ってくださいよ。こういう器具を扱うのって免許とか必要じゃないんですか」

「かまわん。俺が許す。貴賓室前の染みのある部分を全部乾かしてくれ、よろしく!」


 なんちゅーいい加減な人だ。

 仕方がないので、染みのある部分を全部乾かした。

 しかし、けっこう面白がっているあたし。

 全部綺麗にした。


 事務室に戻って主任に報告した。


「主任、一通り綺麗に乾かしましたよ」

「お疲れさーん。そのガスバーナーは地下室の事務倉庫へ片付けて置いてくれないか」

「こんな火が出る危険な器具を大事な作品がたくさん置いてある地下室へ持って行っていいんですか」

「大丈夫だよ。気にすんな。消火器も置いてある。それに地下室にはいざという時のための消防装置が付いている。火事が起きた時はボタンを押せば水が大量に上から落ちてくる仕組みがあるのさ」

「水浸しになったら所蔵している作品はメチャクチャになるんじゃないですか」

「そん時は、そん時。それに彫刻と一部の工芸品以外はしっかり防水加工で梱包してあるから大丈夫じゃないかな。彫刻もブロンズ像とかはそもそも外に展示するもんだから雨とかに降られてもいいように作られてるわけで、水に濡れても大丈夫さ。まあ、木材とかの作品はまずいけど。ただ、そのために修復する業者とかもいるしな。まあ、あんまり心配すんな」


 例によっていい加減な主任。

 仕方なくガスバーナーを地下倉庫に持って行った。

 確かに、倉庫の壁際に『緊急消火装置』という機械があって、赤いボタンが付いていた。

 

 ついでに収蔵庫の奥へ行って、例の『深淵への誘い』を見に行った。

 梱包されているけど、やはり不気味。

 おまけにこの地下室には、今、あたし一人。

 ちょっと怖いな。

 収蔵庫の隅っこに他の作品とは離れた場所でポツンと置いてある『深淵への誘い』。

 あれ、床に紙が一枚あった。

 『展示厳禁』って紙がはがれて床に落ちている。

 このままにしておくと、この作品には何も貼っていないので、後任の人たちはこの作品が危険って事がわからなくなる。

 付け直しておくか。

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