表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
65/66

六十五 マリオネットではない、スティレットでもない

「レカ! ……生きてるのか?」


「いちおーな……」


 笑おうとした口元が、途中で歪んだ。息を吸う動作が肋骨の破片を内臓に押し込み、胸腔の奥で何かが裂けた。レカの顔から血の気が引いていた。唇の色が消え、頬が蒼白く透けている。呼吸のたびに口の端から赤黒い泡が滲み、拭う手が動かない。両腕はとうに感覚を失っていた。ただ左の手のひらだけが、まだ何かを握っていた。錆びた金属の角が指に食い込む感覚が、身体の中で最後に残った輪郭だった。


「もう、痛みもよくわかんねーや……でも、生きてるよ、エリオン」


「レカ……」


 体の内側で、折れた骨が臓腑を傷つけるたびに、温かいものが胸の底に溜まっていく。痛みはもう痛みとして届かなかった。ただ、体温が……少しずつ、自分の輪郭の内側から抜けていく感覚だけがあった。


「へへ……今寝たら……二度と目覚めないだろーけど」


 空洞が静かだった。


 戦闘の音が消えている。装置の赤い光が消えている。異世界勢力の光弾の残響が消えている。オルタナティブ現実の鐘の音が消えている。……全てが消えた後に残ったのは、ヨトゴォルの身体の脈動だけだった。有機的な壁面が、ゆっくりと、ゆっくりと、脈を打っている。生きている。この空間は……多元並行世界の全てを身体とする存在の、神経節の一部だ。


 エリオンは座っていた。


 リミナルダンジョンの白い床の上に。膝の上にレカの頭を載せて。両腕でレカの上半身を支えながら……動かなかった。


 レカの赤い瞳が閉じている。呼吸は……ある。浅く、不規則だが、まだ肺が動いている。額の血が止まりかけている。両腕は動かない。体の損傷は深い。しかし……まだ、生きている。


 だがエリオンにはわかっていた。この子はもう助からないことを。      


 少し離れた場所に……ゼゴがいた。


 シャルトリューズの亡骸の傍に、座り込んでいた。


 目が見えないゼゴの小さな手が……動かなくなった触手に触れていた。触れ続けていた。触手の形が崩れかけている。ピンクの燐光は消えている。温もりが……少しずつ、失われていく。それでもゼゴは離れなかった。盲目の赤い瞳が何も映さないまま……小さな手が、触手の表面を撫で続けていた。


 ガズボの巨体が……少し向こうに横たわっていた。大きな体はもう呼吸で動くこともない。黄色い目は閉じ、もう開かない。


 タティオンの体が……装置の残骸の手前に横たわっていた。灰色の髪が石畳に広がっている。右手が伸びたまま、止まっている。レカの方に向かって伸ばされた手。届かなかった手。


「疲れたなあ、レカ」


 エリオンは……五十年間のことを思った。正しくあり続けると決めた。それだけを……五十年間、守り続けてきた。


 何も変えられなかった。


 略奪構造を嫌悪しながら、その構造の最大の恩恵者として君臨し続けた。他の世界線からソウツェクを吸い上げ、他の世界を殺し続けている、そしてまた自分たちも奪われ滅びる運命にある……その事実を知りながら、黙り続けた。英雄の仮面を被り、評議会で発言し、ダンジョンを探索し、市民を守り……しかし構造そのものには、指一本触れなかった。触れる力がなかった。触れる勇気がなかった。


 英雄として称えられながら……街を守れなかった。


 腕の中にいるのは……タティオンが産ませ、タティオンが育て、タティオンが壊し続けた子だ。十歳で娼館で母を死なせた客を殺し、十一歳で暗殺任務に失敗してエリオンのアトリエに落ちてきた子。傷だらけで。ただの子供で。……あの時から八年。この子は暗殺者として機能し続け、人を殺し続け、罪を背負い続け、最後に父に向かって走った。決意ではなく。使命感でもなく。ただ……生き延びようとして抗い、その結果として父を倒した。


 あまりにも哀れで、あまりにも強い。


(結節点よ、お前たちのリレーションシップに敬意を表する)


「ヨトゴォル……」


 その声にはなんの感情も読み取れない。ただエリオンに語りかけているだけの、自然現象だった。それはむしろ、今の彼にはありがたい。


「なあ、魔王存在よ」


 エリオンは応答した。


「この世界を、もっとマシなものにしたかったなあ」


(今、この空間には装置の余波としてソウツェクが溢れている。お前が願えば、タティオンが作ろうとした世界程度であれば作り出せる)


「そうか」


 沈黙があった。呼吸が弱くなりつつあるレカが、血が渇いてこびりついた唇を動かして笑った。


「へへ、なんか言ってらあ……エリオン?」


「ん?」


「何か、願う世界って、ある……?」


 エリオンはゆっくりと首を横に振った。


「いや、別に……とにかく今は、休みたいな……」


 エリオンは、疲れていた。レカもまた、疲れていた。死闘の後の……すべてを喪失した二人には……願う力すらなかった。


(結節点よ)


 ヨトゴォルが語りかける。感情のないはずの声に、エリオンは優しさを感じ取った。


(罪を犯したものも、被害に遭ったものも……等しく犠牲者だ…人間の社会というものはそういうものだ。負い目を鍵に複雑化していくのだ。そのこと自体に疲れたのか?)


 エリオンは頷いた。レカを膝の上に置いたまま……顔を上げた。壁面を見た。ヨトゴォルの身体の一部が脈動している。有機的な壁面が……ゆっくりと、ゆっくりと、呼吸するように動いている。


 五十年間の対話者。


 五十年前にリミナルダンジョンの最深部で初めて接触し、世界の構造を知った相手。以来五十年間……エリオンはこの存在の声を聞いてきた。不老の体で、五十年間、壊れることなく。


 エリオンは……その最後のやりとりを、返そうとしていた。


 壁面の脈動が……微かに、変わった。空気の密度が変わった。ヨトゴォルの身体が……端子の発信を検知していた。五十年間の観測データの最終報告。


 エリオンは口を開いた。


「もう……十分だ」


 声は小さかった。英雄の声ではなかった。宣言でもなかった。……ただの、疲れた男の声だった。


「勇者、勇者か。ふふ、ヒーロー。ユスフ先生は間違いなくヒーローだった」


(その通りだ)


「世界を救うために自らをお前に捧げ……ソウツェクの枯渇を遅らせたんだ。五十年も……」


(その通りだ。結節点よ。オマエもそれを選ぶのか? その娘と一緒に身を捧げるなら、パラクロノスを消失から戻せるぞ?)


「いや……俺にそんな勇気はないよ」


 エリオンは膝の上のレカを見下ろした。銀色の髪が汗と血で額に張りついている。極限の疲労が浮かぶ顔。その瞳がレカを見つめている時だけ、瞳の奥に微かな光が残っていた。


 レカの顔を見た。


 別の世界でも、同じ顔を見た。同じ赤い瞳を。同じポニーテールの結び目を。同じ口の悪い笑い方を。あの世界のレカは死んだ。この世界のレカは……腕の中で、まだ呼吸している。まだ、温かい。


 エリオンの視線が、レカの顔から少し離れた場所のゼゴの小さな背中へ、そしてガズボの動かない巨体へ、タティオンの伸ばされたまま止まった手へ、順に移っていった。


「……この子も俺も、本当に疲れてるんだ」


 声が、静かだった。壁面の脈動に紛れるほどの声だった。ヨトゴォルに語りかけているのか、自分自身に言い聞かせているのか、区別がつかなかった。


「重大な決断をさせないでやってくれ。この子にも、あそこで動かなくなった連中にも、……俺にも」


 一拍、息を吸った。折れかけた声を繋ぐための息だった。


「勇気なんか、見せる気はないって言ってるんだ。ユスフ先生は勇者だった。タティは天才だった。俺はどっちでもない。罪の贖いも、清算も、英雄的な犠牲も……全部、拒否する」


(なるほど)


 エリオンは、その声の中に確かに高揚を聞いた。


(結節点よ。人間は全員が罪人であり、そしてなおかつ全員が無罪だ。なぜなら人間は罪を犯しつつも、罪を背負う能力も資格もない。全員が運命のマリオネットに過ぎないなら、責任は赦免され、そして取り上げられている。だが、この娘は自分でマリオネットの糸を、そのスティレットの意志で切り裂いた。そしてもはや……)


「スティレットでもない」


 エリオンが最後の言葉を代言すると、声が途切れた。途切れたまま、エリオンの小さな手がレカの髪に触れた。汗と血で固まった髪を、指先が梳くように撫でた。絵筆を持つ時の手つきだった。繊細で、慎重で、壊れやすいものに触れる時の動きだった。


「……終わりにしよう。俺たちは、誰一人としてマリオネットではないのだから。誰一人として、スティレットのようにとがる必要なんてないのだから」


 呟きだった。宣言ではなかった。


「人間は……勇気を出す必要なんか、ないんだ」


 その一言で、声の質が変わった。英雄の残響が消えた。冒険者ギルド長の威厳が消えた。五十年間の「正しくあり続ける」が消えた。残ったのは、ただの疲れ果てた男の、絞り出すような声だった。


「俺は……レカは……いや、俺たちみんなは……」


 言葉を探していた。適切な言葉を。しかし六十七年分の語彙の中に、今この瞬間に必要な言葉はなかった。だから、一番簡単な言葉が出てきた。


「……じっと、休んでいたいんだ」


 膝の上のレカが、微かに笑った気がした。笑ったのか、痛みで顔が歪んだのか、わからなかった。


「ヨトゴォル」


 壁面の脈動が応答した。振動が変わった。空気が重くなった。ヨトゴォルの身体が注意を向けている。意思ではない。自動的な反応。センサーが異常値を報告している時に、身体が自動的にそちらを向くのと同じ。


「全ての責任を……消してしまえ」


 エリオンの声が少しだけ、強くなった。強くなったというよりも……絞り出された。五十年間の底に沈んでいたものが、最後の力で浮かび上がってきた。


「全ての意思を。全ての選択を。……俺たちから取り上げてくれ」


 不完全な人間の、不完全な願い。自分の不完全さの宣言。世界の重責を背負わされ続ける現実への拒絶。しかしそれは、完璧を求めたタティオンの計画よりも、はるかに誠実な答えだった。タティオンは世界を自分の都合に合わせて作り直そうとした。エリオンは……自分にはそんな力がないと認めた。ただそれだけのことが……五十年かかった。


「もういい」


 エリオンの赤い瞳が壁面の脈動を見つめていた。膝の上のレカの体温を感じながら。


「俺たちに……この娘たちに……いったいどれだけの責任が背負えるっていうんだ」


 腕の中のレカに言っているのか。シャルトリューズの傍から離れないゼゴに言っているのか。ヨトゴォルに言っているのか。あるいは……五十年前に死んだユスフに言っているのか。エリオン自身にもわからなかった。


「俺たちは……選ぶことを拒否する。殺すことを拒否する。奪うことを拒否する」


 一拍。


「それでも生きていける……平和な世界を望む。ヨトゴォル! この空間にあるソウツェクを全ての並行世界に分配しろ! 俺たちをその中のひとつに転生させろ!」


 最後の言葉が壁面の振動として、ヨトゴォルの身体に伝わった。


 エリオンの赤い瞳からヨトゴォルの身体の内部に。センサーの最終読み取り値。五十年間パラクロノス世界線を観測し続けた端子が返した、最後の報告。


 ……この世界には、並行世界のすべてには、もう特別な保護も、収奪も、不要である。


(了解した)


 ヨトゴォルの身体が反応した。


(結節点よ、オマエがそう望むのなら)


「オマエじゃない、俺たちさ」


 壁面の脈動が変わった。これまでの不規則な脈動が……ゆっくりと、均一なリズムに移行し始めた。空洞の空気が変わった。重さが消えた。圧力が消えた。代わりに、何か別のものが、空間全体に広がり始めていた。


 ヨトゴォルは意思を持たない。心臓が意思で脈を打たないように。肺が意思で呼吸しないように。ヨトゴォルの恒常性維持機能が、エリオンの意思を受け取り、多元並行世界の収奪構造が……ゆっくりと、均一化へと向かい始めた。


 その変化は……静かだった。


 地味だった。


 英雄的な光とは無縁だった。


 空洞の壁面が、少しだけ暖かくなった。ソウツェクの導管が、少しだけ明るくなった。……それだけだった。世界が変わり始めているのに、それを示す劇的な演出は何もなかった。


 誰も称えない。誰も気づかない。


 ……それでいい、とエリオンは思った。




          *




 エリオンはレカを抱えたまま、動かなかった。


 英雄の仮面はもうない。白金剣級冒険者の威光もない。……ただの老いた少年が、傷だらけの若い娘を抱えて、ダンジョンの床の上に座っている。銀色の髪が汗で額に張りつき、赤い瞳が疲弊で濁り、少年の姿のまま六十七年分の重みを載せている。


「おとーさん……」


 レカの割れた唇から、最後とも思える細い息が漏れ、そこに声が混じっていた。エリオンの頭の耳がピクピクと反応する。


「うん、なんだい?」


「……好き」


「俺も好きだよ。そして、ごめんな。こんなつまらない結果になって……」


 レカの体が震える。笑っているのかもしれない。


「謝るなよ」


「おう」


「あー……寒くなってきた。あったかいなあ、エリオンは……」


 少し離れた場所で……ゼゴが、動かない触手に手を置いたまま、同じ方向を見ていた。盲目の赤い瞳が……何も映さない。しかしゼゴの体が……壁面の脈動の変化を、皮膚の振動として感じ取っていた。何かが変わっている。何かが……ゆっくりと、静かに、変わり始めている。


 レカの意思も。エリオンの責務も。……どだい個人に背負い切れるものではなかったのだ。


 レカの手に最後まで残っていたペンダントが光に飲まれた。


 世界が……変わり始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ