六十五 マリオネットではない、スティレットでもない
「レカ! ……生きてるのか?」
「いちおーな……」
笑おうとした口元が、途中で歪んだ。息を吸う動作が肋骨の破片を内臓に押し込み、胸腔の奥で何かが裂けた。レカの顔から血の気が引いていた。唇の色が消え、頬が蒼白く透けている。呼吸のたびに口の端から赤黒い泡が滲み、拭う手が動かない。両腕はとうに感覚を失っていた。ただ左の手のひらだけが、まだ何かを握っていた。錆びた金属の角が指に食い込む感覚が、身体の中で最後に残った輪郭だった。
「もう、痛みもよくわかんねーや……でも、生きてるよ、エリオン」
「レカ……」
体の内側で、折れた骨が臓腑を傷つけるたびに、温かいものが胸の底に溜まっていく。痛みはもう痛みとして届かなかった。ただ、体温が……少しずつ、自分の輪郭の内側から抜けていく感覚だけがあった。
「へへ……今寝たら……二度と目覚めないだろーけど」
空洞が静かだった。
戦闘の音が消えている。装置の赤い光が消えている。異世界勢力の光弾の残響が消えている。オルタナティブ現実の鐘の音が消えている。……全てが消えた後に残ったのは、ヨトゴォルの身体の脈動だけだった。有機的な壁面が、ゆっくりと、ゆっくりと、脈を打っている。生きている。この空間は……多元並行世界の全てを身体とする存在の、神経節の一部だ。
エリオンは座っていた。
リミナルダンジョンの白い床の上に。膝の上にレカの頭を載せて。両腕でレカの上半身を支えながら……動かなかった。
レカの赤い瞳が閉じている。呼吸は……ある。浅く、不規則だが、まだ肺が動いている。額の血が止まりかけている。両腕は動かない。体の損傷は深い。しかし……まだ、生きている。
だがエリオンにはわかっていた。この子はもう助からないことを。
少し離れた場所に……ゼゴがいた。
シャルトリューズの亡骸の傍に、座り込んでいた。
目が見えないゼゴの小さな手が……動かなくなった触手に触れていた。触れ続けていた。触手の形が崩れかけている。ピンクの燐光は消えている。温もりが……少しずつ、失われていく。それでもゼゴは離れなかった。盲目の赤い瞳が何も映さないまま……小さな手が、触手の表面を撫で続けていた。
ガズボの巨体が……少し向こうに横たわっていた。大きな体はもう呼吸で動くこともない。黄色い目は閉じ、もう開かない。
タティオンの体が……装置の残骸の手前に横たわっていた。灰色の髪が石畳に広がっている。右手が伸びたまま、止まっている。レカの方に向かって伸ばされた手。届かなかった手。
「疲れたなあ、レカ」
エリオンは……五十年間のことを思った。正しくあり続けると決めた。それだけを……五十年間、守り続けてきた。
何も変えられなかった。
略奪構造を嫌悪しながら、その構造の最大の恩恵者として君臨し続けた。他の世界線からソウツェクを吸い上げ、他の世界を殺し続けている、そしてまた自分たちも奪われ滅びる運命にある……その事実を知りながら、黙り続けた。英雄の仮面を被り、評議会で発言し、ダンジョンを探索し、市民を守り……しかし構造そのものには、指一本触れなかった。触れる力がなかった。触れる勇気がなかった。
英雄として称えられながら……街を守れなかった。
腕の中にいるのは……タティオンが産ませ、タティオンが育て、タティオンが壊し続けた子だ。十歳で娼館で母を死なせた客を殺し、十一歳で暗殺任務に失敗してエリオンのアトリエに落ちてきた子。傷だらけで。ただの子供で。……あの時から八年。この子は暗殺者として機能し続け、人を殺し続け、罪を背負い続け、最後に父に向かって走った。決意ではなく。使命感でもなく。ただ……生き延びようとして抗い、その結果として父を倒した。
あまりにも哀れで、あまりにも強い。
(結節点よ、お前たちのリレーションシップに敬意を表する)
「ヨトゴォル……」
その声にはなんの感情も読み取れない。ただエリオンに語りかけているだけの、自然現象だった。それはむしろ、今の彼にはありがたい。
「なあ、魔王存在よ」
エリオンは応答した。
「この世界を、もっとマシなものにしたかったなあ」
(今、この空間には装置の余波としてソウツェクが溢れている。お前が願えば、タティオンが作ろうとした世界程度であれば作り出せる)
「そうか」
沈黙があった。呼吸が弱くなりつつあるレカが、血が渇いてこびりついた唇を動かして笑った。
「へへ、なんか言ってらあ……エリオン?」
「ん?」
「何か、願う世界って、ある……?」
エリオンはゆっくりと首を横に振った。
「いや、別に……とにかく今は、休みたいな……」
エリオンは、疲れていた。レカもまた、疲れていた。死闘の後の……すべてを喪失した二人には……願う力すらなかった。
(結節点よ)
ヨトゴォルが語りかける。感情のないはずの声に、エリオンは優しさを感じ取った。
(罪を犯したものも、被害に遭ったものも……等しく犠牲者だ…人間の社会というものはそういうものだ。負い目を鍵に複雑化していくのだ。そのこと自体に疲れたのか?)
エリオンは頷いた。レカを膝の上に置いたまま……顔を上げた。壁面を見た。ヨトゴォルの身体の一部が脈動している。有機的な壁面が……ゆっくりと、ゆっくりと、呼吸するように動いている。
五十年間の対話者。
五十年前にリミナルダンジョンの最深部で初めて接触し、世界の構造を知った相手。以来五十年間……エリオンはこの存在の声を聞いてきた。不老の体で、五十年間、壊れることなく。
エリオンは……その最後のやりとりを、返そうとしていた。
壁面の脈動が……微かに、変わった。空気の密度が変わった。ヨトゴォルの身体が……端子の発信を検知していた。五十年間の観測データの最終報告。
エリオンは口を開いた。
「もう……十分だ」
声は小さかった。英雄の声ではなかった。宣言でもなかった。……ただの、疲れた男の声だった。
「勇者、勇者か。ふふ、ヒーロー。ユスフ先生は間違いなくヒーローだった」
(その通りだ)
「世界を救うために自らをお前に捧げ……ソウツェクの枯渇を遅らせたんだ。五十年も……」
(その通りだ。結節点よ。オマエもそれを選ぶのか? その娘と一緒に身を捧げるなら、パラクロノスを消失から戻せるぞ?)
「いや……俺にそんな勇気はないよ」
エリオンは膝の上のレカを見下ろした。銀色の髪が汗と血で額に張りついている。極限の疲労が浮かぶ顔。その瞳がレカを見つめている時だけ、瞳の奥に微かな光が残っていた。
レカの顔を見た。
別の世界でも、同じ顔を見た。同じ赤い瞳を。同じポニーテールの結び目を。同じ口の悪い笑い方を。あの世界のレカは死んだ。この世界のレカは……腕の中で、まだ呼吸している。まだ、温かい。
エリオンの視線が、レカの顔から少し離れた場所のゼゴの小さな背中へ、そしてガズボの動かない巨体へ、タティオンの伸ばされたまま止まった手へ、順に移っていった。
「……この子も俺も、本当に疲れてるんだ」
声が、静かだった。壁面の脈動に紛れるほどの声だった。ヨトゴォルに語りかけているのか、自分自身に言い聞かせているのか、区別がつかなかった。
「重大な決断をさせないでやってくれ。この子にも、あそこで動かなくなった連中にも、……俺にも」
一拍、息を吸った。折れかけた声を繋ぐための息だった。
「勇気なんか、見せる気はないって言ってるんだ。ユスフ先生は勇者だった。タティは天才だった。俺はどっちでもない。罪の贖いも、清算も、英雄的な犠牲も……全部、拒否する」
(なるほど)
エリオンは、その声の中に確かに高揚を聞いた。
(結節点よ。人間は全員が罪人であり、そしてなおかつ全員が無罪だ。なぜなら人間は罪を犯しつつも、罪を背負う能力も資格もない。全員が運命のマリオネットに過ぎないなら、責任は赦免され、そして取り上げられている。だが、この娘は自分でマリオネットの糸を、そのスティレットの意志で切り裂いた。そしてもはや……)
「スティレットでもない」
エリオンが最後の言葉を代言すると、声が途切れた。途切れたまま、エリオンの小さな手がレカの髪に触れた。汗と血で固まった髪を、指先が梳くように撫でた。絵筆を持つ時の手つきだった。繊細で、慎重で、壊れやすいものに触れる時の動きだった。
「……終わりにしよう。俺たちは、誰一人としてマリオネットではないのだから。誰一人として、スティレットのようにとがる必要なんてないのだから」
呟きだった。宣言ではなかった。
「人間は……勇気を出す必要なんか、ないんだ」
その一言で、声の質が変わった。英雄の残響が消えた。冒険者ギルド長の威厳が消えた。五十年間の「正しくあり続ける」が消えた。残ったのは、ただの疲れ果てた男の、絞り出すような声だった。
「俺は……レカは……いや、俺たちみんなは……」
言葉を探していた。適切な言葉を。しかし六十七年分の語彙の中に、今この瞬間に必要な言葉はなかった。だから、一番簡単な言葉が出てきた。
「……じっと、休んでいたいんだ」
膝の上のレカが、微かに笑った気がした。笑ったのか、痛みで顔が歪んだのか、わからなかった。
「ヨトゴォル」
壁面の脈動が応答した。振動が変わった。空気が重くなった。ヨトゴォルの身体が注意を向けている。意思ではない。自動的な反応。センサーが異常値を報告している時に、身体が自動的にそちらを向くのと同じ。
「全ての責任を……消してしまえ」
エリオンの声が少しだけ、強くなった。強くなったというよりも……絞り出された。五十年間の底に沈んでいたものが、最後の力で浮かび上がってきた。
「全ての意思を。全ての選択を。……俺たちから取り上げてくれ」
不完全な人間の、不完全な願い。自分の不完全さの宣言。世界の重責を背負わされ続ける現実への拒絶。しかしそれは、完璧を求めたタティオンの計画よりも、はるかに誠実な答えだった。タティオンは世界を自分の都合に合わせて作り直そうとした。エリオンは……自分にはそんな力がないと認めた。ただそれだけのことが……五十年かかった。
「もういい」
エリオンの赤い瞳が壁面の脈動を見つめていた。膝の上のレカの体温を感じながら。
「俺たちに……この娘たちに……いったいどれだけの責任が背負えるっていうんだ」
腕の中のレカに言っているのか。シャルトリューズの傍から離れないゼゴに言っているのか。ヨトゴォルに言っているのか。あるいは……五十年前に死んだユスフに言っているのか。エリオン自身にもわからなかった。
「俺たちは……選ぶことを拒否する。殺すことを拒否する。奪うことを拒否する」
一拍。
「それでも生きていける……平和な世界を望む。ヨトゴォル! この空間にあるソウツェクを全ての並行世界に分配しろ! 俺たちをその中のひとつに転生させろ!」
最後の言葉が壁面の振動として、ヨトゴォルの身体に伝わった。
エリオンの赤い瞳からヨトゴォルの身体の内部に。センサーの最終読み取り値。五十年間パラクロノス世界線を観測し続けた端子が返した、最後の報告。
……この世界には、並行世界のすべてには、もう特別な保護も、収奪も、不要である。
(了解した)
ヨトゴォルの身体が反応した。
(結節点よ、オマエがそう望むのなら)
「オマエじゃない、俺たちさ」
壁面の脈動が変わった。これまでの不規則な脈動が……ゆっくりと、均一なリズムに移行し始めた。空洞の空気が変わった。重さが消えた。圧力が消えた。代わりに、何か別のものが、空間全体に広がり始めていた。
ヨトゴォルは意思を持たない。心臓が意思で脈を打たないように。肺が意思で呼吸しないように。ヨトゴォルの恒常性維持機能が、エリオンの意思を受け取り、多元並行世界の収奪構造が……ゆっくりと、均一化へと向かい始めた。
その変化は……静かだった。
地味だった。
英雄的な光とは無縁だった。
空洞の壁面が、少しだけ暖かくなった。ソウツェクの導管が、少しだけ明るくなった。……それだけだった。世界が変わり始めているのに、それを示す劇的な演出は何もなかった。
誰も称えない。誰も気づかない。
……それでいい、とエリオンは思った。
*
エリオンはレカを抱えたまま、動かなかった。
英雄の仮面はもうない。白金剣級冒険者の威光もない。……ただの老いた少年が、傷だらけの若い娘を抱えて、ダンジョンの床の上に座っている。銀色の髪が汗で額に張りつき、赤い瞳が疲弊で濁り、少年の姿のまま六十七年分の重みを載せている。
「おとーさん……」
レカの割れた唇から、最後とも思える細い息が漏れ、そこに声が混じっていた。エリオンの頭の耳がピクピクと反応する。
「うん、なんだい?」
「……好き」
「俺も好きだよ。そして、ごめんな。こんなつまらない結果になって……」
レカの体が震える。笑っているのかもしれない。
「謝るなよ」
「おう」
「あー……寒くなってきた。あったかいなあ、エリオンは……」
少し離れた場所で……ゼゴが、動かない触手に手を置いたまま、同じ方向を見ていた。盲目の赤い瞳が……何も映さない。しかしゼゴの体が……壁面の脈動の変化を、皮膚の振動として感じ取っていた。何かが変わっている。何かが……ゆっくりと、静かに、変わり始めている。
レカの意思も。エリオンの責務も。……どだい個人に背負い切れるものではなかったのだ。
レカの手に最後まで残っていたペンダントが光に飲まれた。
世界が……変わり始めていた。




